最後まで言えなかったこと
この物語は、ある夫婦の短い時間と、そのあとに残された想いを描いた一話完結の作品です。
特別な出来事よりも、何気ない日常の中で失われていくものを大切に書きました。
読んでいただけたら嬉しいです。
診察室の時計は、秒針の音がはっきり聞こえた。
こんなに静かな場所で、時間だけが主張するのは不思議だった。
医師の説明は丁寧だった。
専門用語を噛み砕き、選択肢を示し、最後に余命という言葉を置く。
半年から一年。
夫は黙ってうなずいていた。
私は、その横顔を見ていた。
驚いているようにも、取り乱しているようにも見えなかった。
「質問はありますか」
夫は少し間を置いて言った。
「仕事は、続けられますか」
医師は少し驚いた顔をしてから、条件付きで可能だと答えた。
その瞬間、夫の肩がわずかに下がるのを、私は見逃さなかった。
病院を出ると、外は思ったより明るかった。
世界は何も変わっていない。
「お腹すいたな」
夫がそう言って、コンビニに寄った。
甘いパンと、コーヒーを二つ。
その日から、生活はゆっくり変わっていった。
大きくは変えなかった。
変えたくなかった。
夫は仕事に行き、私は家事をする。
夕食の時間だけが、少し特別になる。
遅くなっても、私は起きて待った。
夫は申し訳なさそうにしながら、でも必ず「ただいま」と言った。
治療が始まると、体は正直だった。
髪が抜け、食欲が落ち、疲れやすくなる。
それでも夫は、できるだけ普通でいようとした。
弱音はほとんど吐かなかった。
夜、夫が眠ったあと、私は台所で泣いた。
音を立てないように、水を流しながら。
春になって、桜が咲いた。
夫はどうしても見たいと言った。
近所の公園まで、ゆっくり歩く。
途中で何度も立ち止まった。
「来年も咲くんだよな」
夫は桜を見上げて、そう言った。
私はうなずいたけれど、胸が苦しくて、何も言えなかった。
夏が近づく頃、入院が決まった。
家に帰ることは、もう難しいと言われた。
病室は静かだった。
機械の音が、一定のリズムで鳴っている。
私は毎日通った。
話すことがなくても、そばにいた。
「ありがとう」
夫はよくそう言った。
「当たり前でしょ」
そう返しながら、私はその言葉が怖かった。
ある日、夫はほとんど話さなくなった。
呼吸が浅く、目を閉じている時間が増えた。
夜、医師に呼ばれた。
覚悟をしてください、と。
病室に戻ると、夫はかすかに目を開けた。
私は手を握り、名前を呼んだ。
「ありがとう」
それが、最後の言葉だった。
呼吸が止まり、時間を告げられ、カーテンが閉められる。
現実は、すぐには追いつかなかった。
葬式が終わり、人が帰り、部屋に静けさが戻った。
夫の靴も、服も、そのままだった。
私は洗濯をして、掃除をして、夕食を作った。
一人分だけ。
それが現実だと、頭ではわかっていた。
でも、手が勝手に動いているだけで、気持ちはどこにも追いついていなかった。
数日後、クローゼットの奥で、小さな箱を見つけた。
冬物のコートのさらに奥。
私が普段触らない場所だった。
箱の中には、封筒が一つだけ入っていた。
私の名前が、見慣れた字で書かれている。
開けるのが怖かった。
でも、閉じたままにもできなかった。
―――――
もしこれを読んでいるなら、
俺はもう君の隣にはいない。
まず、それだけで胸が苦しくなったら、ごめん。
でも、どうしても書いておきたかった。
正直に言う。
俺は、最後まで生きたかった。
強がりじゃない。
覚悟ができていたわけでもない。
朝起きて、君が台所に立つ音を聞いて、
それだけで今日も生き延びた気がしていた。
だから毎朝、目が覚めるたびに少し嬉しくて、
同時に、怖かった。
君と過ごす日常が、
こんなにも惜しくなるとは思っていなかった。
味噌汁の味も、
洗濯物の干し方も、
何でもない会話も。
全部、続くものだと思っていた。
弱っていく俺の代わりに、
君が当たり前みたいに全部を引き受けてくれたこと、
俺はちゃんと見ていた。
できなくなったことを、
一度も責めなかったことも。
俺が眠っている間に、
一人で泣いていたかもしれないことも、
気づいていた。
それでも君は、
俺の前では、いつも通りだった。
それが、どれだけ救いだったか、
言葉にすると足りなくなる。
俺は先に行く。
これは、選んだわけじゃない。
でも、結果として、
君をこの先の時間に一人で立たせてしまう。
そのことを思うたび、
胸の奥が締めつけられた。
守ると言った。
一緒に歳を取ると言った。
当たり前みたいに、未来の話をした。
全部、途中で置いていく形になる。
それが、悔しくて、
情けなくて、
どうしようもなかった。
それでも、君には生きてほしい。
俺のいない時間を、
ちゃんと笑って、怒って、
疲れて、また立ち上がってほしい。
俺がそばにいないことで、
君の人生が止まるのだけは、
どうしても見たくなかった。
だから、もし時々思い出して、
胸が痛くなったら、
それは悪いことじゃない。
それだけ一緒に生きた、
という証拠だから。
ありがとう。
支えてくれて。
隣にいてくれて。
俺の人生を、
最後まで、人の温度で満たしてくれて。
君に出会えたことだけは、
最期まで、誇りだった。
―――――
手紙は、そこで終わっていた。
私は何度も読み返した。
文字が滲んで、途中で読めなくなる。
彼は、
生きたかったことも、
一人にするつもりはなかったことも、
全部、置いていった。
私は封筒を胸に抱えた。
いなくなったことは、許せない。
でも、想いまで残されたら、
生きるしかなかった。
明日は来る。
彼のいない世界で。
それでも私は、生きる。
彼が、途中まで一緒に作った時間を、
無駄にしないために。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
「生きたかった」という気持ちと、「残してしまう側の痛み」は、同時に存在できるのではないかと思いながら書きました。
悲しさだけで終わらず、誰かの明日にそっと寄り添えたら幸いです。




