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最後まで言えなかったこと

作者: ねごろや
掲載日:2025/12/24

この物語は、ある夫婦の短い時間と、そのあとに残された想いを描いた一話完結の作品です。

特別な出来事よりも、何気ない日常の中で失われていくものを大切に書きました。

読んでいただけたら嬉しいです。

診察室の時計は、秒針の音がはっきり聞こえた。

こんなに静かな場所で、時間だけが主張するのは不思議だった。


医師の説明は丁寧だった。

専門用語を噛み砕き、選択肢を示し、最後に余命という言葉を置く。


半年から一年。


夫は黙ってうなずいていた。

私は、その横顔を見ていた。

驚いているようにも、取り乱しているようにも見えなかった。


「質問はありますか」


夫は少し間を置いて言った。


「仕事は、続けられますか」


医師は少し驚いた顔をしてから、条件付きで可能だと答えた。

その瞬間、夫の肩がわずかに下がるのを、私は見逃さなかった。


病院を出ると、外は思ったより明るかった。

世界は何も変わっていない。


「お腹すいたな」


夫がそう言って、コンビニに寄った。

甘いパンと、コーヒーを二つ。


その日から、生活はゆっくり変わっていった。

大きくは変えなかった。

変えたくなかった。


夫は仕事に行き、私は家事をする。

夕食の時間だけが、少し特別になる。


遅くなっても、私は起きて待った。

夫は申し訳なさそうにしながら、でも必ず「ただいま」と言った。


治療が始まると、体は正直だった。

髪が抜け、食欲が落ち、疲れやすくなる。


それでも夫は、できるだけ普通でいようとした。

弱音はほとんど吐かなかった。


夜、夫が眠ったあと、私は台所で泣いた。

音を立てないように、水を流しながら。


春になって、桜が咲いた。

夫はどうしても見たいと言った。


近所の公園まで、ゆっくり歩く。

途中で何度も立ち止まった。


「来年も咲くんだよな」


夫は桜を見上げて、そう言った。

私はうなずいたけれど、胸が苦しくて、何も言えなかった。


夏が近づく頃、入院が決まった。

家に帰ることは、もう難しいと言われた。


病室は静かだった。

機械の音が、一定のリズムで鳴っている。


私は毎日通った。

話すことがなくても、そばにいた。


「ありがとう」


夫はよくそう言った。


「当たり前でしょ」


そう返しながら、私はその言葉が怖かった。


ある日、夫はほとんど話さなくなった。

呼吸が浅く、目を閉じている時間が増えた。


夜、医師に呼ばれた。

覚悟をしてください、と。


病室に戻ると、夫はかすかに目を開けた。

私は手を握り、名前を呼んだ。


「ありがとう」


それが、最後の言葉だった。


呼吸が止まり、時間を告げられ、カーテンが閉められる。

現実は、すぐには追いつかなかった。


葬式が終わり、人が帰り、部屋に静けさが戻った。

夫の靴も、服も、そのままだった。


私は洗濯をして、掃除をして、夕食を作った。

一人分だけ。


それが現実だと、頭ではわかっていた。

でも、手が勝手に動いているだけで、気持ちはどこにも追いついていなかった。


数日後、クローゼットの奥で、小さな箱を見つけた。

冬物のコートのさらに奥。

私が普段触らない場所だった。


箱の中には、封筒が一つだけ入っていた。

私の名前が、見慣れた字で書かれている。


開けるのが怖かった。

でも、閉じたままにもできなかった。


―――――


もしこれを読んでいるなら、

俺はもう君の隣にはいない。


まず、それだけで胸が苦しくなったら、ごめん。

でも、どうしても書いておきたかった。


正直に言う。

俺は、最後まで生きたかった。


強がりじゃない。

覚悟ができていたわけでもない。


朝起きて、君が台所に立つ音を聞いて、

それだけで今日も生き延びた気がしていた。

だから毎朝、目が覚めるたびに少し嬉しくて、

同時に、怖かった。


君と過ごす日常が、

こんなにも惜しくなるとは思っていなかった。


味噌汁の味も、

洗濯物の干し方も、

何でもない会話も。


全部、続くものだと思っていた。


弱っていく俺の代わりに、

君が当たり前みたいに全部を引き受けてくれたこと、

俺はちゃんと見ていた。


できなくなったことを、

一度も責めなかったことも。


俺が眠っている間に、

一人で泣いていたかもしれないことも、

気づいていた。


それでも君は、

俺の前では、いつも通りだった。


それが、どれだけ救いだったか、

言葉にすると足りなくなる。


俺は先に行く。

これは、選んだわけじゃない。


でも、結果として、

君をこの先の時間に一人で立たせてしまう。


そのことを思うたび、

胸の奥が締めつけられた。


守ると言った。

一緒に歳を取ると言った。

当たり前みたいに、未来の話をした。


全部、途中で置いていく形になる。


それが、悔しくて、

情けなくて、

どうしようもなかった。


それでも、君には生きてほしい。


俺のいない時間を、

ちゃんと笑って、怒って、

疲れて、また立ち上がってほしい。


俺がそばにいないことで、

君の人生が止まるのだけは、

どうしても見たくなかった。


だから、もし時々思い出して、

胸が痛くなったら、

それは悪いことじゃない。


それだけ一緒に生きた、

という証拠だから。


ありがとう。

支えてくれて。

隣にいてくれて。


俺の人生を、

最後まで、人の温度で満たしてくれて。


君に出会えたことだけは、

最期まで、誇りだった。


―――――


手紙は、そこで終わっていた。


私は何度も読み返した。

文字が滲んで、途中で読めなくなる。


彼は、

生きたかったことも、

一人にするつもりはなかったことも、

全部、置いていった。


私は封筒を胸に抱えた。


いなくなったことは、許せない。

でも、想いまで残されたら、

生きるしかなかった。


明日は来る。

彼のいない世界で。


それでも私は、生きる。

彼が、途中まで一緒に作った時間を、

無駄にしないために。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

「生きたかった」という気持ちと、「残してしまう側の痛み」は、同時に存在できるのではないかと思いながら書きました。

悲しさだけで終わらず、誰かの明日にそっと寄り添えたら幸いです。

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