表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/18

アレッサンドラ 第2章②:母の記憶

 優しい光。

 窓辺に寄り添うように座る母の周りを、淡い輝きが包んでいた。

 夕暮れ時の日差しだったのか、それとも記憶が美しく色づいているのか。

 幼いアレッサンドラの記憶の中で、母の姿は、いつも柔らかな光に縁取られている。


 母の部屋は城の東側にあった。

 大きな窓からは朝日が差し込み、王宮の庭が一望できる。

 広大な庭園は、腕利きの庭師たちが朝から晩まで手入れに余念がなかった。

 整然と刈り込まれた生垣、色とりどりの花壇、美しく剪定された並木。

 その中で、一際輝くように咲いていたのが、母の白薔薇。


「アレッサンドラ、こちらにいらっしゃい」


 その声にも、暖かな光が溶け込んでいるような気がした。

 朝の日課は、母の膝の上で本を読むこと。

 時には童話を、時には詩を。

 母の声は、どんな物語も魔法のように輝かせた。


 昼下がりには、二人で庭を散歩する。

 庭師長が恭しく頭を下げ、今日の手入れの予定を告げる。

 母はそれを静かに聞き、微笑みながら頷く。

 けれど白薔薇の前に来ると、庭師たちに下がるよう手を振った。


「この子たちは、私が育てるの」


 母は誰にも白薔薇の手入れを任せなかった。

 白い手袋を外し、素手で茎に触れる。

 丁寧に水をあげ、一枚一枚の葉を確認し、枯れた花を摘み取る。


「王妃様、私どもにお任せください」


 庭師長がそう願い出ても、母は静かに首を振った。


「この子たちは、とても繊細で気高い花なの」


 母は薔薇に触れながら、微笑みかける。


「でも、この棘を見て? これは自分を守るためのもの。強さと気品、両方を持ち合わせているのよ」


 手の甲に残る小さな傷。

 それは薔薇への愛情の証だと、母は言っていた。


「美しいものには、時として痛みが伴うもの。でも、その分だけ、愛おしさも深まるのよ」


 幼いアレッサンドラには、その意味が完全には理解できなかった。

 けれど、薔薇に触れる母の手の優しさは、確かに心に染み込んでいった。


 夕暮れ時が、最も幸せな時間。

 母の膝に座り、大きな窓の外を眺める。

 庭師たちが一日の仕事を終え、帰っていく。

 風に揺られる白薔薇が、夕陽を受けて淡く輝いていた。


「ごらんなさい、この花たちは一輪一輪が命を持っているのよ」


 柔らかな手が、アレッサンドラの髪を優しく撫でる。


「でも、一つだけでは生きていけないの。土があり、水があり、風があり、そして光がある。みんなが支え合って、命は輝くのよ」


 そして母は歌い始める。

 いつも決まってその歌から。


 ——小さな芽が、土から顔を出す


 アレッサンドラは全身で母の歌声を感じていた。

 その響きは、まるで白薔薇の香りのように清らか。

 歌声に合わせて、母の胸が静かに震える。

 その振動が、直接心に伝わってくるような気がした。


「命は、この世界で最も尊いもの。人は決して一人では存在できないの」


 母の教えは、いつも歌とともにあった。

 言葉の意味は分からなくても、その大切さは伝わってきた。

 まるで歌そのものが、凛と咲く白薔薇の如く。


 母との思い出は、そんな光と香りに満ちた日々の連なり。

 永遠に続くと思っていた、幸せな時間。

 白薔薇の花のように、清らかで美しい記憶。


---


 季節が移ろい、白薔薇が花開く時期が近づいていた。

 その年、母は病に伏した。


「お母様、白薔薇が咲きそうですよ」


 アレッサンドラは毎日、庭の様子を母に伝えた。

 窓辺で過ごすことすらできなくなった母は、か細い声で問いかける。


「……そう、蕾は大きくなってきた?」

「はい。もうすぐ咲きそうです」


 数輪が咲き始めたことを伝えると、母は庭師長を呼んだ。


「アレッサンドラに、白薔薇の手入れの仕方を教えてあげなさい」


 普段は誰にも手入れを任せなかった白薔薇。

 それを庭師長に教えるよう頼むということは、自らに残された時間を悟っていたのかもしれない。


 アレッサンドラは毎日、病床の母の傍らで、白薔薇の手入れを教わった。


「茎はこうして切るのです」

「葉が重なり合うと、病気になってしまいます」

「水は、朝の涼しいうちにあげましょう」


 白薔薇の世話は、思っていた以上に難しかった。

 棘に刺されて小さな傷がつくたび、庭師長は心配そうな顔をした。

 けれどアレッサンドラは、母の言葉を思い出して微笑んだ。


「美しいものには、痛みが伴うのですね」


 その言葉に、庭師長は目を見開いた。


 母は、日に日に弱っていった。

 それでも母は歌い続けた。

 弱々しくなった声で、けれど最後まで生きるという強い意志を込めて。


 ——小さな芽が、土から顔を出す


 その歌声に、白薔薇が応えるように、次々と花を咲かせていく。

 純白の花びらが、まるで母を励ますかのよう。


 最後の朝は、静かだった。

 窓から差し込む光が、母の顔を優しく照らしている。

 いつもと変わらない、柔らかな微笑み。


「アレッサンドラ……あなたの中に、私の命は生き続けるわ。だから、寂しがらないで」


 それが、母の最後の言葉だった。

 窓から漂う白薔薇の香りが、部屋に満ちていた。


 5歳の誕生日を迎えたばかりのアレッサンドラには、母の死を十分に理解することはできなかった。

 ただ、母の手の温もりが消えていくのを、ぼんやりと感じていた。


 その日から、白薔薇の手入れはアレッサンドラの日課となった。

 庭師長が見守る中、小さな手で丁寧に水をあげ、枯れた葉を摘み取る。

 時折、棘に刺されて痛むけれど、それも母との絆の証。


「命は巡り巡って、また花を咲かせるのですよ」


 庭師長は、そっとアレッサンドラの頭を撫でた。


 白薔薇は、今も母の部屋の窓辺で咲き続けている。

 母の歌声は、アレッサンドラの心の中で響き続ける。


 光は、歌は、命は——

 巡り巡って、終わりなき旅を続けていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ