アレッサンドラ エピローグ②:繋ぐ生命
裏社会の片隅、古びた部屋の中で、アレッサンドラは息子のロイを抱きしめていた。
窓からは冷たい風が吹き込み、薄汚れたカーテンが揺れる。
その先には、曇り空が広がっていた。
「……寒くないかしら」
アレッサンドラは、息子の小さな体を毛布でくるむ。
病に蝕まれた体は、日に日に弱っていく。
それでも息子だけは守り、大切に育てていた。
まだ言葉を話せない幼子は、大きな瞳でじっと母を見つめる。
その瞳には、裏社会で生まれ育った子供とは思えない、高貴な輝きが宿っていた。
時折見せる強い眼差しは、まるでジャンカルロそのもの。
愛した人の面影を感じる度に、アレッサンドラの胸は温かさで満たされた。
白薔薇の庭で過ごした母との想い出。
森で出会った少年との約束。
そして、裏社会で出会った一人の男との時間。
アレッサンドラは目を閉じ、静かに回想に浸る。
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「生命は、この世界で最も尊いもの」
母の声が、記憶の中で優しく響く。
白薔薇の庭で、母は小さなアレッサンドラの手を取り、一輪の花に触れさせた。
鋭い棘が指を傷つけても、母は微笑みを絶やさなかった。
「この痛みさえも、生きている証なのよ」
母は傷ついた指で、アレッサンドラの頬を優しく撫でた。
「生きることには苦しみも伴う。でも、その全てが私たちを育ててくれるの」
白薔薇の香りが、朝の光の中に溶けていく。
母の教えは、今でも心の奥深くに刻まれていた。
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「なあ……なんでオレに『ヴィト』なんて名前をつけたんだよ?」
ヴィトがぽつりと呟いた。
巨木の中の秘密基地で、二人きりの時間を過ごしていた時のこと。
「『生命』なんて、オレには似合わねーよ」
意地の悪い笑みの下に、深い孤独が潜んでいた。
アレッサは、ヴィトの金色の髪を優しく撫でた。
「違うわ。あなたこそが、私に生命の輝きを教えてくれた」
白薔薇の滝で見た、光の花びらのような水しぶき。
ヴィトが見せてくれる世界は、いつも生命の神秘に満ちていた。
「へっ、なに言ってんだよ」
照れ隠しの強がった声。
でも、その緑の瞳は確かに輝いていた。
「母が教えてくれたの。生命とは、この世界で最も尊いものだって」
アレッサは静かに続ける。
「あなたは森の中で、その生命の素晴らしさを私に見せてくれた。だからこそ、この名前なの」
ヴィトは黙り込み、やがてぽつりと呟いた。
「オレは……『生命』か」
その言葉には、初めて自分の存在に意味を見出した喜びが滲んでいた。
その記憶は、今でも心の中で温かく響いている。
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「なぜ俺から逃げない?」
血まみれの服を脱ぎながら、ジャンカルロが問いかけた。
裏社会での抗争を終えて戻ってきた彼の目は、いつもどこか虚ろだった。
「あなたは、私を見つけてくれた」
アレッサンドラは静かに答える。
「この裏社会で、私を人として見てくれた最初の人だから」
ジャンカルロは黙って窓の外を見つめた。
その横顔には、誰にも見せない優しさが宿っていた。
「強くなければ生きていけない。でも優しさを失えば、それは生きているとは言えない」
やがてアレッサンドラは、自分の中に新しい命が宿っていることを知る。
小さな生命の鼓動は、母が教えてくれた「命の尊さ」を、身を持って感じさせてくれた。
抗争は激化の一途を辿り、ジャンカルロの周りの危険は増していった。
アレッサンドラの身を案じた彼は、一言だけ彼女に告げた。
「俺たちは、これで終わりだ」
「そう……今までありがとう」
その言葉を残し、アレッサンドラは彼の前から姿を消した。
彼の温もりが、今でも心と体に残っている。
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回想の世界から現実に戻り、アレッサンドラは息子の頬に触れる。
指には、あの日のクローバーの指輪が光を放っている。
薄暗い部屋の中で、それだけが不思議な輝きを変わらず保ち続けていた。
「ねえ、ロイ」
アレッサンドラは、かすれた声で語り始める。
たとえ今は理解できなくても、この言葉はきっと息子の心に残るはずだと信じて。
「強く、優しく生きるのよ」
それは母から受け継いだ教え。
ヴィトとの出会いで学んだ真実。
そして、ジャンカルロに見た生きる意味。
「強くなければ、この世界では生きていけない。けれど、優しさを失ってはいけないの」
ロイは黙ったまま、ただ母の声に耳を傾けている。
その大きな瞳には、母の言葉を一心に受け止めようとする意志が宿っているかのようだった。
突然、激しい咳に襲われ、アレッサンドラは床に倒れ込む。
口元を押さえた手に、赤い染みが広がった。
「もう、限界なのね……」
アレッサンドラは、静かに目を閉じる。
最期の時が近いことを、彼女は悟っていた。
「ほぎゃあ! ほぎゃあ!」
ロイの泣き声が部屋に響く。
まだ言葉は話せなくとも、母の命が消えゆくことを、幼い体で感じ取っているかのようだった。
痩せて骨ばった彼女の指には、あの日のクローバーの指輪が今も変わらぬ光を放っていた。
薄暗い部屋の中で、それだけが不思議な輝きを保ち続けていた。
「ロイ……強く生きて……」
その時、不思議なことが起きた。
窓から差し込む光が、急に強くなり、部屋全体を包み込んだ。
まるで、白薔薇の滝の光の粒のように。
アレッサンドラの目に、懐かしい風景が浮かぶ。
母と過ごした白薔薇の庭、ヴィトとの森での大切な日々、そしてジャンカルロとの静かな時間。
全てが光の中で、優しく溶け合っていく。
「ありがとう……最後まで生き抜いたよ……私……」
かすかな笑みを浮かべたまま、アレッサンドラは静かに息を引き取った。
その顔は、まるで眠るように穏やかだった。
クローバーの指輪は、最後まで淡い光を放ち続けていた。
母から娘へ。
そして森の少年との出会いを経て、息子へ。
命は途切れることなく繋がっていく。
窓辺では一輪の白いクローバーが、静かに揺れていた。
その花びらは、巡り巡る生命の輝きを優しく見守っていた。
fin.




