アレッサンドラ 第4章①:森への脱出
北の国からの侍女たちが到着して三日目の朝。
アレッサンドラは完全に自室に閉じ込められていた。
窓の外では、陽の光が徐々に城の石壁を染めていく。
早朝の風に揺られる木々の葉が、かすかな音を立てている。
その木漏れ日は、ヴィトと過ごした森の光を思い出させた。
「姫様、お支度の時間でございます」
新しい侍女の声に、アレッサンドラは静かに目を向ける。
北の国から来た年配の侍女は、鋭い目つきで彼女を見つめていた。
まるで氷のように冷たい灰色の瞳。
眼差しには、少しの温もりも感じられない。
「まもなく王妃様、弟君、妹君とご朝食の予定でございます。それまでに身なりを整えねばなりません」
窓の外では、朝日が庭園を照らし始めていた。
かつて母の白薔薇が咲き誇っていた場所には、今は継母の赤薔薇が植えられている。
その赤い色が、まるで血のように目に染みた。
年配の侍女は、控えていた二人の若い侍女たちに目配せをする。
彼女たちもまた、北の国から来た新しい侍女だった。
「お前たち、姫様のお召し替えをなさい。一瞬たりとも目を離してはいけませんよ」
アレッサンドラは、ため息を押し殺す。
彼女たちが来てからというもの、アレッサンドラは片時も一人にはさせてもらえなかった。
着替えも、食事も、入浴も、すべての行動が侍女の監視の下にある。
夜でさえ侍女たちは交代で部屋の外に立ち、足音を聞き逃さないよう見張っている。
昼間は、廊下を巡回する警備兵の足音が絶え間なく響く。
婚礼を控え、城の警備は普段の倍以上に強化されていた。
大切な第一王女を守るという名目で、囚人のように監視されている。
彼ら警備兵の足音は、刻々と迫る運命の時を刻む音のようにも聞こえた。
「ヴィト……」
小さくその名を呟く。
別れも告げられないまま、もう二度と会えないのかもしれない。
あの意地っ張りな少年は、今頃どうしているだろう。
きっと、いつものように木の上で、自分を待っているに違いない。
白薔薇の滝にも、もう行けない。
ヴィトが誇らしげに見せてくれた特別な場所。
光の花びらのように舞い散る水しぶきも、二度と見ることはできないのだろうか。
侍女たちの手によって、華やかな衣装が次々と用意される。
豪華なドレスに、宝石をちりばめた装飾品。
アレッサンドラはされるがままに、黙ってそれらを着せられていく。
鏡に映る自分は、人形のようにどこか虚ろな表情をしていた。
……ふと、アレッサンドラの脳内に、魔導書の一節が蘇る。
『生命の森は、相応しき者の呼びかけに応える。その場所がどこであれ、森は道を開く』
『生命の本質を理解する者のみが、その扉を見出すことができる』
アレッサンドラは、静かに窓辺に立つ。
朝日が、彼女の横顔を優しく照らす。
「母様……私を導いて……」
アレッサンドラは、そっと目を閉じ、小さく歌い始める。
母から教わった『生命の歌』が、部屋に静かに響く。
——小さな芽が、土から顔を出す
窓の外、赤薔薇の間から、小さな芽がひょっこりと顔を出した。
——春の雨に、濡れて輝く
小さな目は一輪の白薔薇となって、見る見るうちに大きく育ち、光をまとい始める。
母の温もりが、この花に宿っているかのように。
『あなたの中に、私の命は生き続けるわ』
母の声が、心の奥から響く。
次の瞬間、白薔薇はまばゆい光を放ち、朝の空へと向かって開花した。
侍女たちが息を呑む。
「姫様!」
侍女たちの叫び声が響く。
しかし、アレッサンドラの姿は白薔薇の光に包まれ、すでに消えていた。
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——水音が聞こえる。
アレッサンドラ目を開けると、そこには忘れもしない白薔薇の滝の風景が広がっていた。
光の花びらのように舞う水しぶきが、やわらかく頬を撫でる。
懐かしい森の香り、木漏れ日の揺らめき。
「……ヴィト」
森の奥から、誰かが駆けてくる気配がする。
アレッサンドラの心は、不思議なほど落ち着いていた。




