アレッサンドラ 第3章④:継母の策謀
城に帰ったアレッサンドラは、図書館の秘密の通路を通ってそっと自室に戻った。
白薔薇の滝の光景が、まだ鮮やかに心に残っている。
あの水しぶきは、本当に母の白薔薇の花びらのようだった。
「姫様、お加減はいかがでしょうか?」
しばらくして、ノックの音と共に侍女のソニアが心配そうに入ってくる。
朝、頭痛と称して部屋に籠ると告げていたのだ。
「ええ、一日休んで楽になったわ」
寝台に腰掛けながら、アレッサンドラは疲れた表情を演じる。
この演技にも、もう随分と慣れた。
「それはよろしゅうございました……ですが」
ソニアの声が、急に沈む。
「王妃様が、どうしてもとおっしゃいまして」
「お継母様が?」
その言葉に、アレッサンドラの背筋が凍る。
「北の国との婚儀についてお話があるとかで、至急お呼びです」
アレッサンドラは、静かに目を閉じた。
いつかは来ると覚悟していた時が、とうとう訪れたのだ。
「分かったわ。準備をして、すぐに参ります」
---
王妃の間に、黒檀の杖の音が響く。
コツ、コツ、コツ。
その音は、まるで運命の時を刻む鐘のようだ。
「まあ、アレッサンドラ」
継母の声には、いつもの冷たさの中に、意味ありげな響きが混じっていた。
「今日は体調が優れないと聞いていましたが……随分とお顔の色がよろしいようですわね」
アレッサンドラは一瞬、息を呑む。
継母の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
「朝の空気は心地よかったかしら?」
背筋が凍る。
まるで全てを見透かしているかのような口ぶり。
継母は、ずっと自分の行動を把握していたのだろうか。
「近頃は、お部屋で休まれる日が多いと思えば……」
黒檀の杖が、ゆっくりと床を叩く。
コツ。
「実は、城の外で過ごされていたとか?」
コツ。
「特に、裏手の森のあたりで」
コツ。
アレッサンドラは、必死に平静を装う。
けれど、指先の震えを止めることができない。
「さあ、あなたの婚儀についてお話ししましょう」
お継母様は、まるで獲物を前にした蛇のように、ゆっくりと微笑む。
「北の国との婚儀の日取りが決まりましたわ。次の満月の日です」
アレッサンドラの心臓が早鐘を打つ。
たった一月。
全てが終わるまで、たった一月しかない。
「北の国は鉄鉱山だけでなく、豊かな森もあるそうですわ」
継母は、意味ありげな笑みを浮かべる。
「もっとも、あちらの森は凍てつく寒さで、年の半分は雪に閉ざされると聞きます。貴女のように朝な夕なに散策を楽しむことは難しいでしょうね」
その言葉には、明らかな皮肉が込められていた。
アレッサンドラは唇を噛みしめる。
「そうそう。北の国から、花嫁付きの侍女たちが明日にも到着するそうですわ。あなたにあちらでの作法を教え込むため、四六時中付き添うことになります」
「……!」
アレッサンドラは、思わず継母の顔を見上げた。
継母の声は蜜のようにねっとりと、そして氷のように冷ややかだった。
「それと、あなたの身辺警護のために、見張りの衛兵を増やすことにします」
「…………」
「あら、何か都合の悪いことでも?」
「……ご配慮、感謝します」
やっとの思いで、アレッサンドラは返事をした。
「お部屋に戻って、今後の支度のことを考えなさい」
黒檀の杖が、冷たい音を響かせる。
コツ、コツ、コツ。
---
部屋に戻ったアレッサンドラは、重たい身体を寝台に預ける。
窓の外には、継母の赤薔薇が鮮やかに咲いていた。
かつてそこにあった母の白薔薇は、もう影も形もない。
これからは、異国の新しい侍女たちが四六時中付き纏い、城の衛兵たちまでもが辺りを巡回することになる。
今までの手段で抜け出すことは不可能だ。
図書館の秘密の通路も、きっと閉ざされてしまうだろう。
それでも——
最後にヴィトに会わなければならない。
別れを告げなければならない。
あの意地っ張りで、寂しがり屋の少年に。
アレッサンドラの胸が痛みで締め付けられる。
名前をつけたばかりの『白薔薇の滝』の景色も、もう二度と見ることはできない。
「……ヴィトに会う約束、破ることになるわね」
アレッサンドラは、掌を強く握りしめる。
もう二度と会えないと、ヴィトに告げなければならない。
そう思うだけで、悲しみに胸が張り裂けそうだった。
北の国。
雪と氷に閉ざされた土地。
そこにも森はあるのかもしれない。
けれど、ヴィトのいない森など、ただの木の集まりでしかない。
もう二度と、あの意地悪な笑顔も、照れ隠しの強がりも、あどけない喜びの表情も見ることはできない。
アレッサンドラは、静かに目を閉じる。
耳に響くのは、継母の黒檀の杖の音。
コツ、コツ、コツ。
そして、もう一つの音が重なる。
白薔薇の滝の、清らかな水音。
光の花びらが舞い散る、神秘的な景色。
ヴィトが誇らしげに見せてくれた、二人だけの特別な場所。
「母様……」
か細い声が、部屋の闇に溶けていく。




