アレッサンドラ 第3章②:白薔薇の教え
——アレッサンドラ、5歳の誕生日。
朝露が宝石のように輝く庭園で、アレッサンドラは母の手を小さな掌で握りしめていた。
まだ陽は低く、城の塔に遮られて庭には柔らかな影が落ちている。
「今日はあなたに特別な贈り物を用意したのよ、アレッサンドラ」
母の手に導かれ、城の裏手へと進む。
城の裏手にある秘密の花壇は、母だけが手入れを許された特別な場所。
整然と刈り込まれた生垣の向こうにそれはあった。
白薔薇だけを植えた、小さな楽園。
母は白い手袋を外し、一本の薔薇にそっと触れる。
「おはよう、可愛い子たち」
親しげに語りかけるその姿は、まるで古くからの友人を愛でるかのようだった。
しかし、棘が母の指を傷つける。
アレッサンドラは心配そうに眉をひそめた。
「お母様、大丈夫?」
母は微笑みながら、赤く滲んだ指を掲げる。
「ええ、大丈夫よ。この痛みは、愛情の証なの」
小さな血の滴が、朝日に透けて宝石のように輝く。
母は園芸用のスコップを手に取り、花壇の一角に穴を掘り始める。
「今日は、新しい白薔薇を植えましょう。あなたの誕生日に、新しい命を迎えるのよ」
アレッサンドラは目を輝かせながら頷いた。
母がそっと薔薇の苗を取り出し、根元を優しく包む。
「ほら、この土を見てごらんなさい」
小さな掌に掬われた黒い土には、白い小さな粒が混ざっている。
「これ、なぁに?」
「土の中で生きる小さな生き物たちよ。目には見えにくいけれど、私たちの知らないところで大切な役割を果たしているの」
母の声は穏やかで、まるで物語を語るようだった。
「この子たちが土を耕し、薔薇の根に栄養を運んでくれるの。だから、土の中の命がなければ、花も育たないのよ」
アレッサンドラは驚きに目を見開いた。
「目に見えない命が、この花を支えているの?」
「そうよ」
母は微笑みながら、苗を土に埋める。
「さあ、一緒に優しく包んであげましょう」
アレッサンドラは母の手に倣い、小さな掌で土をかぶせた。
その時、苗の根元に小さな雑草が生えているのに気づく。
「お母様、ここに雑草が!」
慌てて抜こうとするアレッサンドラの手を、母はそっと止めた。
「待って。この子にも、大切な役目があるのよ」
母は雑草の細い根を指さす。
「この子は、薔薇の根が流されないように、土をしっかりと掴んでいるの。そして薔薇は、この子に日陰を作ってあげている」
アレッサンドラは目を瞬かせた。
「助け合っているの?」
「そうよ。生命は決して一人では存在できない。すべての命は繋がり、支え合って生きているのよ」
アレッサンドラは、母の言葉の意味を噛みしめながら、雑草と薔薇を見つめた。
朝霧が晴れ始め、白薔薇の花びらが淡い光を帯び始める。
母は、薔薇の茎に指を這わせた。
鋭い棘が、またも白い肌を傷つける。
「お母様!」
アレッサンドラは息を呑んだ。
母は滲んだ血を見つめながら、微笑む。
「ええ、少し痛いわ。でも、この痛みにも意味があるの」
今度は慎重に棘を避けながら、そっと薔薇の茎を撫でる。
「見てごらんなさい。この棘があるからこそ、薔薇は誰にも簡単に摘み取られず、美しい花を咲かせ続けるの」
アレッサンドラは、恐る恐る棘に指を近づけた。
「怖い……」
「そうね。でも、この棘は薔薇が自分を守るために必要なもの。人生も同じよ。時には痛みを伴うことがある。でも、その痛みを乗り越えることで、私たちは強くなれるの」
「強く……」
アレッサンドラは、棘に触れた母の指を見つめながら呟く。
母はそっと、その傷のついた指でアレッサンドラの頬を撫でた。
「痛みを感じることは、生きている証なの。だから決して痛みを恐れないで。それもまた、生命の大切な一部なのよ」
その瞳には、深い慈愛と、どこか遠い未来を見つめるような色が宿っていた。
風が吹く。
白薔薇の花びらが舞い、母の髪が金色に光る。
母は静かに目を閉じ、口を開いた。
『生命の歌』
アレッサンドラは母の横顔を見つめる。
——小さな芽が、土から顔を出す
——春の雨に、濡れて輝く
優しく、静かな歌声が庭園に広がる。
薔薇の花びらがそっと揺れ、まるでその歌に応えているようだった。
アレッサンドラは、この光景を心に刻んだ。
母の手の温もり、白薔薇の香り、そして母の歌声。
すべてが、優しく、強く、永遠に。




