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兄のラジオ

作者: 羊蹄

 蝉の声がうるさい、夏の日の午後のことだった。

 参考書を買いに行くと言って出て行った兄が、大事そうにそれを抱えて帰ってきた。


「お帰り、兄ちゃん。あれ、参考書は?」

「そんなものより、もっとずっと勉強になるものをもらった」


 兄は中学三年。冬には受験を迎えるのに、最近成績が落ちてきている、と母がぼやいていた。

 夜遅くまで毎日勉強しているのを、僕は知っていた。たまに大声で叫んでいるのも知っているし、ともすれば壁を殴り続けているのを見たこともある。

 受験のストレスって大変なんだ。

 真夏だというのに生っ白い兄の額に、汗の玉が浮いている。温度を感じさせないような肌にそれはひどく不似合いだった。


「何、それ」

 僕が聞くと、兄はにぃっと笑った。

「ラジオだよ」

「音楽とか聴けるやつ?」

「あぁ。……英語講座とかも聴けるしな」


 取ってつけたようにそう言った兄の目は、どこか遠くを見ているようだった。

 絶対勉強になんか使わないんじゃないの、とその時はそう思った。




 兄の部屋は僕の部屋の隣。耳をすませば独り言も聞こえるくらいに壁が薄い。

 だから、ラジオなんかつけていれば何をしていたって聞こえるはずなんだ。


「……?」


 何も聞こえない。強いて言えば、兄がぶつぶつと何かを言っている声だけが断続的に聞こえてくるだけ。

 結局、いつもと同じ夜だった。勉強を頑張る兄に少しの尊敬と強い同情を覚えながら、僕は漫画の続きを読むことにした。




 次の日の朝、兄は昨日までとは大違いの満面の笑みで起きてきた。


「おはよう、兄ちゃん」

「昨日、うるさくなかったか?」

「え?」


 兄の独り言はいつものことだし、うるさいというほどの声でもない。

 僕が首を振ると、兄は「そうかそうか」と嬉しそうに頷いた。


「ならよかった。ラジオがあると、勉強が捗るな」


 何か聴いていたのか? 僕にはわからなかった。

 イヤホンでもしていたのかもしれない。一人で納得して、「よかったね」とだけ答えておいた。




 それからも、兄は毎日ラジオを聴きながらの勉強がいかに捗るかを教えてくれた。

 深夜ラジオのパーソナリティの軽快なトークや、知らない人のささやかな悩みを聞くだけでも気が紛れるし、受験のつらさも一瞬忘れることが出来るんだと笑っていた。

 笑っている、んだけど。

 何だかちょっと変だ。昔の兄の笑顔とは何かが違う。

 僕に話しているのに、僕を見ていないというか。

 「捗ってる」って言っているのに、成績は下がっていく一方であるとか。

 勉強はしているようなのに、どこかおかしい。




 兄の部屋から聞こえる独り言には、笑い声が混じるようになっていた。

「――、ふふ、うん、……だよ、」

 誰かと会話しているようにも聞こえる。

 以前は、点Pがどうとか補助線がどうとかそんなことばっかりだったのに。

 (ちなみに、兄は数学が苦手だとのことだ)


 電話をしているのかも、とも思った。けれど、兄は携帯電話を持っていない。高校に入ったら買ってもらう約束になっているからだ。そもそも、携帯やスマホなんてもってたらラジオなんかいらないよね。


 違和感は日に日に強くなっていったけれど、兄にどうやって訊いていいのかもわからなかった。

 母は忙しく、ただでさえ兄の成績が低迷していることにイライラしているからどうやっても切り出せなかった。


 でも、今思えば、その時誰かに相談すべきだったんだ。



 その日の夜は、母が夜勤で不在だった。

 兄はひどく興奮した様子で、僕の部屋にやってきて言った。


「当たったんだよ!」

「え、何が?」

「ラジオの公開収録が、当たったんだ!」


 キラキラというよりギラついたような目をして、うっとりと兄は言った。

「明日の昼、ちょっと行ってくるわ」

「どこに」

「あ! 場所はこの後放送だった。いやー、応募してみるもんだよね」


 まじめに勉強もせず、ラジオにはまって公開収録に行くのか。

 母に知られたら怒られるんだろうな、と思ったけれど、兄の様子に水を差すのも可哀そうで、適当に頷いた。


「帰ってきたら感想きいてくれよな!」



 ――それが、兄を見た最後だった。



 翌日の朝起きると、兄は部屋にいなかった。

 もう公開収録とやらに行ってしまったのか、と思って部屋をぐるりと見渡すと、学習机の上にそれはあった。

 

 その時、気付いてしまった。もうきっと、兄は帰ってこない。

 それのそばには、兄の走り書きのメモが置いてあった。文字の形を成していない。他のノートを開いても、これを拾ってきて以降のノートは全く読めるものではなかった。


 ラジオ。兄の拾ってきた、ラジオ。

 手に取ると、かさりと音がした。蓋が開いて、ぽろりとガムの包み紙が転がり出てきた。


「これ、ラジオじゃないよ、兄ちゃん」


 僕は古びたお菓子の空き箱を手にしたまま、窓の外を見た。

 蜃気楼が立つ。

 兄は、何を聴き、考え、どこへ行ってしまったのか。



 蝉の声が一層大きく、耳をつく。



読ませてもらってばっかりなのもあれなので。

楽しんでいただけましたら、幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ラジオと思っていた何か。最後の種明かしが意外で、ただでさえ「肉親が段々変なもの(時事的にはカルト)にのめり込みつつある」恐怖に加えて、二重にホラーになっていました。上手い、と感心してしまい…
[良い点] 最後のお菓子の箱ーーー!!! この書き方がゾッとさせますね。 お兄さんはどこへ? 怖い!
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