第74話『色々と欲が出てくるもの』
第2章スタート。
休日が明けた月曜日。あと二週間ほどで高校二年生としての生活が終わりを迎えるその朝、すでに朝食などを済ませて制服に着替えた天見優人は、洗面所の鏡の前で身なりの最終チェックを行っていた。
普段ならこうも念入りに確認することはないが、今日は――もといこれからは極力別だ。
今日も今日とて鏡に映る鋭い目つきに「こればっかりはな……」と少し辟易としつつ、時折角度を変えながらチェックを進めていく。
寝癖はなし。制服にもほつれや乱れはない。一通り確認して及第点の判断を下した優人だが、最後にふとした思いつきが頭に浮かび、首に巻かれたネクタイをわざと適当に緩めてから洗面所を後にした。
昨日の内に準備してある鞄を手に取り、スマホで時間を確認――頃合いだ。
最後にもう一度だけ、消灯したスマホの画面で前髪をチェックしてから、優人は玄関を開けて外に繰り出した。
重なる二つの開閉音。右に目を向ければ隣の部屋の玄関が同タイミングで開いており、朝から息が合ったという事実に自然と口角が持ち上がってしまう。
とはいえ朝からみっともない顔を晒すわけにもいかない。即座に表情を引き締めた矢先、隣の玄関の陰からひょっこりと覗いた端正な顔が優人を見るなり嬉しそうに綻んだ。
引き締めた表情が、またすぐに緩みそうになる。
手早く玄関の施錠をして小走りで駆け寄ってきた彼女が、ふわりと柔らかい、それだけで一日の元気が賄えるような笑顔を浮かべた。
「おはようございます、優人さん」
「おはよう」
優人の隣人にして同じ学校の一つ下の後輩、そして想い人である空森雛は可愛らしいはにかみを惜しげもなく優人へ見せつけた。
雛の容姿が、本人の日頃の努力も相まって整っているのはとうに分かり切っていることだが、彼女への好意を自覚した今となってはより魅力的に目に映って仕方がない。そんな相手が笑顔を向けてくれるのだから、それだけでも十分幸せを味わえるというものだ。
幸せな反面、朝っぱらから表情筋の抜き打ちテストが始まってしまったと若干嘆きたくもなるが、一応ある程度の覚悟はしてあった。
何故なら、今朝のこの遭遇は偶然でなく、約束したものだったからだ。
「ごめんなさい、私のせいで朝早くから付き合わせてしまって……」
「いいって。俺だって部活で早く出る時もあるんだし、たまの早起きぐらい大して辛くないさ」
例えば登下校も一緒に。雛からそう言われたのはつい昨日のことで、さっそく今朝は二人一緒での登校だ。ただし美化委員の当番として早出するという雛に合わせたため時間は早く、それを申し訳なく思ったらしい雛が小さく頭を下げた。
優人ともっと一緒の時間を増やしたいと、そんな嬉しいことを言ってくれた翌日なのだ。お互いの予定や都合でうまくいかない時もあるかもしれないが、できることなら叶えたいし、優人だってそうしたい。
安心させるように笑いかけると雛も笑い返し、それから優人の首回りを見てほんのりと苦笑を浮かべた。
「そうは言いますけど、やっぱりまだ眠いんじゃないですか?」
「え?」
「はいはい、いいからじっとしてくださいねー」
雛は楽しそうにそう言うと、優人の首元にそっと両手を伸ばす。どうやら、たまたま、偶然にも制服のネクタイが緩んでいたらしく、それを手ずから直してくれるらしい。
時折首筋に触れる温かな感触と微かな甘い香り。ぐっと近付いた雛との距離に心拍数が早まる中、最後にきゅっとネクタイを締めた雛は満足げに微笑んだ。
「はい、これで大丈夫ですよ」
「悪い、ありがとう」
「いえ。それじゃ、そろそろ行きましょうか」
先を行く雛に続いてアパートの階段を降りる。
……ああ、なんて浅ましい。
雛が直してくれることをを期待してわざとネクタイを緩めた自分も、目論見が見事成功してこっそりガッツポーズまでした自分も、本当に浅ましくてたまらなかった。
「少しずつ桜が咲いてきてますね」
自宅から学校までのちょうど中間地点、角を曲がって少し歩けばコンビニが見えてくる十字路を通り過ぎた頃、斜め上へと視線を持ち上げた雛がそう呟いた。
桜の咲き頃はだいたい三月中旬。テレビでやっていた今年の開花予想は例年通りらしく、雛の視線を辿った先では、蕾たちの中から薄ピンクの花弁がわずかに顔を出していた。
「春休みに入る頃には満開になってるだろうな」
「そうですね。学校前の大通りには大きな桜の木もありますから、今から楽しみです」
「確かに」
相槌を打ちながら、桜の開花を楽しそうに思い描いているらしい雛を横目で窺う。
すると優人の頭に浮かんでくるのは、満開の桜を背景に佇む雛の姿。不意に吹いたそよ風で桜の花弁が宙に舞い、その内の一枚を手に取った彼女が淡く微笑む。その光景を形に残そうとスマホのカメラを向けてみれば、気付いた雛は微笑みに少し照れ臭そうな薔薇色を織り交ぜて、それから優人に向けて小さなピースサインを――……
(……何考えてんだ俺は)
途中ではたと我に返った。
想像、というよりも妄想を始めている自分が痛々しいし、決していかがわしい内容ではないとしても、優人の脳内シアターに勝手に雛を出演させてしまったことが申し訳なくなってくる。
そして何より、自己嫌悪で肩を落とす優人を機敏に察知し、「どうしました?」と心配そうに窺ってくる雛の優しさが余計に傷口に沁みた。
とりあえず気を取り直して「大丈夫だ」と返すものの、思いの外鮮明に浮かび上がってしまった脳内のイメージはなかなか消えてくれない。イメージでこれならば、実際の光景はより綺麗なのだろう。
――見てみたい。
「……あのさ、雛」
「はい?」
「家からバスでちょっと行ったところに、ここら辺だと一番人気の桜の観光スポットがあるんだよ。長い散歩道の両側に桜が咲いてて、春になるとすごく綺麗な桜並木になるって感じの」
心臓が早鐘を打つ。今までだって何度か雛を誘うことがあったはずなのに、どうしてか気が逸ってしまう。
「春休みに入ったら、二人でそこに行ってみないか?」
「…………」
「ま、まあ無理にとは言わないし、他に花見の予定があるんならそっちを優先してもらっても――」
「本当ですかそれ」
「え?」
食い気味の言葉に振り向くと、いつの間にか雛がすぐそばまで近付いている。優人の制服の袖をきゅっと掴み、見開かれた金糸雀色の瞳が真剣な眼差しで見上げてきた。
「嘘じゃないですよね? 本当ですよね? 後でキャンセルとかありませんよね? 言質取りましたからね?」
「お、おう、それで構わないけど……なら行くってことでいいのか?」
「はい、行きます。ということで指切りしましょう」
「え、えぇ?」
「ほら早く、優人さん小指出して」
ぐいぐいと迫ってくる雛に気圧されて小指を出す。すぐに雛の柔らかな細い小指が巻き付いてきたと思えば、お決まりのフレーズが彼女の口から飛び出し、優人も慌ててその後を追いかける。
『針千本飲ーます、ゆーび切った』
二人分の声で最後まで歌い終わり、絡めた小指が離れる。失われた温もりに名残惜しさを優人が感じるのも束の間、伸ばしたままの小指を唇に添えた雛はふふっと淑やかに笑った。
「約束ですよ? 楽しみにしてますからね」
そう告げる雛の笑顔が、しばらく頭に焼き付いて離れなかったのは言うまでもない。