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第61話『バレンタインの翌朝』

 バレンタイン翌日の朝は、ここ最近でも一番の清々しい目覚めだった。

 寝起きだというのに頭はクリアで、心なしか身体の調子も良いように感じる。

 理由は言わずもがなであり、昨夜はとても満ち足りた気分で(とこ)に就くことができたからだろう。

 

 ベッドから降りた優人はテーブルの上に置かれた小さな白い紙袋を一瞥し、ふと自嘲気味な苦笑を浮かべた。


(俺も単純だよな)


 目当ての物が手に入ったらすっかり気分を良くしてしまう辺り、呆れるほどにそう思ってしまう。


 紙袋の中はすでに空っぽ。用が済んだらすぐに捨ててしまうのも何故だか味気なく思えて残しているそれを手に取り、口を開いて中を覗く。もちろん何も残ってないけれど、微かな甘い残り香が優人の鼻先を優しく撫でた。


 ――雛から貰ったバレンタインチョコレートは、優人好みの甘さで本当に美味しかった。


 ベースこそ数日前に食べたチョコタルトですでに一度味わったものではあったが、そこからさらに創意工夫を凝らしたのか、色々とトッピングが足されてより豪華に。

 アラザンやカラースプレーを始め、中には砂糖漬けにしたオレンジを細かく切って添えた物もあり、食べていて飽きることがなかった。


 丁寧な包装を開けてそれらを目の当たりにした時の印象は、それこそグルメ番組で聞いた覚えのある宝石箱。

 雛にそんな気など欠片もなかったと理解しているが、散々焦らされた側の優人としてはある種の感動を覚えたぐらいだ。


 ただ一つ惜しむことがあるとすれば、気の向くままに全部食べ尽くしてしまったことだろうか。せっかくの品だったわけだし、もう少し大事に取っておいても良かったかもしれない。


 そんなことを思い返しながら洗面所で顔を洗っている途中、不意に蘇る雛の言葉。


『――ちょっと、特別な義理ですから』


 ……あれは結局、どういう意味で捉えればいいのか。

 一晩経った今でも出てくれない答えを考え出すと途端に頬が熱を持ち、それを打ち消すように蛇口から流れる冷水を顔面に浴びせる。


 一人で悶々としても意味なんてない。そう結論づけて思考を打ち切り、引き続き学校へ行く支度を整えていく。

 全ての準備を終えても出発するには少し早い時間だったが、たまにはゆっくり歩くのもいいだろうと思って玄関から外へ出る。


『あ』


 果たして、タイミングが良いのか悪いのか。

 一歩足を踏み出した矢先に重なった声はいっそ予定調和のようにぴったりで、玄関を開けた体勢のまま優人を見て固まったように動きを止めた雛は、その白い頬をじんわりと赤く染めていく。


「おはよう」

「お、おはようございます」


 一晩経ってある程度気持ちも落ち着いた優人と違い、雛はまだ整理がついていないらしい。たどたどしい挨拶の後そのまま歩き出そうとした雛に「鍵」と優人が指摘すると、彼女は慌てた様子で玄関の鍵を閉めた。

 ただでさえ女の子の一人暮らしなのだから、戸締まりはしっかりしないと。


「行くか?」

「……はい」


 こくりと小さく頷いた雛を連れてアパートの階段を下り、そのまま朝の通学路を肩を並べて歩いていく。

 これまで学校では雛と顔を合わせてもお互い素知らぬ振りで通していたのだが、マラソン大会での一件の結果、顔見知りとして言葉を交わす程度の仲としては認識されるようになっていた。

 もちろん同じアパートから出てくる姿までを見られたらマズいが、通学路の途中で目撃される分にはそこまで騒ぎにもならないだろう。


「昨日はありがとな」


 朝日を浴びながら黙々と歩くこと約五分、雛が落ち着いたのを見計らってチョコレートのお礼を告げると、金糸雀の瞳はおずおずと優人のことを上目遣いで見上げる。


「どういたしまして。……あの、お口に合いましたか?」

「そんな心配そうにするなって。美味かったよ、本当に。味見した時よりもまた一段とな」

「そうですか。良かったあ……」


 バレンタインチョコの感想を面と向かって伝えるのは些か恥ずかしいものがあるけれど、作り手にとっては『美味しい』の一言が何よりの報酬であることは、優人もよく分かっている。

 だからこそ包み隠さずはっきりと口にすると、雛の口元は安堵したようにふにゃりと緩んだ。


「心配性だな。俺たちの好みが似てるって言ったのは雛だろ? その雛が納得して作ったもんなら問題ないって」


 どうせ丁寧な雛のことだから、入念な味見をした上で完成させたに決まっている。優人と雛の好みが似ている以上、雛自身の味覚を信じればそれは優人にとっても正解だ。


「それはまあ、そうですけど……何せ相手が優人さんじゃないですか。お菓子作りの達人に贈る以上、生半可なものはお出しできないですよ」

「達人って、そんな大げさな」


 いつの間にそんな大層なものに思われていたのか。

 お菓子作りに関する技術こそ、それこそ達人(プロ)である母から教わったとはいえ、優人もその域に達しているとは口が避けても言えない。

 さすがに過大評価だろうと優人が笑えば、雛は不服そうにぷくっと頬を膨らませた。


「大げさなんかないじゃないですよ。優人さんの作るお菓子、本当に美味しいと思ってるんですからね?」


 ここに関しては譲らないと、そんな意思がありありと感じられる雛の言葉。

 ――つくづく思う。作り手にとって、その一言がどれだけ嬉しいものであるかを。


「分かったよ。こりゃホワイトデーは責任重大だな」

「ご、ごめんなさいっ、そういうつもりで言ったわけでは……! 別にお返しを期待して贈ったわけでもないですし」

「そういうわけにいくかよ。美味いもん貰ったし、三倍返ししないとだからな」

「……もう、そういうこと言われると期待しちゃいますよ?」

「任せろ。何だったらリクエストでも受けようか?」

「え? んー……なら、ああいうのってできますか? ふわふわしたパンケーキ」

「パンケーキか。了解だ」

「おー、即答ですね」


 ぱちぱちと小さな拍手を雛が送る。


「けどホワイトデーの前に、まずは学年末テストですね」

「それな。テストなんて面倒ったらありゃしない」

「ふふ、赤点なんて取ったらダメですよ?」

「下の学年に心配されるほど成績悪くねえよ。雛こそ大丈夫か?」


 入学から二学期中間までは首位をキープしていた雛も、前回の二学期期末では三位に後退。言うなれば今回はリベンジマッチだ。

 別に必ずしも首位を勝ち取る必要はないと思うが、周囲が雛に寄せる期待はそうともいかないだろう。


 優人の問いに雛はぱちりと目を瞬かせると、


「――ええ、頑張ります」


 遠い空を見上げ、儚げな笑みと共にそう呟くのだった。

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