第25話『将来を見据えて』
今日のバイトは朝から夕方までの長時間勤務で、途中で昼休憩を挟む形だ。昼休憩とは言っても他の人との兼ね合いの都合上、優人が入る頃にはすでに時刻は十三時を過ぎていた。
しつこく空腹を訴えてくる腹の虫を大人しくさせるのは、出掛ける前に雛が渡してくれた彼女の手作り弁当。白米の上に桜でんぷんでハートマークが描かれているなんてことはさすがにないが、高校生時代に比べてさらに料理の腕に磨きがかかった雛のお手製ともなれば、食べ終えた後の満足感は十二分だ。
栄養補給はもちろん、たっぷり英気も養えたところで優人は椅子から立ち上がり、ロッカールーム内で大きく伸びをした。残りの時間もしっかり仕事をこなそうとエプロンを巻き直したところで部屋の奥、事務作業をするスペースの方から華が声をかけてくる。
「天見くん、休憩終わり? ならちょっとこっちいいかな」
「? はい」
仕事中はともかく、仕事に戻ろうとするタイミングで話しかけられることは珍しい。疑問を覚えつつも華の座る事務机の前まで歩み寄ると、華はパソコンから視線を持ち上げて優人を見上げた。
「天見くんって大学生だけど夏休みはいつまで?」
「九月の下旬までです」
大学生の夏休み期間は往々にして長い。優人の通う大学では七月下旬からが休みの始まりとなっていて、今は八月を残すこと後二日ほどなので、まだ半月以上はある計算だ。
「もしかしてシフトの相談ですか? 免許も取れて一段落してますから、入れるところがあれば入りますよ」
「ううん、そうじゃないよ。天見くんに話したいのはこれについて」
華はそう言いながら、机の引き出しから取り出したA4サイズの紙を優人の前へと滑らせた。それはこの『カトレア』内で取り扱われている、新商品の提案をするためのテンプレート用紙だった。
記載する内容は新商品のコンセプトや完成イメージ図、材料、原価、設定売価などなど。華が書いたものはもちろんのこと、他の従業員が書いて華に提出している姿を見たことも今までに何度かある。
これを優人に見せるということは、つまり。
「今ならまとまった時間が取れてちょうどいい機会だろうから、キミもそろそろ一品作ってみる気はない?」
「ほ、ほんとですか?」
半ば予想はできていたことなのに、優人の返事は思わず上擦ってしまった。
この『カトレア』は上下の風通しが良い理想的な職場ではあるが、かと言って新商品の提案という店の根幹に関わるようなことはそう易々と出来るものではない。基本的に商品を考えるのは華の領分であって、彼女以外で提案するのだって、優人よりもずっとこの店でのキャリアが長い先輩方ばかりだ。正確には提案すること自体は禁止されていないのだが、欠点などをことごとく指摘されて却下されるのがほとんどと言っていい。
そんな重要な仕事を、まさか華の方から振ってもらえるなんて。
「……でも、いいんですか? 嬉しいお話ですけど、俺なんてまだまだ経験は浅い方でしょうし」
後輩と呼べる従業員ができる程度にはこの店で働き続けてきたが、全体的に見れば優人の経歴はまだまだ下の方。悪い言い方をすれば先輩方を差し置いてというのは、我ながら時期尚早ではないかとも思ってしまう。
しかし優人のそんな不安が浮かぶ顔を、華はむしろ呆れた様子で見返した。
「そう? それはつまり、今の天見くんに頼むような私の見立てが間違ってることでいいのかな?」
「そういうわけでは……」
「冗談だよ。真面目な話をするとね、天見くんは将来自分でお店を開きたいってことなんだから、こうやって自分の力で一から作るっていう経験を早い内から積んでおいた方がいいと思ったの。まあ、いきなりで不安に思う気持ちは分かるけど、少なくとも私は『できもしないことをダメ元でやらせてみよう』なんて思うほど意地悪じゃないつもりだよ」
華はあまり表情が変わらない人で、同様に彼女が続ける言葉も淡々としている。それだけにその口調からは世辞のような響きは感じられず、優人は素直に彼女の言葉を受け取ることができた。
直接的な言い回しではないけれど、こうして培ってきたものを認めてもらえるのは嬉しくて、同時に誇らしくもある。
「ただ分かってるとは思うけど、私の審査は厳しいよ? キミがどれだけ頑張って作り上げたとしてもこの店の水準に満たないものだったら採用する気はない。だから天見くんに無理強いしてやってもらうつもりはないけど……どうする?」
「やります。やらせてください」
躊躇う理由などそれこそ皆無だ。
優人にとってはまたとない機会であり、華の言う通り積めることのできる経験を積んでおいて損は無い。
当たって砕けろ――というのは優人の力を認めてくれている華の考えとはズレるかもしれないが、不安で尻込みするよりそれぐらいの意気込みで思い切って挑んでみるべきだ。
早くも奮い立つ気持ちに我ながら気が早いと思いながら、優人は差し出されたテンプレート用紙を受け取った。
休憩後はやや浮ついた気持ちを抱えながらも仕事をこなし、つつがなく本日のシフトを全うしたバイト後。優人は私服に着替えて裏口から店を出ると、その足で最寄りの駅の方へと向かった。五分ほどの時間をかけて駅前のロータリーに辿り着くと、帰宅ラッシュのピークの時間帯も相まってざわつく人混みの中に、目当ての相手の姿を見つけて早足で駆け寄る。
「雛、お待たせ」
優人がそう呼びかけると、手持ち無沙汰な様子で夏の夜空を見上げていた恋人はこちらに振り返り、ぱっと明るい笑みを浮かべた。何でも『カトレア』を訪れた後もこの辺りを友人とぶらぶらしていて、解散のタイミングと優人のバイトの上がり時間がそこまで離れていなかったので、それなら一緒に帰ろうということでこうして待っていてくれたのだ。
「お疲れ様。ふふ、今日は急にお店に行っちゃってごめんね?」
「別に謝られるようなことじゃないって。友達も一緒だったのにはちょっとびっくりしたけどなー」
「前々から興味あるから行ってみたいって言われてたの。優人のことも一度見てみたいって言ってて、ふふ、落ち着きがあって大人っぽいって褒められてたんだよ?」
「そりゃ、良かった」
それとなく明後日の方を向きつつ、優人は頬をかいて答えた。
その辺りの会話を実は優人も聞いてわけだが、この事実は胸の内に留めておく。まるで自分のことのように嬉しそうに話す雛の微笑みに充足感を覚えつつ、優人はそっと雛の手を取ると、すぐに小さく柔らかな手は指を絡めて密着度を高めてきた。
優人たちの自宅がある最寄り駅はここから電車で二駅なので、そのまま手を繋ぎながら二人でホームへと向かい、目当ての電車が来るのを待つ。
「このまま帰るでいいんだよな?」
「うん。あ、でも駅に着いたらスーパーに寄りたいかな。お醤油とみりんが少なくなってきてたし、あと牛乳も」
「了解。荷物持ちは任せろ」
「はい、お任せしました」
調味料類を買うならば荷物はそれなりに重くなるだろう。優人が存分に頼ってくれと胸を張ると、雛は笑ってその胸をぽんと叩いた。そしてふと、こちらの横顔をじっと見つめて雛はわずかに首を傾げる。
「ところで優人、なにか良いことでもあった?」
「……そう見えるか?」
「うん、なんとなくだけど機嫌が良さそうな気がしたから」
「さすが」
確かに浮ついている自覚はあるけれど、分かりやすく顔色や態度に表れているなんてことはないだろうに。
優人は恋人の観察眼に内心で舌を巻きつつ、今日のバイト先での出来事を雛に伝えた。
「――へえ、新メニューの提案かあ。お店に並ぶものを考えるってなるとかなり難しそう……」
「それだけにやりがいがあるよ。華さんが言ってくれた通り、将来のことを考えたら絶対に必要になる経験だろうしな」
雛と二人でお店を開く――それが今、二人が目指している自分たちの未来予想図。
足りないものを挙げたらまだまだ沢山あってきりがないぐらいだが、今回の課題はその足りないものを埋めるために必ず役立つはずだ。
「優人はすごいね。着実に一歩ずつ進んでる感じ。私も負けないように頑張らないと」
「これ以上頑張られると逆に心配になるぐらいなんだけど」
片手でぎゅっと握り拳を作って意気込む雛を横目に、優人はほんのちょっとだけ遠い目をした。
雛だって大学の課題や家庭教師のバイトなど色々と忙しい中、日々の家事を抜かりなくこなしている。掃除や洗濯は優人も取り組むが、こと食事に関しては雛が特に精力的な上、優人が雛の料理にがっしり胃袋を掴まれていることもあって雛が担当することが多い。
そんな相も変わらず頑張り屋を地で行く彼女がさらに向上心を持とうとするなど、正直賞賛よりも心配が勝ってしまう。
「心配しなくても大丈夫だよ。私がやりたいからやってることだし、おかげさまでちゃんと力の抜きどころは作れてるから……ね?」
繋いだ手が解かれ、するりと腕を絡められる。身を寄せた雛は優人の方へ少し体重へ預けてくると、その感触に浸るように眉尻を下げて微笑んだ。
真夏のせいか、うっすらと制汗剤の香りが混じる雛の匂いを感じながら、優人もまた口元を綻ばせる。
彼女にとってそんな居場所になれているのなら、何より。
ここでは人の目もあるから今はこれぐらいで、代わりに家に帰って二人きりの時間になったら、いつもより多めに甘やかしてやろうと、優人は密かに心に決めた。




