第22話『考えてみれば、今に始まったことではない』
夕暮れの景色を雛と楽しんでからしばらく、途中で夕飯を済ませた関係ですっかり時間は夜になった頃、優人は自宅マンションの玄関に一人で帰ってきた。その傍らに雛がいないのは、これよりも前に一度マンションに寄って雛を下ろし、優人だけでレンタカーの返却をしてきからだ。
雛は当然のように返却まで付き合うと言ってくれたものの、それでわざわざ雛まで歩かせることになるのは気が引けたし、なんとなく『彼女を家まで送り届ける』という経験もしてみたかった。雛とは知り合ってからずっとお隣さんで、今となっては同棲。必然的に帰る先は同じなので、そういった機会が訪れることもなかったから。
それを伝えると雛も納得し、『彼氏に送り届けてもらった彼女』という配役を率先して見事にこなしてくれたのは嬉しかった。別れ際に「またね」と言って運転席の優人にキスをしてきたのは少し面を食らったけれど。
雛が車が降りる直前での不意打ちだったし、そのまたの機会はすぐに来るのだからおかしな話だ。
そんなことを振り返りながら優人はマンションのエレベーターに乗り込み、自分たちの部屋がある階数のボタンを押す。エレベーターの上昇は、初めてのドライブデートで成功できた優人の内心をそのまま表しているようで、エレベーターを降りてから部屋まで向かう足取りももちろん軽い。
家にはすでに雛がいるが、在宅時でも防犯のために鍵はかかっている。だから優人は自分の持つ鍵で玄関を開け、その音で帰宅に気付いたらしい雛は優人が入ると同時に、ぱたぱたと足早に駆け寄ってくる。
まるでご主人様に甘える子犬のような振る舞いだが、雛が浮かべる表情は実に淑やかなもの。大人びた笑みを湛え、彼女は口を開く。
「おかえり、優人」
「……た、ただいま」
「? どうして口ごもったの?」
「やっぱり敬語の外れた雛って慣れない」
「優人から言い出したことのくせに」
雛はもうっ、とちょっぴり頬を膨らませながら優人の胸を指先で小突くと、今度はその手を柔く握って口元に当て、くすくすと軽く肩を揺らした。
所作や表情は優人がこれまで慣れ親しんだ雛そのものなのに、口調が変わるだけで与えられる印象にも新鮮味が混じる。雛とは長いこと一緒にいるのに、まだこんなくすぐったい気分を味わうことになるなんてちょっと驚きだ。
とりあえず外から帰ってきたばかりなのでまずは手洗いうがいをしようと優人が洗面所へ向かうと、その背中を追って雛は言葉を続けた。
「早く慣れてね。これで逆によそよそしくなられたら、私泣いちゃうよ?」
「それは絶対ないから安心しろ。というか、雛の方こそ順応するの早くないか?」
「あ、うん、それは自分でも驚いてる。――……って思ったけど、よく考えたらそんなにおかしなことでもないかなぁ」
「どうして?」
雛と話しながらも手洗いうがいを済ませ、蛇口の栓を締めてから振り返る。
すると、目前にはすぐ近くまで近寄っていた雛の姿が。軽く背伸びをしてさらに顔を近づけてきた恋人は吐息を含ませた鈴の音を鳴らし、細い人差し指で優人の鼻をちょんっと叩いた。
「だって私が優人だけを特別扱いするのは、今に始まったことじゃないでしょ?」
「……そりゃそうか」
「うん、そりゃそうだよ」
同意を促すように可愛らしく小首を傾げ、優人が頷くと雛もはっきりと頷きを返す。
なるほど、確かに雛にとってはいつもしていることの延長線上なのだろう。
長年使ってきた言葉使いと、優人だけへの特別扱い。比べるようなものではないと思うが、あえてどちらかがより雛に馴染んでいるのかという天秤にかけられた時、易々と後者に傾くという事実はたまらなく面映ゆかった。
「どうする優人? ちょっとゆっくりしたいならお茶でも淹れるし、お風呂掃除は終わってるから入りたいならすぐに沸かせられるよ。運転で疲れてるだろうから、今日のお風呂はもちろん優人が先ね」
「じゃあ風呂で。掃除ありがとう」
「どういたしまして。ちょっと待っててね」
雛は洗面所に隣接している浴室に入ると、操作パネルのボタンを押してお湯を張り始めた。
当然のようにぴかぴかに磨かれた湯船を一瞥した優人は、雛から与えられた面映ゆさにもう少しの間身をくすぐられながら、着替えを取りに自室に向かった。
優人が先に入浴を済ませ、後に雛も入り、そして二人で少しまったりしてからそれぞれの自室に入る。あと三十分もすれば日付が変わるという夜中、ベッドボードに背中を預けて胡座をかいた優人はスマホに保存されている何枚かの写真をスクロールして眺めていた。
今日のデートでの思い出だ。それは優人が自分で撮ったものもあれば、データで貰った例の花嫁姿の雛とのツーショット写真なんかもある。枚数的には大したことないのだが、一枚一枚を拡大したりしてつい見入っていた。
肉体的な疲労感はそれなりにあるのにどうにも目が冴えてしまって眠れない。だからこうして撮った写真を見返して暇を潰しているわけだが、一向に睡魔らしいものが訪れる気配は感じられなかった。
充実した一日だっただけに、これで終わらせてしまうのが惜しいとでも思っているのだろうか。
無意識下の自分への問いかけにはもちろん明確な返答があるわけもない。考えても意味なんてないなと優人は一人苦笑すると、スマホの画面を消灯させて充電ケーブルに繋ぎ直した。どうせ明日も休みだから夜更かし自体は構わないにしても、スマホを弄るよりは本でも読んでいた方がまだ身体には優しいだろう。
本棚から適当に小説でも見繕おうかと思って身を起こそうとした矢先、こんこん、と控えめなノックの音が優人の耳に届いた。
「優人、まだ起きてる?」
部屋の入口の方から雛の声。扉一枚を隔てているせいでくぐもった感じのする声は、しかしそれを差し引いても少し固さがあるようにも聞こえた。
「どうした。何かあったか?」
「えっと、ちょっと、ね。あ、もう寝ようとしてたなら全然……」
「いいよ。なんか目が冴えて眠れなかったぐらいだから、むしろちょうどいい」
優人は軽く勢いをつけてベッドから起き上がると、特に気にすることもなく扉へと近付いていく。
雛の言葉には少し歯切れの悪さがあるが、たぶんそれは、夜遅くに声をかけたことの遠慮から来るものだろう。そんなんことは全然気に病まなくていいし、むしろ手持ち無沙汰だった時間を有効活用できるなら、優人としては願ったり叶ったりだ。
だから優人は、雛を安心させるように笑顔を浮かべながら扉を開けて――……直後に、完全に動きが止まった。
目の前に佇んでいた雛を見て、ただ、目を奪われてしまったからだ。
「何かあったか、の答えがまだだったよね?」
雛は最初は借りてきた猫みたいにお腹の前でもじもじと両手の指を絡めていたけれど、すぐ意を決したのか両腕を背中側に回して、胸を張る。
つまり、自らの姿を見せつけるかのようなポーズ。息をすることも忘れて食い入るように見つめるだけの優人を前にし、すべてを晒した雛はクスリと、その格好に相応しい妖艶な笑みを浮かべる。
「夜這いに、きちゃった」
雛が身に付けているのは、引っ越し初日に見たあのベビードールだった。