第21話『誰よりも特別なあなただから』
「わあ、車で少し出れば、こんなところもあったんですね……!」
茜色に染まる空の下、目の前の手すりに両手をつき、興奮したように身を乗り出した雛は感嘆の声を上げた。
本日のデートにおける最後を飾るのは優人があらかじめ目星を付けておいた展望台。優人たちが暮らす街並みを一望できるその場所からは、時間帯も相まって綺麗な夕暮れの景色を楽しむことができる。惜しむらくは別に穴場ではないので他にも人はいて、雛と二人きりでシチュエーションを楽しめるというわけではない点だが、さすがそこまでは求めすぎだろう。
初めてのドライブデートに至らないところはなかっただろうかと不安だったが、雛のこの様子なら大いに満足してもらえたらしい。まだ外出先なので帰りの運転は残っているにしても、ひとまずの肩の荷は下ろせたことに優人は安堵し、少し凝ったような気がする肩をぐるぐると大きく回した。
景色を一通り眺めた雛が振り返り、こちらを見てわずかに眉尻を下げた。
「優人さん、大丈夫ですか? やっぱり運転って疲れます?」
「まあ、さすがにちょっとはな。でも雛の笑顔を見れば元気をもらえるから問題なし」
「ふふ、そうですか。なら存分にお見せします」
そう意気込んだ雛は優人と腕を組むと、今日一番の満面の笑みでこちらを見上げてくる。真夏の太陽が霞むほどの輝かしい笑顔は、夕暮れの光までも味方にし、ほんのりオレンジを足した色鮮やかな表情となって優人を癒した。
本当にこんな笑顔を向けてくれるだけで大満足だった。とはいえ、このままだとわざわざ展望台に来たことをそっちのけにして雛を見つめてしまいそうなので、優人は笑顔のお礼に軽く雛の頭を撫でてから景色に目を向けた。
「おー、天気もいいから結構遠くまで見えるな」
「ですね。私たちが住んでるところって……あの辺でしょうか?」
「もうちょっと左の方じゃないか? ほら、あそこが駅だろうから」
「あ、確かに。そう考えると割と遠出してますよね」
他愛もない会話を交わしながら、雛と寄り添って景色に浸る。
しばらくすると、雛はそっと優人の肩に頭を傾けた。
「優人さん、今日はドライブに誘ってくれてありがとうございます。すごく、すごく楽しいです」
「どういたしまして。免許取った甲斐があったよ」
「ご苦労様でした。おかげで、こんなにいいのかなって思うぐらい幸せですよ」
「また雛はそういうことを言う。幸せは素直に受け取っていいんだよ」
「分かってはいるつもりですけどね。でもほら、なんというか今日は、普通の日じゃないですか」
「普通?」
言葉のチョイスに優人が首を傾げるとと、雛は人差し指を立てながら言葉を続けた。
「どっちかの誕生日だとか、記念日だとか、そういう特別な日ではないってことです」
「あー……なるほど。雛の言いたいことはなんとなく分かった」
得心がいった優人は大きく頷いてみせると、多くは語らずとも察してくれたことが嬉しかったのか雛はふふっと吐息交じりに笑った。
例えば、今日が雛の口にしたようにどちらか一方の誕生日だったとしたら、もう一方は全力で相手をもてなして祝ったことだろう。もしくはクリスマスのような特別な日であれば、相手のためにプレゼントを用意したことだろう。
そういった特別な日は、いつもより特別な幸せを享受しても、ある意味当たり前のことで受け入れやすい。
けれど今日のような普通の日にそういった幸せを味わうのは、なんとなくもったいないというか、恐れ多いというか、どこか身に余るように感じられてしまう。
きっと雛が言いたいことはこういうことだ。日頃から努力を重ねることによって結果を手に入れた、頑張り屋な彼女らしい考え方だと思う。
それを正しく理解した上で――それでも、優人の気持ちは変わらなかった。
「いいんじゃないか、それでも」
「え?」
「まあ、確かに今日は普通の日かもしれないけど、俺は」
雛の視線が自分に注がれるのを感じながら、優人は前を向いて今日一日の出来事を振り返る。
ずっと雛が隣にいてくれた。笑ってくれた。そして優人も笑った。
笑い合う日々は自分たちにとって当たり前のことになっているけれど、
「――雛と過ごす一日一日が特別で、大切なものだって思ってるよ」
何も滞ることはなく、その言葉は自然に優人の内から紡がれた。
大げさだと言われたらそうだとは思うけれど、大切な人が今日も隣で笑っていてくれるというのはそれこそ幸せなことで、実はとてもありがたいことだとも思う。雛と時間を重ねれば重ねるほど、その想いはこうしてはっきりとした言葉を成すほどに強くなっていた。
「なんて、ちょっとクサいこと言ったかな」
我ながら自分に酔ったような発言をしたという自覚がじわじわと後を追ってくる。
だから肩を竦めて苦笑しながら雛に視線を戻すと、変わらずこちらを見つめ続ける金糸雀色の瞳が。ただ先ほどよりは大きく、ぱちくりと見開かれたそれからは呆気にとられたという感情が分かりやすく伝わってきて、優人の自覚は次第に熱となって顔を焼いた。
――これは、あれだ。ちょっとじゃなくてだいぶ恥ずかしいことを言った。
「…………すまん、今のは流してくれ」
雰囲気に堪えきれずその言葉を絞り出すと、雛の口からぷっと空気が破裂したような軽やかな笑いが聞こえた。
「ふ、ふふ、なんでそこで萎縮しちゃうんですか。本当に素敵な考え方だと思いますよ? ええ、本当に」
「そう思うんなら笑わないでくれよ」
「笑ってません。これは恥ずかしがる優人さんが可愛くて、そうです、微笑ましいなと思っただけです」
「笑いって字が入ってるじゃねえか」
「あはは、バレちゃった」
とうとう雛は声を隠すこともなく肩を揺らして笑い出す。とは言ってもくすくすとあくまで控えめではあるし、もちろん優人を馬鹿にしているわけでないのは分かるのだが、しばらく顔の熱は引いてくれそうにない。
なにか別の話題、という名の逃げ道を探す優人の意識は雛の口元に向けられた。
正確には、先ほどたまたま漏れたであろう、砕けた言葉遣い。
「そういえば、すごい今さらなんだけどさ……敬語、別にいらないからな?」
「え、敬語ですか……?」
「うん」
笑っていたのから一転して雛がぽかんとするのも無理はない。正直ずいぶんと脈略のない話を振ってしまったなとは思っている。
「ほ、本当に今さらな話ですね」
「なんか今までは言い出すタイミングがなくてなあ。そもそも雛にとってはそれがありのままなのは分かってるつもりだし」
「そうですね……私も今はこれが身に染み付いているだけで、無理して使ってるつもりはありませんよ」
雛の言葉使いが丁寧なのは、元を辿れば彼女の良い子であろうとした暗い過去に起因はするだろう。しかし、今も雛がそれを引きずっているのかと言われたらそんなことはないはずだし、まさか敬語だからといって壁を感じるなんてわけでもない。
先ほどみたいにたまに敬語が外れる瞬間を目にすることがあるから、なんとなく思い立って訊いてみたというだけのことだ。
雛が特に不便を感じてないのならそれでいい。
優人の中ではそれで終わりな話であったのだが、一方で雛は、少し考え込む素振りで口元に指を添えた。
「でも、そうですね……優人さんにだけは外してみるのもいいかもしれませんね、敬語」
「別に変えてほしいってわけじゃないぞ。俺はありのままの雛が好きなんだから」
「ふふ、それはきちんと分かってますよ。でも、いつまでも敬語っていうのもちょっと変かなって思ったんです。だって私たちは――夫婦になるんですから」
「っ」
たった二文字の単語にドキリとさせられる。
そしてその反応に気を良くしたのか、小気味良さそうにに笑った雛は胸に手を当てて大きく深呼吸をする。
何をしようとしているのかはすぐに見当がついた。だから優人はじっとして雛の次の言葉を待っていると、そんな二人の間を風が撫でていく。
真夏の夕暮れ時にはどこか不釣り合いな、爽やかで優しい風。
雛はふわりとたなびく髪をそっと手で抑えると、優人を見つめて眦を緩め、口の端を少し持ち上げる。
大人になって一段と板に付いた、落ち着きのある淑やかな微笑み。
でも今は、それにちょっぴりと、頬を染める恥じらいの色を含ませて。
「だいすきだよ、優人」