第13話『頑張り屋さんの特別授業』
「……何故?」
家庭教師モードの雛を前にした時、まず最初に優人の口を突いて出たのはそれだった。
いや、分かるには分かる。雛なりに優人の試験勉強を応援してくれようとしているのだという意図は。しかし、それにしては服装からして気合いが入りすぎていて、嬉しさよりも驚きが勝っているのが事実だった。
「今日は明日の試験に備えて勉強するということですから、私もそのお手伝いをしようかなと」
「うん、まあ、だとは思うんだけど……その格好は? というか家庭教師の時っていつもそんな感じだったりするのか?」
「いえ、いつもは普通に普段着ですよ。今回は形から入った方が集中できるかなっていうのと、スーツもたまに袖を通して着心地を確認しておかないとなって思ったので」
「なるほど」
合理的な理由につい神妙に頷いた。
目の当たりにした直後は面を喰らってしまったものの、よくよく見てみれば、雛のスーツは大学の入学式で着ていたものだった。そういった式典でもなければクローゼットに仕舞っておくばかりなので、雛の言う通り、時には不備がないかを確かめておくのは必要なことだろう。
「綺麗だなあ。すごく似合ってる」
最初の驚きを納得が宥めると、次に沸いてくるのは雛の出で立ちへの賞賛だ。『似合う』という褒め言葉は、服装も含めた全体の雰囲気に対するものであった。
シックな色合いのネイビーのスーツ。中に着込んだ真っ白のブラウスは襟元から下にかけて、ボタン回りに細かなフリルを装飾したデザインであり、落ち着きの中にも華やかさをプラスしていた。
タイトなスカートは膝丈。なので決していかがわしいものではないのだが、雛が動くと小さなスリットの隙間から、タイツに包まれた太腿がわずかに見え隠れしてドキリとする。雛の華奢なスタイルをきゅっと引き締めつつ、それでいて一部の突っ張った生地の張りと曲線が、ほんのりと大人の色香を漂わせていた。
成人を迎えた雛はこういう服装が本当に似合うようになったと思う。元より知り合った時から大人びた雰囲気を持つ側面はあったが、それが完全に板に付いたような印象だ。
そして、それは見た目においての話でもあれば、反応においても同様である。以前なら優人の褒め言葉にはよく顔を赤らめて照れていたものだが――、
「ふふ、ありがとうございます」
ご覧の通り、得意げな笑みを浮かべて柔らかく受け止めていた。恥ずかしがって狼狽える雛は可愛らしくて良いものだったが、これもまたいい。未だ衰えることを知らない――というより様々な方向に派生していく雛の魅力を前に、最近は優人の方が翻弄されてばかりだ。
「さて、明日の試験のためにビシビシ指導していきますよ。準備はいいですか?」
評判が良いという雛の個別授業。図らずもそれを体感できる機会を得たことに優人は内心で期待を募らせながら、きりっとした様子で眼鏡のつるに指先を添える家庭教師に頷きを返した。
さて、優人が生徒で雛が教師という位置づけで授業が始まったわけだが、優人は基本的に必要な知識をすでに習得済みで、だから教習所だって卒業できたわけだ。やろうとしていたのは改めての要点の確認と、中古で安く手に入った問題集を用いての模擬試験。その前半部分を雛に手伝ってもらい、そうして後半の模擬試験に挑んでみた。
「……なんだか、あまり問題がなくて逆に拍子抜けです」
「それは褒めてると受け取っていいのか?」
自宅のリビング、胡座をかいてローテーブルに頬杖をついた優人は、隣で正座する雛の呟きに口を挟んだ。
本番と同様の条件での模擬試験を終えたのだが、優人が提出した解答用紙の採点しながら、雛はほんのちょっとだけ不服そうに唇を尖らせている。「もちろん褒めてますよ?」とすぐに淑やかな笑顔で訂正してくれたものの、わざわざ着替えてまで教師役を買って出た意気込みから考えるに、思っていたよりも教え甲斐がなさそうで残念がっているのかもしれない。
「まあ、優人さんって元々こういった試験対策とかコツコツ取り組む方でしたから、当然といえば当然ですか」
「雛に感化されてそうなった部分は大きいけどな。昔は結構適当なところあったぞ?」
「時々そうは言ってますけど、正直そんな優人さんをあまり想像できないんですよねえ。――えーと、採点結果ですが……おめでとうございます、無事合格の96点です」
雛が伝えた結果に、優人はゆるく息を吐いた。ひとまず合格ラインの90点には達しているので一安心だ。
「間違えてたとこは?」
「文章問題が二つと、イラスト問題が一つですね」
「あれ、イラストもか? そっちは結構自信あったんだけどな」
「ここでしたね、イラストの第三問」
免許試験の問題数は全95問で、文章問題が90問のイラスト問題が5問。点数配分は前者が1点の後者が2点だ。間違えた場合のダメージはイラスト問題の方が大きいので十分に気を付けていたつもりだったのだが、思わぬ落とし穴にでも引っかかったのだろうか。
「優人さんの解答を見るに、たぶんここを勘違いしたんだと思いますよ? 確か解説だと――」
雛は問題集の解答ページを開き、解説を始めた。優人から見えやすいようにと身体を寄せてきた彼女は、その拍子に前に垂れてしまった横髪へと指を絡め、すっと耳へとかける。
本人にとってごく自然の、ありふれた仕草ではあったのだろう。だからこそ淀みないその一連の動きに、優人はつい視線を吸い寄せられてしまった。
なんだか不思議な気分だ。
これまでにも数え切れないくらい様々な雛を見てきたはずで、その中にはおよそ人には言えないような刺激的な一面だってあったのに、未だにこんな何気ない姿にも目を奪われる。
「――、――」
小さな唇が柔らかく言葉を紡ぎ、金糸雀色の瞳はじっと斜め下へと注がれる。その先で白い指が問題集の文章をなぞり、時には重要な箇所を強調するために丸を描く。
真剣味を帯びた、雛の横顔。それを間近で見て、優人は雛の家庭教師が好評な理由を分かったような気がした。
綺麗で優しいとか、教え方が上手いとか、そういったものはもちろんあると思う。けれど、何より真摯に取り組んでいてくれることが伝わってくるからだ。
熱意と呼ぶには穏やかなものだけど、それに勝るとも劣らない気持ち。それだけのものを注いでるのだから、教えられる側も自然と応えたくなる。そう思わせてくれることこそが、家庭教師である雛の最も優れた点なのだろう。
「――というわけですが……優人さん、ちゃんと聞いてました?」
別のことに気を取られていたことが顔に表れていたのか、眼鏡越しの雛の目が少しだけ細められた。
「すいません、先生の横顔に見とれて聞いてませんでした」
「こら、いくら合格点だからって気を抜いたらいけません。そういう油断はケアレスミスに繋がりますよ」
「はい」
正直な褒め言葉でお茶を濁そうとしても、優しくも厳しい先生は見逃してくれない。しっかりお小言、さらには頬を軽く指でつままれて――さすがにこのスキンシップは優人だけにだろう――、優人は舌足らずな声で返事をした。
間抜けな反応は思ったよりも溜飲を下げるのに役立ったらしい。雛はくすっと笑って膨れた頬から空気を抜くと、手を広げ、たった今つまんだばかりの場所を優しく撫でた。
「よろしい。では休憩を挟んでからもう一度テストしましょうか。今よりも点数が高くなることを期待します」
「うわ、ならもう全問正解するつもりじゃないとダメだろ」
「達成できたら、なんでも一つ言うこと聞いてあげますよ?」
「……乗った」
飴と鞭の巧みな使い分けもまた、家庭教師・雛の優れた点の一つと言えよう。