第10話『支え合う関係』
これはバイト先から帰宅する前、雛とやり取りしていたメッセージですでに伝えられていたことなのだが、今夜のメインのおかずである豚の角煮は我ながらかなり上手く作れたとのことだった。もとよりその丁寧さ故にじっくりコトコト的な時間をかける料理を得意としていた彼女だが、確かに自信を持って言うだけあって普段以上の出来映えであり、煮汁が沁み込んだ豚肉はホロホロと柔らかい上にジューシー。一緒に煮込んだ大根や煮玉子に至るまで隙のない仕事振りと言えた。
そんな夕食に舌鼓を打ちながら食べ進める内、一時はむくれていた雛の頬の空気も抜け、完食する頃にはいつもの穏やかな調子に戻っていた。そうして食休みも兼ねて雛とソファでまったりしていると、不意に何かを思い出したらしい雛が「そういえば」と口にして一度自室へ。すぐに戻ってきて優人に寄り添うように腰を下ろした彼女は、ファンシーなデザインの小包をテーブルの上に置いた。
「今日の家庭教師で伺った家の方から、ご厚意で頂いたんです」
雛が補足の説明を挟みながら封を開く。中に収められていたのはテニスボールより少し小さいサイズの球体が計六個。一つ一つが密閉用のビニールのフィルムで包装されており、マーブル模様のカラフルな色合いのそれらは一見するとマカロンのような甘い焼き菓子に見えた。
蓋の裏に記載されていた説明書きをざっと黙読し、優人はこれらが何であるかを正しく理解する。
「へえ、入浴剤か」
「正確にはバスボムというものみたいですね。最初はお菓子の詰め合わせかと思っちゃいました」
小さく笑った雛が一つを摘み、優人の目線の高さに持ち上げる。
重ねて言えばもちろん食べ物ではないので口にこそ入れないが、試しに顔を近付けて匂いを嗅いでみると、フィルム越しでも微かなラベンダーの香りがした。説明書きによれば紫色を基調とするこれはまさしくラベンダーであるらしく、他の五個も色によってそれぞれ香りが違っているらしい。パッケージと言い中身と言い、色々と手の込んだ品物だ。
「美肌効果とかもあるみたいだし、良かったじゃないか。ご褒美みたいなもんだ」
「アルバイト料も頂いた上でって考えるとちょっと恐れ多いんですけどね」
そもそもの仕事の対価は賃金という形できちんと雛に支払われている。だからこそそれに上乗せされることになると、逆に貰い過ぎているみたいで雛は畏縮してしまうのだろう。
でもこれは、それだけ雛が真摯に家庭教師に取り組み、その仕事振りを相手方が高く評価していることの分かりやすい証明だ。雛が頑張っていることを誰かに認められると、自分のことではないのに優人も嬉しくなる。
そんな想いを乗せて称えるように雛の背中を優しく叩けば、彼女はその横顔を面映ゆさで彩った。
「さて、せっかくこういったものを頂いたわけですから」
「ああ、風呂は先に雛が入ってこいよ」
そもそも風呂掃除だって雛がしたわけなのだから、今夜の一番風呂はもちろん彼女のものだ。手に入れたご褒美をしっかり堪能してくればいい。
「何を言ってるんですか優人さん」
「え?」
一足先の入浴を促す優人を見つめ、雛はにっこりと口の両端を持ち上げた。
「今夜は一緒に入りましょう。ね?」
どういうわけか、そういうわけになって、風呂が沸くや否やあれよあれよという感じで事は進んでいき、現在優人は浴室で座って待機中である。
隣の脱衣所の方では雛が服を脱いでいて、一枚の磨りガラス越しに動いている彼女のシルエットはどうにも艶めかしい。
何度も身体を重ねた間柄なのだ。今さら緊張で落ち着かなくなるなんてことはないけれど、それはそれとしてついつい目は吸い寄せられてしまう。なのでスライド式の浴室のドアが開いた瞬間、すぐに金糸雀色の瞳と視線が合い、雛は少しだけきょとんとした後に蠱惑的に笑った。
「お待たせしました」
雛はぺたりと素足の音を響かせ、後ろ手にドアを閉めながら浴室に入ってきた。
浴室の照明を反射するかのような雛の白く美しい裸身。一枚のタオルを胸に当てて膨らみの先端や下の局部こそ隠してはいるが、頼りない薄布で隠せる範囲など所詮その程度だ。細い首筋から続く鎖骨周りや胸の谷間はもちろんのこと、腰部から臀部、太腿にかけての理想的な曲線美は余さず晒け出されている。
無防備でありながら、決定的なところは見せない奥ゆかしさ。
雛が持つ天性のバランス感はいつだって優人を揺さぶる。
無意識に上から下まで眺め、それから上に戻ると、長い髪を簡単なおだんご状にまとめた雛が優人を見下ろしていた。くすっとこぼした雛の吐息が湯気と混ざる。
「どうしました? そんなにじっと見つめて」
「相変わらず綺麗だと思ってさ」
「……もうとっくに見慣れてるでしょうに」
「それとこれとは話が別だろ。綺麗なもんはいつ見たって綺麗なんだよ」
なんだかんだ直球の言葉には弱いのも相変わらずだ。ちょっとしたカウンターはどうやら有効打となったらしく、明らかに湯気とは別の要素で頬を淡く染める雛の姿に優人は気を良くした。
「ほら、頭と背中洗っちゃいますから優人さんは前を向いてください」
「はいはい」
まずは頭。予洗いから始め、優人が愛用しているシャンプー、コンディショナーと順繰りに進めていき、最後は髪に残った泡をきっちり落としきる。
続いて雛はスポンジでボディソープを泡立てると、出来上がったもこもこの白い泡で優人の背中を丁寧に撫で始めた。
時折ぐっと押し込まれるのがマッサージみたいで、絶妙な力加減は本当に心地よい。バイトの疲れがたちどころに洗い流されていくようだ。
「優人さん、ちょっと背が伸びました?」
「ん? あー……春に大学の健康診断で計った時は少し伸びてたな」
目を細めて背中からの感触に浸っていると雛から話を振られ、優人は思い返すように斜めを見上げながら答えた。
小数点以下まで含めた正確な数値となるとあやふやだが、去年に比べて間違いなく伸びてはいた。とはいえせいぜい一センチと少しの範囲、見た目にはほとんど反映されてないだろうに。
「よく気付いたな」
「ふふ、頼りがいのある背中がまた一段と逞しくなったなあと思いまして」
「まあ、将来的に大事な人をちゃんと背負えるようになりたいと思ってるからな」
「――こんな風にですか?」
後ろから耳元でそっと呟かれた直後、背中全体を確かな重みが覆った。
優人の肩に手を置いて、おんぶでもされるかのようにぴとりと張り付いてくる雛。ボディソープの泡に混じって伝わるのは素肌のなめらかさと、温かさと、二つの山のふくよかな柔らかさ。お互い裸なためにその感触はダイレクトで、背中越しであっても雛の胸の鼓動が伝わってくるようだった。
背負うとは言ってもそれはあくまで精神的な心構えの話であって、こういう物理的な話ではない――そんな野暮な指摘など、雛の愛情溢れるスキンシップの前では実に些末なことだ。
優人は恋人の存在をしっかり背負った上で、少しも前のめりになることなく胸を張った。
「こんな風にでもいいし、なんなら前からでも横からでもいいぞ? 好きなように来てくれ」
「言い切りましたね? なら今後も好きなだけ頼ります。――でも、それは優人さんもですよ?」
力関係が一転、雛の両腕が優人の首を絡め取り、今度は逆に彼女の方へと身体を傾けさせられる。さすがに体格差があるから雛は少し圧されたものの、彼女もまた背筋を伸ばして優人のことを受け止めてくれた。
雛は優人の肩口から顔を出すと、優しく微笑みながら頬の辺りでちゅっ、と可愛らしい水音を響かせた。
「私だって優人さんを支えたいと思ってるんですから、時にはこうやって寄りかかってくれなきゃダメですよ?」
「分かってるよ、ありがとう。……それはそれとして、この体勢は嬉しいけど雛がちょっとキツいんじゃないか?」
「まあ、少し」
体格差はイコールで体重差にもなるわけで、さすがに成人した男一人分の重みを物理的に支えるのは雛にとって大変だろう。
雛が向けてくれる心遣いは十二分に感じられた。それで満足だと身体を起こそうとした矢先、雛はどこか艶めいた声音でこう囁いた。
「でも嬉しいと言ってくれたことですし、続きは湯船の中でしてあげますね?」