第9話『変わらないもの』
早いと言っても早歩き程度。そんな風に思っていた優人の帰りの歩調は本人が自覚していたよりもペースの早いものだったらしく、自宅マンションのエントランスに辿り着く頃には若干だか息が荒くなり、額にはうっすらと汗も滲んでいた。
雛に知られると余計な気遣いを生むかもしれないので、部屋に向かうまでの間に呼吸は落ち着かせ、額の汗も手の甲で拭っておく。そうして体裁を整えると、優人は鞄から一昨年の誕生日に雛から貰ったキーケースを取り出した。
家にはもちろん優人の帰りを待つ雛がいるが、防犯のため基本的には在宅中でも玄関を施錠している。なので優人は鍵を開け、そしてその音で帰宅に気付いたのか、優人が玄関を開けるタイミングと愛しい恋人がリビングに続く廊下の奥から姿を現すのはほぼ同時だった。
「おかえりなさい」
ふわりと淑やかな笑顔を浮かべ、雛は優人を出迎える。
こちらの帰宅に合わせて今まで夕食を準備していたためか、シュシュで長い髪をひとまとめにしたエプロン姿の雛。以前にも増して新妻感が板に付いてきた彼女にこうして出迎えられれば、優人の口元が勝手に緩んでしまうのも致し方ないことだ。
「ただいま。遅くなったな」
玄関に座って靴を脱ぎながらそう口にすると、雛は柔らかな表情のまま「大丈夫ですよ」と首を横に振る。
「私が好きで待ってるんですから気にしないでください。というか優人さん、ひょっとして急いで帰ってきました?」
「……なんでそう思った?」
「汗、それなりにかいてるみたいなので」
雛は座ったまま固まる優人と目線の高さを合わせるように両膝を折り、優人の前髪を一房つまんで額を露わにする。
どうやら拭った汗がいつの間にか復活していたらしく、目敏い雛はそれを見逃さなかったようだ。
「いやほら、雛は好きで待ってるって言ったけど、だからってあんまり待たせるのは悪いと思ってだな」
「もう、本当に気にしないでいいですのに。それにしても、ふふ、そうやって割とすぐ認めちゃうあたりが優人さんらしいというか何というか」
「動かぬ証拠を見つけられたら何も言えないだろ」
「そうですか? 今は夏ですし、汗ぐらいなら蒸し暑かったからーとかごまかせたと思いますけど」
「……ご指導感謝するよ、現役家庭教師サマ」
「お褒めに預かり光栄です」
むふん、と雛が得意げに胸を張った。そうして二人で同時に立ち上がり、優人は雛の後に続いてリビングへ向かう。
「どうしますか? 実はもうお風呂掃除もしてありますから、先にさっぱりしたいのならお風呂からでも――あ」
「雛?」
言葉を途中で区切り、頭上で電球が点ったかのような表情でぽんと手を合わせる雛。そしてくるりと軽やかに振り返った彼女は、口の端を殊更に持ち上げて優人を上目遣いに見た。
「優人さん、ただいまってもう一度言ってくれませんか?」
「え、なんで?」
「なんでもです。さ、早く早く」
つまり、出迎えのやり直しを要求しているということだろうか。
エプロンの裾を整えて姿勢を正す雛の姿に疑問を覚えつつ、まあ別にそれぐらいならと特に深く考えもせず、優人は雛の言う通りに口を開く。
「ただいま」
「おかえりなさい。――ご飯にしますか? お風呂にしますか?」
それは聞いたことがあるようで、実際に雛の口から聞くのは初めてのフレーズだ。しかしそれ自体はとても有名で、ここから先に続く言葉がどういったものであるかを優人は瞬時に悟り、沸いてきた期待が心臓をドキリと震わせる。
いつの間にか優人の胸板に触れていた雛の手はその脈動をしっかり感じ取ったのだろう。くすりと小さな喜色の吐息をこぼした雛は、優人の方へと身を寄せながら背伸びをし、笑みを形作ったままの唇を優人の耳元へ近付けた。
密着する柔らかな感触以上に、次の言葉を唱えるためにすぅと吸い込まれた息の流れが優人の意識を灼く。
「そ れ と も」
小声で、もったいぶって、だから余計に、意識を奪っていく甘さを帯びた囁き。
耳孔から入り込む熱っぽい吐息と音色が優人を絡め取る中、やがて雛は最後の単語を唱えようとする。
「わ、」
――くううぅぅぅぅ……。
場違いな音が、雛の囁きを中断させた。
可愛らしいようでどこか主張が強いようにも聴こえるその音は、これまでにも何度か聴いたことがあって、密着されていただけに音の発生源である雛のお腹からの震えすらも優人はばっちり感じ取った。
今になって慌てて優人から離れてももう遅い。
さっきまでのこちらを弄ぶ小悪魔な雰囲気はどこへいったのやら。白い頬を真っ赤に染めてお腹を隠す雛の姿には、なんだか懐かしさすら感じてしまう。
「ぷっ……っふ、はははっ」
「わ、笑わなくてもいいじゃないですかっ。自分でも言うのもなんですけど、もう何回も似たようなことあったでしょ……!」
「いやだって、意外と雛ってこういうところは変わらないよなあって思って」
「うぅぅ……!」
同棲を始めてからというもの、どうにも雛にはイニシアチブを取られることが多かった。降って湧いたチャンスだろうと大いに活用させてもらおう。
「とりあえずまずはご飯だな。誰かさんも待ち切れないみたいだし」
「……それ以上言うと、優人さんのおかずを一品減らします」
「やめろやめろ死活問題だ。俺だって腹減ってるんだよ」
「だってを強調しないでくださいっ!」
ぺしっと二の腕を叩かれてもハムスターみたいに頬を膨らませた状態ではただ可愛いだけで、優人はとうとう声を上げて笑い出し、それを見た雛は逃げるようにリビングへ向かった。
結局あのフレーズは最後まで聞けずに終わってしまったけれど、それはまた、今後の楽しみに取っておこう。