第8話『優人のバイト先』
洋菓子店『カトレア』。
地元の方に愛好されつつ、評判を聞きつけて遠方から足を運ぶ人もいる隠れた名店――それが優人のバイト先だ。
基本的に持ち帰りの客が大半ではあるが、店内にはイートインスペースもあるのでその場で食べていくことも可能。また最近は冷凍商品の通販も始まり、ネット販売にも手を広げつつあった。
本日も滞りなく業務を終えた閉店後、優人はその『カトレア』の厨房で唇を引き結び、出来うるかぎり集中力を高めていた。
手にした絞り袋が漂うのは濃厚なカスタードの甘い匂い。
目前の作業台にずらりと並べられているのは、見ているだけでもサクサクとした食感が伝わるシュークリームの生地。横並びに十個、それが縦に四列の計四十個。
一つ一つでも美味しそうなそれらを前にしても気は抜けず、優人は深呼吸して肩の力を抜くと、横に立つショートボブの女性に目配せをした。
「用意はいい?」
彼女の問いかけに首を縦に振って応じる。
「それじゃ――スタート」
女性がストップウォッチのボタンを押し込むと同時、優人は手前右端の一個目にカスタードクリームを絞り出した。それから動きは止めず、絞り袋の高さは変えないように左へスライドしながら、次々に新たな生地へとクリームを盛っていく。
最初の一列が終われば折り返しですぐに次の列へ。
素早く、しかし決して雑にならないように。早さと正確性の塩梅を突き詰めながら手を動かし続け、やがて最後の一個まで終わったところで優人はぱっと顔を上げた。
間髪入れずに女性が再びストップウォッチを操作し、画面に視線を落とす。
「……どうでしたか?」
結果の是非を求める優人の内心は結構ドキドキだ。彼女はあまり表情が変わらない人なだけに顔色から察することできないから、余計にその感情に拍車がかかる。
彼女の視線がストップウォッチから出来上がったシュークリームへと移り、じっと眺めることしばらく。優人が固唾を呑んで結果発表を待つ中、ようやく『カトレア』店主――涼宮華はその口を開いた。
「時間、それと出来上がりの形は及第点。でも一つ一つの重さにはまだバラつきが残るかな。例えば……二列目の左から四個目、たぶん五グラム多いよ」
華に言われ、優人は試しにデジタル秤で計ってみる。
「……うわ、本当だ」
表示されたグラム数からシュークリームの生地の分を引いてみると、恐ろしいことに華の指摘とピタリと合致した。
見ただけで言い当てるなんていったいこの人には何が見えているのだろうか。普通に怖い。
華の眼力に優人が戦々恐々としていると、今度は軽い調子の男性の笑い声が厨房に響いた。
「いや五グラムて、そんなんもう誤差ですやん誤差」
この職場における優人の先輩、椎葉達人。優人より一歳年上の彼は今まで勤しんでいた床掃除の手を止めると、持っていたモップの柄の先に両手と顎を乗せて、へらりと緩い笑みを浮かべた。
聞いての通りの関西弁だが、別に生まれや育ちがそっち方面というわけではないらしい。『この喋りの方がなんか親しみ持てへん?』というのが以前理由を訊いてみた時の本人の弁だ。
「華さん、さすがに厳しすぎるんとちゃいますん? 少ないならまだしも多い分にはお客さんも得するわけなんやから、そこまで気にせんでもええと思うけどなぁ」
「何言ってるの。天見くんは将来自分のお店を持ちたいって子なんだから、今の内から材料の管理にも意識を払わないとダメ。お客様が得する以上、無駄とまでは言わないけれど、余計なコストをかけることは結果的に利益を失うことに繋がるから」
「せやかて、そないタイムアタックみたいな真似せえへんでも……」
「それもお店を持つための修行の一環。個人経営なんてそうそうたくさん人を雇えるわけじゃないんだから、出来るかぎり自分の作業スピードを上げることは大事だよ。それに、もしかしたら自分の店を持つんじゃなくてどこかの現場で働く可能性もあるんだから、今から鍛えておいても絶対に無駄にはならない。手際が良いっていうのはそれだけで十分な武器に――」
「はい、はーい、おっしゃる通りの正論です。僕が間違うてましたー」
ぱっと両手を上げて降参の意を示し、逃げるように掃除に戻る達人。
達人が冗談などを言い、華が諫め、それを見た優人が苦笑を浮かべる。これがこの三人で働く時によく起きる定番の流れだった。
そういった場面だけ切り取ると達人に軽薄な印象を覚えるかもしれないが、その働きぶり自体は優人が見習うほどにしっかりしている。現に彼が掃除をした箇所にはゴミ一つ落ちていなかった。
ところで、今回優人が作ったシュークリームは通販用の商品だ。華による細部への手直しを加わった後、優人はそれらを冷凍庫に収納する。形が崩れないよう慎重に収めたところで達人が近付いてきた。
「天見くんも大変やなぁ。あない鬼教官が師匠なんて」
「そうですね。でもまあ色々と厳しいところはありますけど、指摘は本当に的確ですから。華さんの教えはかなりタメになりますよ」
「……天見くん、ほんまに僕の年下なん? 向上心の塊すぎて感動するんやけど」
「え……あ、どうも、恐縮です」
「ほら、何してるの。仕事終わったんなら早く上がって」
「あ、はい、お疲れ様です」
「お先でーす」
華に促され、達人と共に厨房を後にした。
着替えを始める前に雛へとメッセージ。すでに大体の帰宅時間は教えてあるが、改めて何時頃に家に着くかを伝えておく。すると一分もかからずに返事が来た。
『美味しいご飯を用意して待ってますね』
嬉しいメッセージに自然と笑みがこぼれる。
そうしてつい変わるわけでもないメッセージの文面を眺めていると、先に着替えを済ませた達人が声をかけてきた。
「せや天見くん、急な話であれなんやけど今日飲みに行かへん?」
「これからってことですか?」
「そそ。休みのヤツらも二、三人呼んで行こうってことになってな。あと途中からやけど華さんも来るって。ですよねー、華さーん?」
ちょうどよくロッカールームにやって来た華が、達人の呼びかけに首肯と手振りで応じていた。
「ってわけなんやけど、天見くんはどないする?」
「あー……すいません。今日はもう、一緒に住んでる彼女が夕飯作って待っててくれてるんで」
「おぉ、そういや同棲始めたんやっけ。そらしゃーないな」
「本当にすいません、せっかく誘って頂いたのに」
「かまへんかまへん。急に決まった話やから気にせんでええよ。今度はこっちも余裕持って誘うわ」
「ありがとうございます。じゃあお先です」
「うん、ほなまたなー」
達人と話している間にも着替えを進めておいた。自分のロッカーから手荷物を取り出すと、優人は達人と華に軽く頭を下げて職場を後にする。
遅くなっても雛は待ってくれているのだから、せっかくだし日頃の感謝も込めて何かお土産でも用意して帰ろうか。
そんなことを考えながら帰り道を歩く優人の歩調は、行きよりも少し早かった。
「華さん、さっきの聞いてはりました?」
優人がいなくなった後のロッカールームで達人からそう問いかけられ、事務机に座る華は手元の発注書から視線を持ち上げた。なんだか神妙な顔をしている達人が目に入るが、どうせまたくだらないことを言い出すであろうことはこれまでの付き合いで分かっている。
だから華はすぐ発注書に視線を戻し、とはいえ会話には応じる。
「さっきのってキミと天見くんの会話のこと? 聞こえてはいたけど、それが?」
「彼女がメシ作って待っててくれてる、言うてたやないですか。めっちゃ羨ましい、僕も一度はあんな理由で誘いを断ってみたいなぁと思て。華さんも分かりますやろ?」
「キミと一緒にしないでもらえるかな?」
「いやいや、そう邪険にせんと。同じ独り身なんやからそこについては同じ穴の狢ですやん」
「…………」
それを言われると返す言葉はない。そして達人の気持ちに共感してしまうところがあるのがちょっぴり悔しい。
たまに話を聞くだけでも仲睦まじいことが窺える、優人とその恋人。別に優人に恋心を抱いているわけではないが、ああいった真面目で良い男を射止めた彼女を羨ましいと思う気持ちは確かにあった。
「天見くんと彼女さん、高校の時からの付き合いだっけ。だからもう……三年ぐらい? 喧嘩らしい喧嘩もしてないみたいだし、本当に仲が良いんだね」
「せやなぁ。天見くんの彼女ってあれですやろ、何度か店にも来たあのごっつ綺麗な子。あんな子が彼女とかほんま羨ましいわぁ。………………いやほんま羨ましいな。爆発せえへんかなアイツ」
「男の嫉妬はみっともないよ」
いつの間にか達人の目が据わっているので、華はその情けない姿に冷ややかな視線を送った。
「せやかて男なら誰でもあんな彼女欲しいと思いますて! 美人で、笑顔は可愛くて、優しそうで、おまけに料理もできる。それに服の上から見た感じ、おっぱいもなかなかのもんみたいやし」
「…………」
「お? なんですの華さん? ゴミを見るような目して」
「本気で良い子を彼女にしたいと思うなら、まずはそういう発言を控えた方がいいんじゃないかな?」
「あはは、手厳しいなぁ。華さんには関係ない話なんやから、そう目くじら立てんでも、」
「――――」
「華さん? いくらボールペンかて先っぽ人に向けたら危ないで?」
人が気にしていることを、よくもこの男は。
いや落ち着こう。別にあってもなくても菓子作りの腕にはなんら一切関係ないのだから。
「ほら、皆で飲みに行くんでしょ。これ片付けたら私も行くから、それまでに場を盛り上げといて」
「うぃっす、任されました! ……にしても、彼女がメシ作って待ってるから、かぁ」
「今度はなに?」
「いや、彼氏彼女やのうて、もう完全らぶらぶ新婚夫婦やんと思て」
「それは私も思った」
あの一瞬、『あれ、もう結婚してたっけ?』と勘違いしたのは内緒だ。