第187話『伝えることの大切さ』
「ってまあ、ひっくり返す時のコツはこんな感じだ」
「はー……天見先輩って手先が器用なんですねえ」
「それにウチの大学生のお兄ちゃんよりも落ち着きがある……。空森さん、良い人捕まえたね!」
「先輩先輩、次は私の見てもらえますか!」
「はいよ。どんな感じだ?」
講座開始時の小唄たちのフォロー、そして雛の彼氏というある意味信用できるステータスが役に立ってくれたおかげもあり、男子の後の女子のテーブルでも優人は快く迎えられた。
そんな風に二つのテーブルで何度か行ったり来たりを繰り返す間に時間は進み、本日のパンケーキ講座はお開きとなった。
家庭科室の窓から覗く空は、気付けばすっかり夕闇に色づいている。今に至るまでの時間が体感だと短く感じてしまう辺り、それだけ集中できる密度の濃い時間を過ごせたということだろう。
優人は家庭科室のカーテンを閉めると、振り返って食器棚の方で作業中の雛の背中に声をかける。
「そっちの片付けはどうだ?」
「もう終わりますよ。そろそろ帰りましょうか」
室内に残っているのは優人と雛の二人だけだ。小唄や後輩たちは各々が焼いた今日の成果を持って家庭科室を後にし、残った優人たちが後片付けをしている。
もっとも片付けの大部分は全員で行なったので、優人たちのやることは洗ってしっかり乾燥した食器類を棚に戻したり、調理台の表面をざっと拭くぐらいで大した労力はかからない。だから最後まで全員で残る必要はなく、あまり遅くなっても悪いので他の面子は先に帰らせただけの話なのだが、帰り際に生暖かい視線を送られたことから考えるに意図を曲解されている気がしないでもない。
小さな息を吐き、優人は材料の残りを持参の紙袋に詰め込む。
人によって上達の進捗状況に多少の差はあったものの、文化祭へ向けての練習としては上々の結果を残せたことだろう。自分でもうまく講師役を務められたと思う。
……いや、本当に務められたか?
一度気になるとどうにも落ち着かなくなり、優人は同じように荷物をまとめている雛を見た。
「なあ雛、今日の俺ってうまくやれてたと思うか?」
返ってきたのは、ほんのりと呆れたような優しい笑みだ。
「まったく、優人さんってばどれだけ心配性なんですか。うまくも何も満点をあげても申し分ないぐらいの先生っぷりでしたよ? 女子のテーブルに来た時だって、皆からとても頼りにされて……――」
「……雛?」
口を噤み、浮かべていた笑みを引っ込める雛。何とも言えない真顔になった彼女は荷物を置いたまま家庭科室のドアに近付く。
カチャン、と鍵をかける音。
そろそろ帰りましょうなんて言ったのは雛の方で、なのに噛み合わない行動が優人に疑問を抱かせる。
困惑する優人をよそに振り返った雛は一直線に優人へ近付くと……ぎゅうっと抱きついてきた。
「お、おい雛」
「ごめんなさい、ちょっとだけこうさせてください……」
優人の胸に顔をうずめたまま、くぐもりがちな雛の返事。
でも、学校でこんな、もし誰かが部屋に入ってきたら。
ああ、だから鍵を閉めたのか。
雛の行動に合点がいったと同時、ふっと表情を和らげて力を抜いた優人は、優しく迎え入れるように雛の身体を抱き返した。
よもや学校で大胆な触れ合いに及んだ雛の意図はまだ分からないが、何か急に甘えたくなったのかもしれない。鍵も閉めたことだし、少しの間なら誰かに見咎められることもないだろうと雛を包み込めば、優人の背中に回った細い両腕により力が入る。
何だろう。例えるなら今の雛は、大事なぬいぐるみを掴んで離さない幼子のような印象を抱かせた。
「どうかしたか?」
そんなイメージを覚えてしまったせいか、雛にかける自分の声もいつもより柔らかい。
尋ねながらぽんぽんと雛の背中を叩いてみると、ようやく朱色に染まった可愛らしい顔が優人を見上げた。
「……改めて思いますけど、優人さんって包容力高めですよね」
「まあ、甘える彼女を受け止められるぐらいにはって心がけてるつもりだ」
「そんなだから、もう……」
「?」
首を傾げると、雛はまた優人の胸に顔をぐりぐりと押しつける。今度はまるでマーキングだ。
「自分でもめんどくさいことを言ってるなとは思うんですけど……」
「うん」
「女の子たちに教えてる時、頼りにされて、囲まれてる優人さんを思い出して……なんだか、もやもやしちゃいました」
「やきもち?」
「…………」
こくんと頷かれた。
顔は見えないけれど、真っ赤に色づいた耳が雛の気持ちを十二分に伝えてくれる。そのいじらしい態度を見ているだけで優人の口角は自然と上がってしまう。
「そっか」
「べ、別に優人さんを取られるとかそういうわけじゃないし、優人さんにしたってとても誠実なんですから、大丈夫だとは分かってるつもりなんですけど……その……めんどくさくってごめんなさい……」
「謝るほどかよ」
努めて柔らかい声音を意識し、雛の髪を梳くようにゆっくりと撫でていく。
めんどくさいと言われたら確かにそうかもしれないけれど、これぐらいなら可愛らしいわがままの範疇だ。
「それこそ文化祭で雛がメイドをやることに難色を示した俺だって、同じぐらいめんどくさい奴だろ。似た者同士でいいじゃないか」
「それは、そうかもですけど……」
「というか俺としては、変に我慢して溜め込まれるよりはこうやって素直に言ってくれた方がありがたいぞ?」
「優人さん……」
もちろん日頃から雛のことをちゃんと見て、何かしら言いたいことがあるようなら、なるべく早く気付いてあげられるようにと心構えはしているつもりだ。
けれど、優人はエスパーでも何でもない。
理想はともかく、いつだって雛の内心を十全に察することなんてできやしない。
それは雛だって、いや、人は誰でもそうだろう。
だからこそ足りない分を埋めるために、何よりも言葉を尽くすことが大切なのだと優人は思っている。
「雛――」
雛の耳元にそっと口を寄せる。
彼女は伝えてくれた。なら、今度はこっちの番。
これから結構恥ずかしいことを言おうとしてる自覚はあって、口にする前から顔が熱を帯びてくるけれど、ここで尻込みするようでは雛の彼氏失格だ。
「安心してくれ。雛は俺にとって誰よりも素敵な女の子だ。それはこれからも絶対変わらないし、他の人に目移りなんてしない。俺はずっと雛の隣にいる――」
言い切ったと同時、優人の唇は甘く柔らかな感触で蓋をされてしまうのだった。




