第171話『待ちに待った旅行の始まり』
八月下旬、晴天にも恵まれたその日は雛との旅行当日だった。
お互いの性分的に、遊び回るよりも一つの場所に腰を据えて落ち着く方が好みということもあり、形としては温泉旅行。いつかの銭湯の帰り道に雛と交わした世間話がめでたく実現したわけだ。
「そろそろ見えてくる頃でしょうか?」
「たぶんな」
目的地へ向かうバスの車内、二人掛けの座席の窓側に座る雛の言葉に優人は相槌を打った。
優人の両親からの金銭的援助もあり、今回泊まる温泉旅館『いちのせ』はなかなかに値は張るが質の高い場所だ。
ホームページからの情報によると、木造のその建物自体が立てられてからは年数こそ経過しているものの、日頃の掃除や定期的なメンテナンスによって綺麗に保たれており、掲載されていた館内写真を眺めるだけでも風情の良さが感じられた。もちろん実際に見るとではまだ印象も違ってくるかもしれないが、旅行サイトのレビューでも高評価なので期待を下回ることはないだろう。
また、建物が海沿いに面しているということもあって旅館周辺の景色も良いらしい。
それこそ雛の言う通り、そろそろ――
「わあ……!」
優人の耳を打つ、感動を伴う雛の弾んだ声。旅館のホームページを表示させていたスマホから視線を持ち上げると、バスの車窓からは太陽の光を浴びて煌めく青い海原が一望できた。
遠目から見たところ、ちらほらと海に入っている人たちの姿も見える。八月も後半になるとくらげが発生する関係で海水浴は控えられる傾向にあるが、今回訪れた場所はそういった影響も比較的少ないらしい。
「どうする? 旅館に着いたら一旦荷物だけ預けて、海の方に行ってみるか?」
「そうですね。せっかくだし覗いていきましょう」
振り返った雛が金糸雀色の瞳を輝かせる。
海はあくまで景色として楽しむと割り切っていたので、今回の持ち物の中に水着の類はない。だが実際に目の当たりにした夏の海は想像以上に綺麗であり、つい足を運んでみたくなる魅力があった。
海に入るまではできなくとも、波打ち際を歩く程度なら。最悪濡れても旅館はすぐ近くだ。
再び海の方へと目を向けて楽しそうに肩を揺らす雛の姿に軽く笑いながら、優人はバスの降車ボタンへと手を伸ばした。
「わっ、つめたいっ」
「はしゃぐのはいいけど、はしゃぎ過ぎて転ぶなよー」
「そこまで子供じゃありませんよー!」
果たしてどうだか。
言葉の割にはあまり説得力がなさそうな雛の背中を眺め、優人は強い日差しを手で遮りながら苦笑を浮かべた。
海水浴客の大半がいる、メインのスペースからは少し横に外れた波打ち際。
ひとまず砂浜の上に佇んで海を眺める優人に対し、綺麗な海を前にしてなのかいつもよりテンションがやや高めに思える雛は、早くも靴を脱いで脛辺りまでが海水に浸かる程度の位置にいる。
寄せては返す潮の満ち引きの線を飛び越えて、どこか踊るようなステップで波打ち際を歩く雛。いや、実際一つのダンスとして成立しているぐらい、彼女の動きは様になっていた。
ウエストを引き締め、その細さを際立たせるチューリップワンピースと、日焼け対策のためにと被っている麦わら帽子。その下の笑顔は童心に返ったようにあどけなく、優人の視線を吸い寄せる。
ぱしゃっ。
濡らさないようにと、両手で摘まれたワンピースの裾から伸びる白い足は小さな波を蹴り上げる。舞い上げられた海水の粒が日差しできらきらと輝き、雛という主役の魅力にさらなる彩りを加えた。
写真の一枚にでも残せないのが惜しい。万が一にも濡れたら面倒だと思い、旅館に荷物ごとスマホを預けてきたのは失敗だった。
「優人さーん、こっちこっちー! 冷たくて気持ちいいですよー!」
ちょっとした後悔を優人が覚えていると、それを跳ねのけるほどの明るい声で雛から呼ばれた。
恋人からのお呼びとあらば応じないわけにもいかず、雛に返事をして適当に靴を脱ぎ捨てると、優人もまた海の方へと足を進める。
「おお、結構つめたいけど、日差しがきつい分ちょうどいいな」
「はい。風も吹いてて気持ちいいです」
「潮風なんてベタつくだけだと思ったけど、なんかいかにも夏って感じの匂いがする」
「これぞ海って感じですねえ。――それっ」
また雛が足を蹴り上げ、今度は優人の方へと海水を浴びせてくる。せいぜい膝までが濡れる程度の些細なちょっかいだが一発は一発だ。優人も同じように蹴り返すと、雛は笑みを深めてそれを受け入れた。
「ふふ、やりましたね。ではもういっか――ふあっ!?」
瞬間、雛が大きくバランスを崩した。
片足を振り上げたタイミングで波が来たせいか、もしくは足下の砂にでも足をとられたのか。理由は色々考えられるが、とにもかくにも近くにいたのが攻を奏し、雛の身体が海に倒れ込む前に腕を掴むことができた。
優人は掴んだ手を引き、雛の身体を自分の胸の内へと引き寄せる。頭が事態に追いつかずにぱちくりと目を丸くしていた雛も、やがて何が起きたのかを理解して、気恥ずかしそうに頬を林檎の色に染めた。
「そこまで子供じゃありません、だっけか?」
「うぅ……」
意地悪なのは自覚しつつ先ほどの雛の台詞を繰り返すと、頬の赤みはなおのこと濃くなった。
「すいませんでした……」
「別に謝るほどのことじゃないっての。まあ、雛にしては珍しいはしゃぎようだなって思うけど」
「それは、だって……本当に楽しみだったんですもの。優人さんとの、旅行」
優人の腕の中に抱かれたまま、拗ねたように唇を尖らせる雛。
恥じらいからか優人を真っ直ぐに見れない上目遣いが一段と可愛らしく、目の前の恋人のいじらしさが優人の胸を強く打つ。
たまらず、その場で桜色の唇を奪った。相も変わらずの艶と柔らかさを持つ唇をやんわりと味わい、ちゅっと軽く吸い付いた後に顔を離せば、雛の頬の火照り具合は最高潮だ。
「も、もう、人前でだなんて」
「距離は離れてるし、俺の身体で隠れてるから見えてないよ。抱き締めてることはバレてるだろうけど……まあ、俺もはしゃいでるってことで許してくれ」
「……ばか。そんなこと言われたら、許す以外の選択肢がないじゃないですか」
くすりとした微笑みを覗かせて、「ちゃんと隠してくださいね?」と囁かれた雛から唇を重ねられるのはすぐ後のことだった。




