第149話『彼女として外せないこと』
宿題を進めたりオープンキャンパスを見に行ったりと、夏休みの日々が着実にその数を重ねていく八月上旬のある日のこと。
外出の身支度を整えた優人はアパートの外廊下の柵に両肘を置き、太陽がこれでもかと輝く抜けるような青空を見上げ、鬱陶しそうに目を眇めた。
照りつける日差しは今日も今日とて眩しい。まだそう日が高くない午前中でこれなのだがら、これから時間が経つごとにさらに気温が上がることだろう。
ニュース番組でも熱中症の危険性が口うるさく語られていたことだし、気を付けておかなければ。ただでさえ今日は、少し遠出をすることになるのだから。
足下に置いた大きめのバッグを一瞥すると、優人の背後で玄関の戸が開き可憐な少女が姿を現す。その手にはキャスター付きのトランクケース。見た目にそぐわず重そうなそれを外廊下に置いた彼女は、きっちりと戸締まりを済ませてから優人の方を振り返った。
肩まで伸びた群青色の髪が流れ、ふわりと甘い香りが振りまかれる。
「お待たせしました」
「忘れ物は無いか?」
「ええ、ばっちりです」
柔らかな笑顔ではっきりと頷いた雛はトランクケースの持ち手をぽんと叩いてみせる。
何事にも抜かりがない彼女には要らぬ心配だったか、と軽く笑った優人は改めて目前の恋人の姿を上から下まで眺めた。
「…………」
「どうしました、優人さん?」
「いや、なんかこう、完全装備だなと思って」
「それはもう。これから会う相手が相手ですしね」
やや緊張した様子ながらも意気込む雛の格好は、夏らしく涼しげな白いオフショルダーのワンピースだ。露わになったデコルテや裾から伸びる素足は白さが眩しく、先日のプールでも日焼けには入念に気を配っていたであろう雛の努力が窺える。
そんな素肌を薄化粧で彩り、片耳の少し上には桜の花を模したヘアピン、小さな唇はリップを塗って艶めかせる等々、優人がプレゼントした品々も駆使した清楚かつ完璧なコーディネートを体現していた。
実に惜しい。これで背景が一面のひまわり畑だったら、もう何も言うことはなかっただろう。
それはまたいつかの機会に、などと捨てきれない欲を胸に秘めつつ、優人は雛のトランクケースへと手を伸ばす。しかし、その動きは雛によって制され、行き場を失った優人の手は代わりに雛の手へと迎え入れられた。
「荷物を持ってくれるのはありがたいですけど、どうせならこっちの方が嬉しいです」
(いちいち可愛い……)
繋いだ手から得られる柔らかさと淡いはにかみは、相変わらずこちらの平静を狂わせるものだ。
優人が「分かった」と恋人繋ぎで握り直せば、雛はなおさら幸せそうな笑みを深くし、やんわりと優人の腕を引いて歩き出す。
「それでは行きましょうか――優人さんの実家」
事の起こりはこうだ。
かねてから決めていた予定通り、優人の両親――安奈と厳太郎が夏休み中に帰国する。当初の予定では休暇を兼ねた一週間ほどの帰国だったが、変更になった仕事の関係で二、三ヶ月、場合によってはそれ以上を日本で過ごすことになるらしい。そうなると最初は視野に入れていたホテル滞在よりも、日本に残してある実家で過ごす方が都合が良いだろうという判断になった。
とはいえ、だ。家の管理はある程度こそ業者に任せているにしても、実際にまた住むとなると色々とチェックしなければならない部分もある。細かいところの掃除や、生活における消耗品の補充などなど。
そういったしち面倒なことを帰国してすぐに整えなければならないというのは、まあ確かに億劫だ。
そこで先んじて実家へと向かい諸々の事前準備を済ませることが、今回優人たちに任された役割というわけである。
使い勝手のいい労働力として扱われている感は否めないが、安奈からとある交換条件を交渉のカードとして提示されてしまうと、手を伸ばさずにはいられなかった。むしろ得られる恩恵を考えれば渡りに船ともいえるものだった辺り、結局自分は母親の手のひらの上で踊らされただけなのかもしれない。
「なんか悪いな。わざわざ遠出までして付き合わせる結果になって」
ガタゴトと揺れる電車の中、出入り口の端に立って外を眺めている雛に声をかけると、温かな表情で首を横に振られる。
「とんでもありません。というかですね、私たちが計画していた旅行について手助けしてくれるという話なら、なおさら優人さんだけに任せるわけにはいかないじゃないですか。一緒に旅行に行きたいのは私も同じなんです」
一人で片付けるなんてそれこそ許さない、とでも言いたげな視線で優人を見上げ、握り拳を作った雛はむんっと可愛らしく意気込んだ。
安奈が提示した交換条件とは、つまりそういうことである。金銭面に不安がある学生旅行において、大人からの資金援助をしてもらえるというのは実際かなりありがたい。おかげで計画の目処もついた。
考えようによっては軽いバイトみたいなもんかと内心で結論づけていれば、雛が「それに」と言葉を付け足す。
「優人さんの彼女になった今、一度ちゃんとご挨拶したいなとは思っていましたから」
「本当に考え方が真面目だよなあ、雛は」
「優人さんの彼女だって胸を張りたいだけですよ、私は」
そう言ってのけ、雛は宣言通り胸を張った。
些か目のやりどころに困る無防備さだが、本気でそう思ってくれていることが分かるだけに自然と優人の頬は緩む。ここが電車内でなければ――いや、周りに人さえいなければ、今すぐ雛を抱き寄せて頭を撫でていたかもしれない。
「でもあまり気負いすぎるなよ? 母さんはともかく、父さんとは完全に初対面になるだろ」
「……が、がんばります」
勢いはさておき、やはり緊張するものは緊張するらしい。
早くも目を閉じて深呼吸を始める姿は微笑ましい気持ちで眺めつつ、少しでも彼女を落ち着かせる助けになればと優人は丁寧な仕草で手入れの行き届いた髪を梳いた。




