第148話『怪我の功名』
「あ゛ー……」
「ど、どうしたんですか優人さん?」
プール翌日の昼下がり、雛の部屋で昼食を共にした食後に優人が我慢し切れず気怠げな声を漏らすと、雛は怪訝そうに目を見開いた。
自分でも思ったより低音の唸り声になってしまったが、負ったダメージの濃さはともかく問題自体は深刻というわけでもないので、心配そうにこちらを見つめる雛には「すまん、大丈夫」と手を振っておく。
「ちょっと筋肉痛なだけ」
「ああ、昨日のプールの影響ですか。……こう言ってはなんですけど、そこまで辛くなるほど動いてましたっけ? ビーチバレーだって割と緩い雰囲気だったと思いますが」
「いや、たぶんプールでじゃなくて、帰った後にした筋トレのせいだと思う。一騎に教えてもらった方法をさっそく試したら……まあ、初回から飛ばし過ぎたな」
「何をやってるんですかもう……」
ただの優人の自業自得と分かっただけに、雛はこれみよがしに大きなため息をついた。
「自己鍛錬に励むのはいいことですけど、それで身体を壊したら元も子もありませんよ? 特に優人さんは運動部というわけでもないんですから、運動量は段階を踏んで上げていかないとダメじゃないですか」
「はい、おっしゃる通りです、はい」
あまり向けられたことのない純度100%の呆れがぷすぷすと突き刺さる中、人差し指を立てて、まるで子供に言い聞かせるような雛の注意には頭が上げられなかった。
実は一騎からも「最初は様子見程度にしとけよ?」と言い含められていたのにこの有様である。
プールで身体を動かしたその日の名残と、『引き締まった肉体を手に入れて雛をドキドキさせる』という分かりやすい目標に突き動かされた故とはいえ、少し自重するべきだったと反省する。
「とにかく、くれぐれも無理はしないこと。優人さんが怪我でもしたら、私、泣いちゃいますからね?」
「肝に銘じさせて頂きます」
「そうしてください」
女の涙を人質に取られてはいよいよお手上げだ。
平身低頭と言わんばかりに優人が頭を下げれば、ようやく雛の膨れた頬からも空気が抜けてくれた。
今夜のお夕飯には鶏のささみでも使いましょうか、などと呟きながら、スマホを手にして操作し始める雛。
頼まれたわけでもないのに筋トレ補助メニューを考える恋人の姿は、まるで甲斐甲斐しさが形となって現れたようであり、パサパサになりやすいささみも雛の手にかかれば美味しい一品に昇華されることだろう。
つくづく自分は相手に恵まれた、という幸福を優人がひっそりと噛み締めていれば、ややあってスマホから顔を上げた雛は優人の全身に目を走らせる。
「辛いのはどの辺りなんですか?」
「え? あー……昨日は腕立てとスクワット中心だったから……上半身はそこまでだけど、太ももとふくらはぎ辺りがキツいかな」
「なるほど。では優人さん、ベッドでうつ伏せになってください」
「へ?」
淡々と言われた突然の指示にドキリとする。
ここは雛の部屋、つまりベッドとは雛が普段寝ているものであり、いくら恋仲とはいえおいそれと寝転がるには躊躇いを覚えてしまう。
しかし、優人のそんな胸中など露知らず、立ち上がった雛はベッドに近付くと清潔な白いシーツが敷かれた面をぽふぽふと叩いた。
「少しでも楽になれるよう、マッサージして差し上げますよ。まあ、たった今調べたばかりの付け焼き刃にはなりますけど」
「いいのか?」
「はい」
願ってもない申し出に聞き返せば、柔らかな笑顔で頷かれた。
実にありがたい。密かに浮かび上がっていたよからぬ妄想は完全に頭の片隅から退出してもらい、「なら頼む」と答えた優人は言われた通りベッドにうつ伏せになった。
素肌に伝わる温かな感触は、カーテンを通して窓からうっすらと差し込む日光によるもの。そう理解しているのに、ここが雛のベッドの上だというだけで、シーツからほんのり香る彼女の残り香と一緒になって優人の心臓をざわつかせる。
「それでは失礼しますね」
「……ん」
今日の雛はスカートじゃなくてよかった。
ショートパンツから伸びるしなやかな両脚にそれはそれで目を奪われそうになりつつ、優人は自分の両腕を枕代わりにして雛の行動を待つ。すぐにベッドのスプリングが軋んだかと思えば、まずは優人の右ふくらはぎに雛の小さな両手が添えられ、ぐにぐにとゆっくり揉まれていく。
「んっ、しょ……軽く解す程度がいいみたいなので強い力は入れませんけど、もし痛かったらすぐ言ってくださいね?」
「りょーかーい。でもそんな心配は必要ないぐらいちょうどいいぞー」
「じゃあ、こんな感じで続けますね」
優人の気の抜けた返答に一安心したのか、雛のマッサージも少しずつ調子が出てきたようだ。ふくらはぎ全体を揉み解された後、次は中心から外にかけてを親指で圧される。そして右が一段落すれば一息ついて今度は左と、どこかリズミカルなペースでマッサージは進んでいく。
とても心地良い。優しく丁寧な雛の手付きがそもそもではあるが、時折背後から聞こえる控えめなかけ声は微笑ましく、おまけに彼女の甘い匂いに浸りながらの状態は至福の一言に尽きた。
ともすれば昼下がりのこの時間帯、リラックスした優人の意識はだんだと微睡みへと沈んでいく。
「気持ちいいですか、優人さん?」
「あー……いっそ金取れるぐらい、いいと思うぞー……。雛が整体とかで働いたら繁盛しそうだな……」
「――好評なのは嬉しいんですけど、さすがに買い被りが過ぎますねえ。さっきも言いましたけど、ただの付け焼き刃なんですよ?」
「いやでもー……」
「はいはい、だったらこの際肩とか背中もしてあげますから、優人さんはしばらく黙ってじっとしててくださいねー」
「わかったー……」
さぞだらしない返事をしたことだろう。
堪え切れないといった感じで聞こえた小さな笑い声を最後に、優人の視界は静かな暗闇で閉ざされていくのだった。
「寝ちゃった……」
優人から要望のあった太ももとふくらはぎ、それから宣言通りに肩や背中も一通りマッサージし終えると、雛は横向きになった優人の顔をそーっと覗き込んだ。
実に気持ちよさそうに寝ていらっしゃる。
それだけリラックスしてくれたわけだから嬉しいし、好きな人の寝顔は眺めているだけで心が温まる。
自然と顔がにやけてしまうほど――と言いたいところなのだが、その事実を前にしても、ちょっとばかりむくれ気味なのが雛の現状であった。
だって、優人は分かってない。実に分かっていないのだから。
お金を取れるぐらい上手いだの、整体で働いたら繁盛しそうだの――
「私はあなただから、こんな風にサービスしてるんですからねー?」
最低限起こさないようには気を付けつつ、「ばーか」と拗ねたように呟いて優人の額を指でつついた。
まったくもう、どれだけ惚れ込んでいると思っているのやら。
「……ふふっ」
まあいい。お金を取れるとまで評したのは他でもない優人なのだから、マッサージを請け負った分の対価はきっちりと支払ってもらおう。
マッサージの方法を調べた後に置いてあったスマホを改めて手にすると、素早くカメラを起動。優人の無防備な寝顔にピントを合わせてシャッターボタンをタップする。
幸いにもシャッター音で優人が起きることはなく、雛は見事『恋人の寝顔写真』という十分な報酬を得ることができた。
もっとも寝顔だけで言えば、学校で居眠りしている優人の写真をエリスからの提供で手に入れているのだけれど、やはり自分の手で激写した一枚というものは、なかなかどうして得難いものがある。
……せっかくのチャンスだし、もう一枚ぐらい。
抑え切れない欲、そしてそれに悪戯心もプラスした雛は、カメラを自撮りモードに切り替えて優人の頬に唇を寄せていく。
今から撮る一枚は、自分にとっての秘蔵の一枚になる予定だ。
でもいつか、目の前で眠りこけている彼に見せたらどんな反応をするだろう。
ちょっと見てみたいかも、なんて思いながら、恋人の頬に優しい口づけを落とした雛は二回目の撮影を行った。
自分でしておいてなんだけど……写真の中の自分は、きっと赤くなっていることだろう。




