第145話『結局そうなんです』
ウォータースライダーや波のプールで遊んだ午前中が一段落した頃、そろそろお腹が空いてきたということで雛たちは施設内のフードコートを訪れていた。
施設内にあるだけに水着のまま利用可、ついでに支払いはロッカーキー一体型のリストバンドのバーコードで済ませられるので、わざわざ財布を持ってくる必要もなく便利だ。
エリスと共に席の確保を任された雛は四人掛けの丸テーブルに座りつつ、先んじて購入した飲み物のストローに口を付ける。冷えたオレンジジュースの甘みと、ほんのりとした酸味が喉に心地よい。
女性陣が席取りを担当する一方、男性陣は昼食の買い出しに繰り出しているのでこの場にはいない。とはいえ向かった先は少しだけ離れた出店なので、容易に目が届く範囲であり、何かあっても大きな声を出して呼びかければすぐに優人たちは戻ってくれることだろう。
それでいて、時折こちらの様子を確認するように視線を送ってくるのだから、少しの間でも気にかけてもらえる実感が持てて雛は嬉しくなる。
愛されてる、っていうことなのかな。
自分で思っておいて恥ずかしくなり、雛はごまかすようにオレンジジュースを強く吸い上げて、ちょっとむせた。
「大丈夫?」
「は、はい――けほっ、ありがとうございます」
すかさず背中を撫でてくれたエリスに礼を言い、ちょっと涙目になりつつもテーブル備え付けの紙ナプキンで口元を拭う。
気を取り直し、改めて視線を優人たちの方へ。あちらからこちらが見えるということはその逆もまた然りで、順番待ちしている彼らの様子がよく見て取れた。
言葉を交わしつつ何やら一騎の指示で優人が腕を曲げており、力こぶでも作るような動作を見ているかぎり、優人がさっそく一騎に筋トレのレクチャーでも受けているのかもしれない。
その有言実行っぷりには素直に感心しつつも、ドキドキさせるために頑張るからと宣言された身としては微妙に複雑だ。
今でも十分ドキドキしてるのに、とウォータースライダーでの一幕を思い返して頬を赤らめた雛は、またオレンジジュースに火照る頭の冷却を手伝ってもらった。今度はむせない。
「優人とはうまくいってるみたいだね」
性懲りもなく優人の姿を眺めているとエリスからそう声をかけられた。テーブルに頬杖をついた彼女はいつも通りの平坦な表情を浮かべているが、その口の端は心なしか上向いているように思える。
「はい、おかげさまで。色々とご協力ありがとうございました」
「ん。カップルの誕生に一役買えたのなら私も誇らしい」
純粋に祝福してくれる先輩に胸の奥を温かくしつつ、改めて「ありがとうございます」と感謝の念を送る。
以前、優人とのお出かけ中にばったりと出会した際、エリスとはお互いの連絡先を交換していた。
当時の雛と違って恋人のいる身、そして学校でのクラスが同じで普段の優人に近い立場にいる者として、色々と相談に乗ってもらっていた。時には雛が知り合う前の優人の話を聞いたり、教室で居眠りしてる優人の隠し撮りを横流ししてもらったりと。
おかげで雛のスマホに保存してある、とある画像フォルダの内容が潤った。
「そういえば、姫之川先輩と千堂先輩っていつ頃からお付き合いされてるんですか?」
「一年の夏から。ちなみに一騎からの告白」
「あ、なんだかそんな気はします」
大柄で引き締まった筋肉質な体格、攻められるよりは攻める方が似合いそうなタイプ。一騎のことをよく知っているわけではないが、今日の行動を見るだけでも優人と同じように誠実な人柄で、エリスのことを大事にしてるんだろうなとは感じた。
そして、それはエリスも然り。割と自由奔放に動いているように見えて、端々では一騎の調子に合わせるところも見受けられる。
目に見えてイチャイチャというわけではないが、お互いしっかり信頼し合えていることが窺える関係性は、恋人の理想の形の一つと言ってもいいだろう。
雛もまたこれから先、そんな風に仲睦まじく続く関係を優人と築きたいと思う。
(一年の頃からか……)
ということはエリスたちが三年生である今、付き合い始めてちょうど二年ぐらいということだ。
恋仲になってまだ半年もいかない雛たちと比べたらトリプルスコア以上の大先輩。きっと自分たちよりも色々と進んでいるのだろう。
「ところで雛、優人とはどこまでいったの?」
「はい!?」
二年も経てば優人とはどうなってるのかなーと漠然とした想像に意識が傾く最中、エリスからの突然の振りについ素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ど、どこまでって……なぜ、いきなり……?」
「なんとなく。ああ、無理に聞き出すつもりはないから答えたくないならいいけど」
「……えっと」
ちらり。思ったよりも注文が立て込んでいるのか、優人たちが戻ってくるにはまだ少し時間がかかりそう。座っている椅子をズラしてエリスとの距離を詰めると、雛は声量抑えめで口を開く。
――この際、今抱えている悩みも含めて打ち明けてみよう。
「……一応、キスはしました」
「手とかほっぺたじゃなくて?」
「ちゃんと、唇と唇で、です」
「他には?」
「あとは同じベッドで寝たり、とか。あ、本当に言葉通り、一緒に寝ただけなんですけど……」
「そう。仲が良さそうで何より」
「……あの、進展が遅いって思ったりしますか?」
「? 別にそうは思わないけど」
雛の問いを受け、エリスの紅い瞳が不思議そうに丸くなる。
尋ねておいてなんだが、雛だって優人との関係の進みがそこまで遅いとは思ってないし、ゆっくり仲を深めていく現状はとても好きで、幸せだ。
けど、たまに自分よりも進んだ同級生の話を聞いたりすると、ちょっとした不安を覚えてしまうことがある。
「自分からそう訊くってことは雛は遅いと思うの?」
「そういうわけじゃないですけど……」
ただ、と雛は言葉を続け、優人に着せられたラッシュガードの内側に目を落とす。
黒のビキニは、自分でも頑張った大胆な水着。
「今日のプールのために水着を買いに行った時、優人さんの好みを知りたくて付き合ってもらったんですよ。最初は選ぶのも優人さんにお任せしたんですけど、これよりは露出抑えめの、可愛い感じのものを選んでくれて。でも、たぶんこういう方のが好きなんだろうなとは思って試着してみたら、やっぱり正解でした」
決して適当に選んだわけでないのは分かっているが、言うなれば一定の制限をかけた上での選択だったと思う。
「普段から色々と私を気遣ってくれるのは嬉しいんです。でもその分、優人さんが無理に我慢して欲しくないなと思っちゃって……あはは、自分勝手なわがままですよね、これ」
我ながら呆れ笑いをする。
とどのつまり優人の行動の根底には雛への優しさがあって、それに対して不満めいたことを口にするのはあんまりというものだろう。そもそも優人が我慢してるかもしれないことを憂うのなら、自分がもっと積極的になればという話でもある。
しかし現状、雛からのスキンシップとなると、胸が当たるのを分かった上で腕に抱きつくぐらいでも結構ドキドキ。逆に優人から抱きしめられたりそれ以上のことになると、余計に度合いは高まってあっぷあっぷとしてしまう面もある。さっきのウォータースライダーが良い例だ。
優人のことはもちろん大好きで、もっと深く親密になりたいと思う。それはそれとして、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「結局私が恥ずかしがっちゃうから、優人さんも抑えてくれると思うんですけどね。そのせいで、手を出しにくかったりするところもあるのかな、と……」
優人は雛のことを思いやって、いつも尊重してくれる。
ただその思いやりが、自分のせいで優人の枷になるようなことだけは避けたいと、そう思うから。
一息ついてジュースのストローに口を付けてみるが、吸わずに吐息を送るばかりでぷくぷくと泡立てしまう。
「うーん、アドバイスってものじゃないけど、私がそんな雛にこの世の真理を一つ教えてあげる」
「はあ……?」
真理とは。何やら話が壮大になった気もするが、続くエリスの言葉に耳を傾けてみる。
すると、エリスとはそっと雛の頭に手を置いて、
「結局ね、男はみんな狼だから」
「――――」
「雛みたいな子が相手なら優人もそのうち絶対我慢できなくなる。だからその時、ちゃんと受け入れてあげればいい」
事も無げに続けられた言葉に、雛の意識が固まる。かと思えば瞬間湯沸かし器も顔負けなぐらい一気に茹で上がり、当てられたかのように顔が熱を持ってくる。
狼。それがどういう意味を持つのは雛にも分かる。
「……お、狼なんですか、やっぱり?」
「うん、狼だった」
「つまり……それは、その、千堂先輩がということで……?」
「これ以上は秘密」
「ええっ!?」
だった、という実感を伴った言葉尻は何よりの証明であるが、当のエリスは素知らぬ――いや、微かに楽しそうな表情で唇に人差し指を当てている。
失礼を重々承知で思うが、彼女がとったミステリアスな女性めいたそのポーズは、幼い見た目に反して意外と様になっていた。
自分より一段上の、大人の女性の顔だ。
「悪い、待たせた――って、どうした雛?」
「……なんでも」
もっと色々訊いてみたくなったけど、優人たちの帰りがタイムアップを告げるのだった。




