第142話『あなただけの私』
水着の購入から三日後、プール当日午前中の空、雲一つない青空という申し分ない快晴に恵まれていた。
澄み渡った一面の青の中で太陽が燦然と自己主張しており、じりじりと照りつけるような日差しが地上へと降り注いでいる。プールに来るまでは鬱陶しくなるほどの蒸し暑さを感じていたが、ひとたび園内に入ってしまえば、これからのプールをより爽快にさせるための良い刺激である。
「いやー、絶好のプール日和ってやつだよなー」
「だな。逆に明後日ぐらは雨らしいから、今日にしといて良かったよ」
片手で庇を作りながら空を見上げていた優人は、横から上がった一騎の声に相槌を打ちながら視線を下ろす。
今いる場所は更衣室の出入り口から少しだけ離れた先にある地点。二人の背後には園内全体の地図をイラスト調で描いた大きな看板が設置されており、待ち合わせにおけるちょうどいい目印となっている。
優人と一騎がここに到着してから体感十分ほどは経ってると思うが、更衣室から園内各所へと広がっていく人波の中にはまだお互いの彼女の姿は見受けられなかった。
「待ちくたびれたりしてないか、優人?」
「まさか。女子なんだから、着替えには色々と手間がかかるに決まってるだろ」
「よしよし、彼氏っぷりが板に付いてるみたいで何よりだ」
「何様だこの野郎」
後方で腕を組んで頷いてそうな師匠面の一騎の二の腕を苦笑混じりに叩く。
単純に水着に着替えるだけでも男より時間を要すると思うし、肌のケアなど諸々も考慮すればさらに延びるだろう。雛たちからも別れ際に「時間がかかると思うので、すいません」と断りをもらってるので、今さら分かり切ったことでへそを曲げることもなかった。
(……それにしても、良い身体してんなこいつ)
一騎を叩いた手に残る固い感触を反芻しながら、優人は隣の一騎の姿を盗み見た。
決して変な意味ではなく、純粋に同年代の男として憧れる筋肉の付き方をしていると思う。
日頃から剣道に精を出している賜物なのだろう。力を込めてもいないのに二の腕には力こぶの輪郭が浮かんでいるし、腹筋に至っては見て取れるほどくっきりと割れている。見せかけではない引き締まった筋肉にはいっそ凄みすら感じた。
別に優人だって、例えばもやしとか揶揄されるような貧弱な身体つきをしているわけではないが、一騎と比べたら一目瞭然の差が存在している。
思わず羽織ったラッシュガードの前を閉じようとしたところで、やっぱり思い止まってファスナーから手を離した。これを買ったのは自分を隠すためではない。
「お、来た来た」
一騎が声を上げたと同時に人差し指を向けた先へ目を向けると、人波を縫ってこちらへ歩いてくる二人の少女の姿が見える。
どちらも背が高いわけではないし、何だったら片方は周りに埋もれてしまいそうなほど小柄なのだが、その整った容姿故か遠目からでも存在感は抜群だ。
やはりその分、二人の姿を目で追いかける男の多いこと多いこと。
……しかしなんだ、まあその、なんというか。
「なあ優人」
「どうした?」
「……どっちが年上だったっけ?」
「お前なあ……」
いや思ったけども。思ったけど彼氏が横にいる状況で言うのはさすがに憚られると思ったから言葉を呑み込んだのに、この男は。
額に手を当ててため息をつきつつ、次第に近付く彼女たちを改めて見比べる。
雛とエリス。片や高校二年生で、片や三年生。どっちが年上かなんてもちろんエリスに決まっているのだが、仮に初見で彼女らを見比べた時、正しく認識できる人はまあいないだろう。
抜群のプロポーションを誇る雛が着用するのは先日の黒ビキニだが、試着した時とはまた違い、丈としては短いけれど同色のパレオスカートが追加されている。今や肩まで伸びた髪を小振りなポニーテールにまとめ上げてもいるので、大人っぽさがぐっと足されていた。
一方エリスは長い金髪をツインテールにし、水着はひらひらたっぷり大きなリボンが特徴的なセーラー服風の一着。
まさしく西洋人形のような彼女の外見にぴったりであり、大人っぽい雛に対して、可愛らしさ全振りのコーディネートであると言えた。
そんな二人が優人たちの前に辿り着いた途端、声をかけるタイミングを窺っていたであろう男たちが足を止めたように見えたのは、決して気のせいではないだろう。優越感がないと言えば嘘だ。
「お待たせ二人とも」
「大して待っちゃいねえよ。水着、似合ってるぞ」
「ありがとう。一騎もかっこいい。――うん、さすがよく鍛えられている」
「おう、サンキューな」
一騎たちがお互いの水着姿を褒め合う中、優人のすぐ目の前まで来た雛はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「遅くなってすいません、更衣室が想像以上に混雑してて……分かってはいましたけど、かなり人が多いですね」
「……みたいだな」
それはもう。明らかに彼氏と合流したと分かるだろうに、未だ雛に注がれる視線の数は多い。肌色の露出具合に関してはエリスよりも多いので、単純に目の保養にされている面もあるのかもしれない。
水着が当然のプールに来てまで目くじらを立てるのもどうかと思ったが……やっぱり我慢できそうになかった。
「雛、これ着て」
優人は自分が着ていたラッシュガードを脱ぎ、雛へと押し付ける。
「? 姫之川先輩にも手伝ってもらえたので、日焼け止めはちゃんと塗れてますけど……」
「そうじゃなくて……雛の水着姿、あんま他の男に見られたくない」
強い日差しを心配しての行動なのかと勘違いした雛へ、優人は熱くなる頬を掻きながら正直に胸の内を告げた。
気にしすぎだと呆れられるかもしれない。せっかくの水着姿に水を差すことになって眉を顰められるかもしれない。
言ってしまった後でじわじわと後悔の念が襲いかかり雛の顔を見れないでいると……ふふっと堪えきれない様子で笑った彼女は、いそいそと手渡されたラッシュガードに袖を通し始めていた。
どうやら優人の要望は受け入れてもらえたらしい。
「私も大概なつもりですけど、優人さんもだいぶ独占欲が強いみたいですねえ。もしかしてこれ、そのために買ったんですか?」
「そーだよそーですよ。……すまん、邪魔だったら無理にとは」
「彼氏さんに一人占めしたいって言われたら断れませんよ」
雛はやれやれ、と言いたげの割には嬉しそうに口元を緩ませ、ラッシュガードのファスナーを中ほどまで上げると、優人が腰に当てていた片手を彼女の両手で掴まえる。
そのままおもむろに持ち上げたかと思えば、やがて優人の手の平は、ラッシュガードの隙間から覗く雛の鎖骨の辺りに着地した。
吸い付くような素肌の感触。決定的な場所に触れているとは言えないけれど、手の平の手首に近い部分には柔らかさの片鱗を感じてしまい、ドクンと一際強く胸が高鳴る。
自然とその柔らかさの源――二つの果実が作り出す陰影に優人の視線が移るが、それすらも咎めず雛は艶やかに微笑んだ。
「色々と心配してくれるのは嬉しいですけど、こうやって間近で見れるのも、こんな風に触れることができるのも……優人さんだけなんですからね?」
それを、覚えておいて。
言い聞かせるようにぎゅっと手を握られ、優人の背筋を駆け抜け甘い痺れが脳を麻痺させた。
「もしもしお二人さん? 横に俺らがいること忘れてない?」
次の瞬間には我に返った。
「待て、これは、」
「いや待ても何もねえだろ。……どう思いますエリスさんや、ここは熱々の二人のためにもさっさと別行動にするべきでは」
「確かに。雛の水着姿を自分以外の男に見られたくないと言うのなら、一騎も対象になるから離れた方がいい」
「おお、そりゃそうだ。そういうわけで優人、俺らはあっちで遊ぶから――」
「だから待てって言ってんだろオイッ!?」
恥じらいつつも雛は笑みを深めるだけだったので、優人一人で二人を引き留めるしかなかった。




