第141話『頑張り屋さんの水着選び』
善は急げと言わんばかりの翌日。電車を利用してやってきたデパートの催事コーナーでは、夏らしく水着のビッグセールなんてものが催されていた。
フロアの大部分を占領して多種多様な水着がハンガー掛けの状態で並べられ、各所には着用モデルのマネキンや雰囲気を出すためのビーチボールなども飾られている。
その中の一体――黒のビキニを着せられたマネキンをじっと眺めていると、今日の目的が目的だけに、優人の脳内では自然とマネキンと雛の入れ替えが始まってしまう。
水着を映えさせるためのマネキンはもちろんスタイルが良いはずなのに、想像の中の雛の方がよっぽど魅力的に着こなしている。イメージでこれなら、実際に目の当たりにしたらどうなることやら。
「お待たせしました、優人さん」
背中を走るむずむずとした感触に身を捩っていると、雛がぱたぱたと小走りで駆け寄ってくる。お手洗いに寄りたいということで一旦別行動していたが、前もって済ませる辺り、時間をかけて選ぼうとする彼女の本気度が窺えた。
(それもこれも、俺のために選んでくれるからなんだよなあ……)
優人好みの水着を選びたい。
昨日はっきり言われた台詞が頭の中で反芻され、どうしても口角が上がってしまう。
優人が表情筋に力を入れ直す中、気付けば雛は、さっきまで優人が眺めていたマネキンを静かに見上げている。
「どうした?」
「いえ、何でもないです」
何やら含みのある微笑を浮かべたように見えたものの、優人が追求する間もなく手を引かれ、レディースの水着の群れの中へと二人で踏み込んでいく。
ちなみに優人も水着も買う必要があったのだが、すぐに決まった。秒で決まった。野郎の水着なんてオーソドックスなサーフパンツ一枚で十分である。
「さて、優人さんはどういうのがお好きですか?」
並べられたたくさんの水着を目前にして、雛がぱんと手を叩く。心なしかその表情は楽しそうだ。
「あー、その、雛的にはあんまり肌を見せたくないとか、そういうのは……」
「はいはい、嫌な時は嫌ってはっきり言いますから、まずは優人さんの好みを教えてくださいな」
この期に及んで自らの好みを晒すことに二の足を踏む優人の逃げ道は、今ので完全に封じられた。
嫌ならちゃんと断ると雛は言うが、優人が推せば何だって着てくれそうな危うさを感じなくもない。
もっとも、優人だって極端に布面積が少ないとか、そういったアダルトな水着を選ぶつもりは最初からない。そもそも売ってそうにないのもあるが、雛の魅力の大前提には彼女の持つ清楚さというものがある。それを塗り潰すようないかがわしささは却って邪魔だ。……と思う。
「これなんかどうだ?」
熟考すること数分、ハンガーに掛けられた水着の中から、雛に似合いそうだと思った一着をチョイス。
やはり「分かりました」と言ってあっさり承諾する雛に呻きつつ、水着を手に取る彼女を眺める。
「優人さん、ちょっとサイズだけ確認したいので、その間に試着室を探してきてくれませんか?」
「ん、了解」
ハンガーから水着を外していく雛の要望に、優人は素直に従った。相手が恋人とはいえサイズを確認するところをじろじろ観察するのも不躾だろう。生憎と近くの試着室は先客がいるようだが、隅の方に一つ空いてるのを見つけた。
「向こうのが空いてるぞ」
「ありがとうございます。サイズも問題なさそうですし、行きましょうか」
「ああ。……ん?」
雛が持つカゴの中身、選んだ水着が一着だった割には微妙にこんもりしているような気がするものの、雛は足早に試着室の方へ向かうので優人も後を追う。
「それでは着替えますので……ここで待っててくださいね? すぐに見せたいですから」
「はいはい、ちゃんと待ってるよ」
小悪魔な笑みと一緒に優人の心臓をざわつかせるような言葉を残し、雛は試着室のカーテンを閉じた。
少しの間を置いた後、カーテンの向こうから微かに聞こえ始める衣擦れの音。
周囲には他の買い物客もいて、その賑わいだってそれなりに聞こえているはずなのに、優人の聴覚は試着室の中からの音声ばかりを優先して拾い上げてしまう。
ただ、待っているのは非常にいたたまれない。かと言って雛に『ここで待ってる』と約束した以上離れるわけにもいかず、血を炙るような落ち着かなさに耐えながら、優人はその場から一歩も動かずに雛の着替えが終わるのを待つ。
やがて「優人さん」と小さな呼びかけが届き、試着室のカーテンは開かれた。
「どうですか?」
後ろで手を組み、自らの姿を見せつけるように佇む雛。
優人が選んだ水着は白地にほんの少しの青を足したような淡い色合いで、形としてはワンピースタイプの一着だった。
指先から肩、そして鎖骨回りの上部が晒されている以外、上半身はしっかり布地で覆われ、下はひらひらとしたスカートを履いたような可愛らしいデザイン。全体的に雛の清楚さを良い感じに際立たせている。
「ああ、良いと思うぞ」
素直な感想だ。
水着としては露出が少ないタイプであるが、なんと言うか、直視しやすくて安心できる。もちろん優人の好み的にも満点を上げたいぐらいの可愛らしさだ。
と、優人がほっと息をついて称賛を述べたものの、雛の顔色にはそこまでの変化がない。普段なら照れた様子で「ありがとうございます」なんて口にするところだろうに、じっと何かを見定めるように優人を窺っている。
「……なるほど、今ので確信が持てました」
「確信? どういう――」
「とりあえず、待っててください」
曖昧な返事と共に再び閉じられるカーテン。すぐにまた衣擦れの音が聞こえてくるので、私服に着替え直しているのだろう。
相変わらず心臓がくすぐられる音だが、ひとまずの役目も終えたので精神的にも余裕ができ、さっきよりは肩の力を抜いて構えていられる。
「優人さん」
――だからこそ次の瞬間、振り向いた先に広がっていた光景は、無防備な優人に痛烈な衝撃をぶつけてくるのだった。
「……ど、どうですか?」
同じ台詞でも、今度は恥じらいをたっぷりと含んで。
鮮やかなまでの薔薇色で頬を彩る雛の身体を包むのは、私服でなければ、ましてやワンピース型の水着でもない。
――大胆な、黒のビキニだった。
「は、え、何で、そんなの、が……?」
「サプライズと言いますか……こ、こっそり持ち込んでおいたので」
「い、いつの間に」
優人が試着室を探している間にだろう。少し考えれば分かる簡単な謎なのに、その答えに行き着くことすら今の優人には難しい。それだけ思考が、まとまってくれない。
「何でまた、それを……?」
「さっきも眺めてましたから、優人さんはこういうのが好きなんじゃないかと思って。なのに選んでくれそうにないので……実力行使、です」
「いや、それは、」
お腹の前でもじもじと手を組む雛に優人は言い淀んでしまう。
妥協したつもりはなかったはずだ。優人が自分で選んだワンピースだって雛にとても似合っていたし、良いと言ったのは嘘偽りのない真実だった。
だが、どこかで無意識に欲求をセーブしていて、雛はそれは敏感に察知したのかもしれない。
「……それで、どうなんですか?」
再度の問いかけが、優人の意識を刺激的な水着姿へと強制的に誘う。
雛が着用している黒ビキニは、厳密に言うと優人が眺めていたものと全く同じというわけではなかった。これといった装飾もなく、シンプルに布地だけだった先ほどのとは違い、胸元に控えめなフリルを追加して華やかさをプラスしている。
これが例えばグラビアで、何かしらの煽り文句を付けるとしたら……『少し背伸びした大人っぽさ』というのが一番ピタリとくる表現だろうか。
そしてそれに身を包む雛もまた、少女としての愛らしさと、大人としての妖艶さを兼ね備えた存在と言えた。
華奢でありながらスタイルが良いのは分かっているけれど、言うなれば下着同然の姿を目の当たりにすると素晴らしいという他ない。
着痩せするタイプらしい雛の胸元は豊かな丸みを二つ描き、フリルの間からは視線を吸い寄せる谷間が覗く。視線を下ろせばきゅっと引き締まった腰回り、そして恥ずかしさ故かやや内股気味になった両足が伸びて、ほど良い肉付きの太ももは惜しげもなく露わにされていた。
色の濃いビキニの黒と、綺麗な乳白色を誇るなめらかな雛の素肌。その二つの見事な対比へさらにもう一色、頬を染める赤みを足した雛を前に、優人はもはや食い入るように見つめることしかできなかった。
今の自分がどんな顔を晒しているかまでなんて、とてもじゃないが気が回らない。唯一自覚できたのは熱を持っていることだけで、下手したらだらしなく鼻の下を伸ばしているかもしれない。
優人が何も言えずに続く無言の時間は、やがて雛がくすりとこぼした照れ混じりの笑みで終わりを迎えた。
「そんなにじっと見つめてくるってことは、気に入ってもらえたってことですよね?」
「……はい、大変、その……良いと思います」
何故か敬語。凝視した時間の長さが何よりの答えでもあった。
「えへへ、じゃあこれにしますっ」
「俺は嬉しいけど……雛はいいのか? 結構恥ずかしいんだろ、それ」
「もちろん恥ずかしいですよ? でも――」
一歩踏み出した雛は優人との距離を詰め、優人の胸にそっと手の平を当てた。覗き込みやすくなった胸の谷間に優人が生唾を飲み込む中、悪戯を成功させたかのようにふふっと笑った雛は、赤らんだ顔を隠さずに優人を見上げる。
「優人さんをドキドキさせるためなら、いくらでも頑張っちゃいます」
「……勘弁してくれ」
「ふふふ、素直にならない彼氏さんには勘弁してあげませーん。着替えますね」
ああ、これが嬉しい悲鳴というやつか。
最後に蠱惑的な笑みを見せてカーテンが閉じられたところで、ようやく優人は長いため息をついた。
最近、いつにも増して雛が積極的かつ手強くなってきている気がする。理性で固く自分を縛り上げておかないといつか暴走してしまいそうだ。
「……ん?」
ふと気付く。明明後日のプールで、雛は今見た黒のビキニを着ることになる。当然優人だけでなく、他の男にだってその姿は見られてしまう。
人の多いプールに行く以上仕方のないこととはいえ、今になって急にそれが、惜しくなってくる。
「…………」
「お待たせしました。お会計しましょうか」
「すまん、その前にもう一回男物の方に寄っていいか? ラッシュガード買っときたい」
「え、でも優人さん、さっきは別にいいやって……」
「たった今必要になった」
「?」
不思議がる雛を連れて、優人はメンズの水着が並ぶエリアへと足を向ける。
ラッシュガードを買うために。
長袖の、なるべく丈の長そうなやつを。




