第138話『そして始まる、君との夏』
『――それでは明日からの夏休み、生徒一同学生らしく節度ある過ごし方に努めましょう。以上』
一学期終業式のその日、全校集会が行われている体育館では、この学校の生徒会長を務める二年の女生徒が夏休みに関する諸注意を伝え終わったところだ。
「おじさんが長話をするよりはいいでしょう」という大変よく分かっていらっしゃる校長から役目を任されたらしいが、彼の判断は大正解だったと言えよう。
生徒会長の声は凛として聞き取りやすく、壇上でも物怖じせずに背筋を伸ばした彼女の立ち振る舞いは自然と人目を集める。優人がそれとなく周囲を窺ってみても居眠りしてるような生徒はいつもより少なく、中には長い黒髪を揺らしながら壇上を歩く生徒会長に対し、どこか熱のある視線を送る男子もちらほら見受けられるように思えた。
……でも彼女、確か学外に彼氏がいるんだったよな。
以前聞いた話をふと思い返し、男子たちの叶わぬであろう恋心を軽く憐れんだ優人は、生徒会長――一ノ瀬麗奈がステージの下手側へと姿を消すのを静かに見送った。
雛の友人である彼女が、選挙を経て生徒会長に抜擢されたのはまだ記憶に新しい出来事なのだが、それにしては堂に入った佇まいをしている。
黒髪ロング、クールな美人系の顔立ちが雰囲気を助長させているのもあるのだろう。これぞ優等生といった感じの雛も生徒会長にお似合いだと思うが、ぱっと見た時の第一印象で言えば、麗奈に分があるかもしれない。
とにもかくにもこれにて優人の高校三年生の一学期は終わりを迎え、あとはクラスでのホームルームさえこなせば晴れて夏休みに突入。受験生である以上遊び呆けるなんて以ての外だが、やはり長い休みというものは解放感から心踊るものがあった。
そして雛とも、夏らしいことをしてみたい。
下の学年から順に退場を始めるざわめきの中、これからの日々にゆるりと想いを馳せる優人。
しばらくそんな想像に浸っていれば、優人たちの近くを歩く退場の列の中に雛の姿を見つける。
雛もほぼ同タイミングでこちらに気付いたらしく、ふわりと微笑んだ彼女は優人へ小さく手を振る。
またあとで――弧を描いた口元が動きだけでそう伝えた気がした。
手を振り返す優人の顔を見て、隣のクラスメイトが一言。
「天見さあ、さっそく浮かれてない?」
「…………」
そんなことはない、とは言えなかった。
きゅっ、きゅっと、ステンレス素材のシンクをスポンジで磨く音が小気味よく響く。
同じ日の放課後、なんだか恒例行事になりつつある長期休み前の家庭科室清掃に勤しんでいる優人は、額にじわりと浮かぶ汗を手の甲で拭った。料理同好会の活動として一環である。
正直学校側からも都合のいい労働力として使われてる気がしないでもないが、部活ですらない同好会レベルで家庭科室を割と好きに使わせてもらえる以上は文句も言えない。
そもそも、優人にしてももう一人の部員にしても日頃から綺麗に使うよう心がけているので、苦心しなければならないというほどのものでもなかった。
軽く肩を回してシンク磨きを再開する中、優人はすぐ近くでガスコンロ回りの清掃を行う助っ人へ声をかける。
「悪いな雛、部員でもないのに手伝ってもらって」
「いえいえ、ただ優人さんを待つのも暇ですし、掃除は慣れてますから」
「うーん、さすが雛ちゃん女神様。うちにお嫁に来ない?」
雛が屈託のない笑顔でそう答えると、横合いから窓ガラスの清掃を担当している小唄が冗談を飛ばしてきた。
自ら進んで手伝いを申し出てくれた心優しい雛は確かに女神と遜色ないが、後半の言葉には口を挟まずにはいられない。
「……雛はやらんぞ?」
「分かってるっすよ、ただの冗談――や、ガチ冗談なんで睨むのやめてくれません? 先輩の目つきだと洒落にならないんすけど怖いんすけど」
どうやら自覚してる以上に目力が入ったらしい。
こめかみを揉んで力を抜いていると、小唄の方から「独占欲の塊ー」という野次、雛の方からは「……優人さんのばか」という満更でもなさそうな呟きが聞こえた。
「明日から、っていうかもうですけど、夏休みは先輩たちってどこか出かける予定あるんすか? 二人で旅行とか」
「まあ、一応予定としては」
「まだ色々と悩み中なんですけどね。小唄さんは?」
「うちも家族旅行計画中。気兼ねせず遊べるのも高二の夏までだろうし、今の内にしっかり遊んどかないとねー」
「その方がいいぞ。高三はどうしても受験がチラつくからな」
「それっすねえ……。そういや先輩って進路はどうするんすか?」
手を止め、こちらを振り返る小唄。対する優人は手を止めないまま口を開く。
「進学の予定。夏休み中に何カ所かオープンキャンパスも行ってくるつもりだ」
学力的にそう無理もなく、なおかつ今の自宅からでも通える範囲で目星は付けてある。その大学名を口頭で一通り挙げてみると、それを聞いた小唄はきょとんとした様子で首を傾げた。
「あれ、ああいうのには興味ないんすか? 製菓系の専門学校、みたいなの。てっきり先輩だったら選択肢に入れると思いましたけど」
――じゅくり。
「……俺のはあくまで趣味だよ。将来の仕事にするほどのもんじゃない」
一瞬だけ痛みを覚えた胸の奥のかさぶたから目を逸らし、優人は自分へ言い聞かせるように言葉を並べる。
何食わぬ顔はできただろうか。
幸いにも小唄は「そういうもんすか」と納得してくれた様子だったが、雛からは何かを探るような視線を送られた……気がした。
「まあ何にせよ、高二の夏だろうと高三の夏だろうと一生で一回切りですし、お互い悔いのないように過ごすってことで」
「だな」「ですね」
小唄の締めくくるような言葉に雛と揃って相槌を打つ。
「さーて、夏休みは思いっ切り遊ぶぞー!」
小唄によって磨き上げられた窓ガラス。そこから覗く青空には夏に相応しい照りつけるような太陽が光り輝き、その輝きに誘われるように小唄は拳は突き上げた。
「ってさっそく勉強かーい!」
翌日、家庭科室、響き渡る小唄のノリツッコミ。
学生としてとっても真面目な彼らの夏休み初日は、夏休みの課題を片付けることから始まるのであった。




