第136話『翌朝の一幕』
雛の誕生日の翌朝、目を覚ました優人の視界に現れたのは恋人の愛らしい寝顔だった。
朝一番に目にするのがこれぞ美少女という整った顔立ちなのはドキリとさせられるが、すぐに昨夜のことを思い返してそりゃ当然だと納得する。
恋人同士でお泊まりとくれば、そのまま同じベッドで一晩を共にするのも自然な流れ。「おやすみなさい」と呟いて出し抜けに長いキスをしてきた雛の淡い笑顔が思い出され、優人は喉を少し震わせる程度の咳払いで気持ちを整えた。
未だ夢の世界な雛を起こさないよう、首だけを動かして壁掛けの時計を見る。今日は月曜だが、学校に行く支度をするまでにはまだそれなりに余裕があった。
これ幸いと首の位置を戻し、再び雛の寝顔へと意識の焦点を合わせる。
自分がまじまじと観察されてることなど露知らず、すやすやと気持ち良さそうな寝息を繰り返す雛。優人の腕を枕代わりにする彼女の口元は幸せそうに緩んでおり、総じて起きてる時よりも約三割り増しであどけなさが強い。
まさに天使の寝顔、はたまた童話に出てくる眠り姫か。
雛の方が先に起きた前回のお泊まりで、自分はこんな素晴らしい光景を見逃していたのかと思うと非常に口惜しいものが胸中に広がり、その分を取り返す意味を含めてなおさら視線を注いでいく。
金糸雀色の瞳には白い瞼のカーテンが下ろされ、その先で長い睫毛が時折微かに震える。汚れの一切を知らない新雪のような素肌が、ほんのりと汗ばんでいるように感じられるのは季節柄によるものだろう。
エアコンの冷房は寝る前に数時間で切れるようタイマーをかけたので、今は運転が停止している。一人ならいざ知らず、二人でくっついて寝るにはさすがに少々暑苦しくなってくる頃合いだが、この最高な感触や温もりを手放すことに比べたら些末な問題だ。
むしろ汗をかいた雛もそれはそれで……、と危うい方へ向かいそうな思考を自分の頬を抓った痛みで強制終了させ、今度はその指を雛へと伸ばす。
もちろん抓るのではなく、彼女の頬に人差し指をそっと沿わせるだけのソフトタッチ。たったそれだけでも極上の触り心地が返ってくるものだから、つい二度、三度とつついてしまう。
「……んぅ」
猫が喉を鳴らすような可愛い唸り声を小耳で捉えつつ、頬から形の良い耳へと指先を滑らせる。耳たぶを挟むようにそっとくすぐり、それから全体の輪郭を確かめるように耳の裏側、内側と順繰りに指を這わせた。
「んっ、んん……」
昨日敏感な反応を見せたそこは、寝てる時でも弱点であることは変わらないらしく、悩ましげな表情でわずかに身を捩る雛の耳から指を離す。もう少し弱点を弄んでみたい気はあれど、雛の睡眠にまで水を差すわけにはいかないのでここは我慢だ。
雛の頭を優しく撫でるというインターバルを挟みつつ、次に意識を吸い寄せられたのは彼女の唇だ。
わずかに開いた唇の隙間からは静かな寝息が今もなおこぼれ、触れそうで触れない至近距離まで指を近付けると、温かな吐息が規則正しいリズムで優人の人差し指をくすぐる。結局そのこそばゆさだけでは足りず、人差し指の腹を唇に押し当ててしまった。
頬や耳よりもさらに潤いを持つ触感。キスしたら瑞々しい果実のように感じられる唇は、指で触れるとまた違った感触で、けれど負けないぐらいの充足感を優人にもたらした。
これから先もこの唇を味わえるのだと思うと胸が高鳴るし、それが許されるのは自分だけであって欲しいという独占欲も顔を出してくる。
つくづく、雛に惚れてる。
優人は声にならない苦笑を一人浮かべ、名残惜しさを覚えながらも雛の唇から指を遠ざけた。
そして、最後に猫をあやすみたいに顎でもくすぐって一区切り付けようかと思い、視線を少し下に向けた矢先のことだった。
「――っ」
眼下の光景に思わず息を呑む。
雛が身を捩った時に、ついでに彼女の手の位置も変わってしまったのが原因だろうか。
さっきまでは手で上手い具合に隠されていた雛の首から下――パジャマの広い下襟の開きから覗くのは、白さが眩しい鎖骨回りと中々のサイズを誇る二つの膨らみ。
雛の身体が横向きだから寄せられて余計に、というのも関係してるのか、パジャマでは隠し切れない胸の谷間が優人の頭をがつんと揺さぶった。
意識してしまったが最後、二つの山が作り出す陰影の奥からほのかに漂ってくるような甘い色香に誘われて、優人は無言でその場所へと顔を近付けていく。
ちょっとだけ、ほんの少しだけでいいから。
そんな言い訳を並べたところで正当化されるとは思えないが、自分は散々この魔力に誘惑されているのだ。寝込みを襲うつもりはさすがになくとも、少しだけ息抜きさせて欲しいと思った。
「ん……」
また少し身を捩り、まるで優人を迎えるように差し出された柔らかそうな膨らみ。どこか免罪符を手に入れた気分の優人は、とうとうそこに顔面を押し付けた。――押し付けてしまった。
(……やわらかくて、いい匂いがする)
思えば、雛から無自覚にならいざ知らず、優人が自分からというのは初めてではなかろうか。
優人だって男で、付け加えれば思春期真っ盛りのだ。自制してるだけで人並みに性欲はあると思うし、雛のようにスタイルが良く、しかも愛しい恋人とくれば尚更その気持ちは強くなる。
これほどのものを前に自分は今まで我慢していたというのか。初めて自分の意思で味わう母性の象徴は、ある種の畏れを抱いてしまうぐらい魅力たっぷりなものだった。
こちらを包み込むような柔らかさがある一方で、そう易々と勝手はさせないと恥じらって押し返してくるような弾力。雛の体温と冷房の止まった部屋の室温でしっとりとした肌は、雛が持つ花のような香りの中に、少量の汗の匂いをブレンドさせる。
けれど不快かと言われたら微塵もそんなことはなく、むしろちょうどいいアクセントとして甘い香りを際立たせている。
ああ、性懲りもなく思考が危うい方へ。
一瞬だけ警告を発した冷静さはすぐに魅惑の感触で押し潰され、優人はまた一段階深く雛の胸の谷間へと顔を寄せる。
むにゅりと弾む、手触りならぬ顔触り。濃くなる甘ったるい匂い。たぶん舐めてみたたら実際に甘いだろう。
欲に流された優人が口を開こうとした、その瞬間。
「……ん、うぅん」
「むぐっ!?」
くすぐったさに無意識下でも違和感を覚えたらしい雛の両腕が動く。
その二本は優人を払い除けるどころか、優人の首に回されてがっちりホールド。つまり優人は雛にぎゅっと抱きかかえられる形となり、今の体勢でそんなことをされたら結果は火を見るより明らか――雛の胸の真ん中に、優人の顔面は完全に埋まった。
(ちょ、待て、これは……っ!?)
ぶっちゃけ分別を失いつつあった優人でもこれには焦り出す。
多少は不可抗力としても、状況としては言い訳もできないほど雛に手を出してると言っていい。
早く離れようともがけども雛の力は思いの外強く、優人のことをぎゅうっと捕まえて離さない。それでもどうにかして脱出しようともがき続ければ……さすがに誰だって起きるに決まってる。
「……ぁれ、ゆうと……さん?」
寝起きの舌足らずな声。可愛らしい音色に、けれど優人の背筋には冷たいものが走る。未だ胸の谷間に顔を埋めたまま目線だけ何とか持ち上げれば、とろんとした金糸雀色の瞳がそこにはあった。
「あふ」と小さな欠伸を漏らした彼女は瞳を細め、それからもう一度、自分の腕の中で硬直している優人を不思議そうに見つめる。
一秒、二秒、三秒――雛の瞳に確かな意思の光が灯った。
「え、ふえ、ゆ、ゆゆゆ優人さんっ!?」
「すまんっ!」
雛の腕の力が緩んだ一瞬の隙を突き、急いで距離を取る。思いっ切り後退したせいで
背後の壁に頭をぶつけたが、この程度の痛みでは何の罪滅ぼしにならないだろう。
顔中を真っ赤に染めてあわあわと唇を震わせつつも、乱れた胸元を両手で隠す雛。それを残念だと思ってしまう邪な心残りを全力で頭の外へ追い出し、優人はどう弁明したものかと考えを巡らせた。
……いや、弁明も何も、やらかしたことを正直に告げて謝るしかない。
「雛、ご――」
「ごめんなさいっ!」
意外なことに、優人が言おうとした言葉を先に口にしたのは雛の方だった。
「何で、雛が謝るんだ……?」
「だ、だって今の、私が寝ぼけて優人さんを抱き締めちゃったんですよね……? 体勢的に考えても」
「あ、うん、まあ」
予想外の返答に生返事。
確かに間違ってはいない。間違ってはいないが、簡単に抱き締められてしまうような位置に優人が近付いたのが、そもそもの始まりなわけで。
……ここで雛の勘違いに甘えてしまうのは不誠実だろう。
怒られるのを覚悟の上、優人は口を開く。
「違う雛、悪いのは俺だ」
「……違う? でも、私の方が抱き締めてた形では……」
「それはそうなんだけど、それよりも前に……その、俺が自分から近付いてて……」
「……えっと?」
「だから、ちょっと魔が差して………………雛の胸に、手を出しました。ごめん」
正確には手じゃなくて顔だが。
どちらにしろ、寝込みに付け込んで男の欲をぶつけたことには変わりがないので、ベッドの上で正座した優人は頭を下げた。
何を言われても受け入れる。いっそビンタの一つされても文句は言えない。
たっぷり三秒は土下座してから顔を上げ、優人は真正面に雛を見る。
少しきょとんとした様子だった雛は、次第にじわじわと頬を鮮やかな薔薇色に染め、
「――優人さんのえっち」
結局飛んで来たのは、そんな可愛らしい罵倒だけだった。




