第135話『どこもかしこも柔らかい』
今夜も雛は、優人の部屋に泊まることになった。
特に前もってそういう約束を交わしていたわけではなく、雛から急にお願いをされた形ではあるのだが、「まだ一緒にいたいです」と潤んだ上目遣いを向けられては首を縦に振る他なかった。
ちなみに承諾した途端、雛は一転して溌剌とした笑顔を浮かべたので、うるうる上目遣い攻撃は意図して行ったものだろう。
自分の武器を理解してのおねだりが上手になってきた。勝てるわけがない。
そういうわけで、一度自分の部屋に戻った雛は寝間着や風呂上がりのケア用品一式を持ってとんぼ返りしてきた。雛が部屋の隅にいそいそと荷物をまとめる中、「今夜も一緒ー」と鼻歌混じりに小さく呟いたのを耳敏く聞いてしまったせいで、優人はしばらくむず痒い気持ちでいっぱいだった。
その後、厳正なる話し合いの末に一番風呂は優人が頂くことに。すぐ隣なのだから入浴ぐらいそれぞれの部屋で済ませれば話も楽なのに、そんな選択肢はお互い抜け落ちていた。
「風呂空いたぞ」
「はい」
優人と入れ替わりに洗面所兼脱衣所の中へと姿を消す雛。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いでいると、引き戸の向こうから微かにだが衣擦れの音が聞こえてくる。
……たった一枚の板を挟んだ先で、愛しい恋人があられもない姿を晒している。
鍵の一つすらもかからない引き戸なんて簡単に開くことはできるが、仮にその行為に及んでしまった場合、優人は一時の至福と引き替えに重い自己嫌悪を背負うことになるだろう。
信頼し合う恋人とはいえ節度は大事。だから優人は、欲望を断ち切るように冷蔵庫のドアを少し荒っぽく閉めると、麦茶のコップ片手にソファにどかっと座り込んだ。
薄茶色の液体を呷り、一息つく。
すでに夏を迎えているこの時期、省エネモードの冷房で室内は過ごしやすい気温に保たれているが、風呂上がりで熱くなった身体によく冷えた飲み物は格別だった。
きっと雛にも必要だろうと、入浴を終えてリビングに戻ってきたタイミングで麦茶を差し出せば、雛は「ありがとうございます」と微笑んで早速口をつける。風呂上がりでほんのり上気した肌も相まり、こくこくと脈動する白い喉が妙に艶めかしい。
「ふう、ごちそうさまでした」
「はいよ。コップ貰うわ」
「ありがとうございます」
飲み終わった空のコップを台所へ運び、ケーキを食べる時に使った食器も含めて残った洗い物を片付ける。
一通りの後片付けを済ませて振り返ると、珍しく胡座をかいた状態で座って体操のようなポーズを取る雛の姿が目に入った。
「何して――あー、それがさっき言ってたストレッチか」
質問の途中で気付き、雛の邪魔にならないようやや離れた位置に座りながら確認する。
雛が自分磨きの一つとして例に挙げていたお風呂上がりのストレッチとやらが、まさにこれのことなのだろう。
「はい。前々から少しずつやってましたけど、んしょ、最近結構、本格的に、んっ、始めたんですよね」
まずは上半身からという流れなのか、頭の後ろで右肘を左手で掴み、ぐっ、ぐっと上半身を反らす雛。
生地が薄いシルクのパジャマで行うには少々目のやり場に困る姿勢だが、本人は至って真面目に取り組んでいるようなので水は差さない。
ついつい凝視しそうになりつつも煩悩を押し殺して横目で盗み見るだけに抑えていた優人だが、雛のストレッチが下半身へと移行したところで、今度は別の意味で二度見してしまう。
「え、身体やわらか」
「そうですか?」
当の本人は大したことでもなさそうに返事をするけれど、優人から見れば現在の雛の姿勢には目を見張るものがある。
伸ばした両足を左右に開き、その間に上半身を倒すという開脚前屈。そもそもの股の開き具合が広いのもさることながら、上半身も目分量で七十度ぐらいは前に倒れている。股関節を始め、一般的には男性より女性の方が柔軟性に優れてるという話だが、優人では到底真似できない領域だ。
「すげえ、俺じゃ絶対そこまでいけない」
「ふふ、日頃の努力の賜物といったところですね。でも、後ろから押してくれたらもうちょっといけると思いますよ」
「へえ、なら失礼して」
顔ごと前に倒れてるので表情こそ見えないが、どことなく得意気な雛の後ろへと回り、優人はその背中に両手をそっとあてがう。
お風呂上がりとストレッチ、二重の意味で温まった肌の感触が衣服を通して伝わってきた。
「ゆっくりいくから、痛かったりしたらすぐ言ってくれ」
「いつでもどうぞー」
一度体勢を戻した雛が準備を整えたのは確認してから、優人は少しずつ腕に力を加え、再び雛の上半身を前へ前へと倒していく。
本人の申告通り、人の力を借りた雛の身体はさらなる柔軟性を発揮し、先ほどよりもさらに深い角度で前屈している。ぱっと見ならほぼ床と平行だ。
――ところで。
「…………」
「優人さん?」
「あ、悪い、体勢戻すか?」
「そうですね、一旦戻して……よし、もう一回お願いします」
「分かった。いくぞ」
「んっ、んー……!」
微妙に艶のある声は、まあさっきのくすぐりの時に比べたらマシなのだが、それよりも今さらに思い知る手の平からの感触が問題だった。
前屈することで雛の背中に張り付くパジャマの布地は、背中の中心付近を横切る一本の線を浮かび上がらせている。線と言っても少し太く、そして押し当てた優人の手にやや固さを伝える感触。
目を凝らせば何となく色も透けて見えそうなそれは、間違いなく女性だから着けるあれで、優人の脳裏にこの間のお泊まりでうっかり目撃した可愛らしい桃色が蘇った。
寝る時は着けない人も一定数いるらしいが、どうやら雛はきっちり着ける側らしい。
安心したようで残念なような複雑な気持ちをため息と共に吐き出し、雛から「もう大丈夫です」と声がかかったところで手を離した。
「手伝ってくれてありがとうございます。ちなみに、優人さんはどれぐらいまでいけるんですか?」
「俺は本当に固いぞ」
雛と場所を交代し、今度は優人が開脚前屈を行う。
「……うわあ」
固いと前置きしたのに後ろから憐れみの声が聞こえた。自覚はあったけどちょっと泣きたくなった。
「なるほど、これが優人さんの弱点ですか」
「俺はほら、あれだ、インドア派だし」
「私もどちらかと言えばインドア派ですけどねえ。ほらほら優人さん、こういうのは積み重ねですから、少しずつ頑張っていきましょう」
雛がぱんぱんと手を叩き、先ほどのお返しと言わんばかりに優人の背中に手を当てる。開脚にしても前屈にしても雛と雲泥の差がある現状、果たして頑張ったところで彼女に近付けるかは疑問だが、手を貸してくれる以上は励むとしよう。
「はい息を吸ってー……吐きながらぐぐーっと……」
「ん、ぐっ」
「もうちょっと、もうちょっとだけ前にー」
痛みを感じる直前まで押し込もうとする雛の力加減。
真剣に優人をサポートしようとするためか雛自体も前のめりになってるようで、背中に手以外の柔らかな感触がやんわりと当たっている気がする。
何というか、本当に雛は、どこもかしこも柔らかい。
改めてその事実は思い知りながら、雛と過ごす夜は更けていくのだった。




