第134話『誕生日プレゼント』
「はふー、大満足ですー……」
(まさか残り全部あーんさせられるとはな……)
空になった皿を前にして満足そうに息を漏らす雛を横目に眺めつつ、優人は使い終わった食器類を重ねて一つにまとめていく。
優人としても進んで引き受けたこととはいえ、雛の笑顔を直視しながらの何回にも及ぶあーんにはかなり心臓をかき乱されるものがあった。
やったこと自体は雛鳥に餌を与える親鳥のそれに近かったかもしれないが、そんな捉え方で割り切れるほど雛の魅力は生易しくなく、何の隔たりもなく向けられる幸せでとろけたような笑顔は破壊力抜群。表面上こそは耐えられたものの、内心はひたすらにぶつけられるいっそ暴力的なまでの愛らしさでダウン寸前だったと言えよう。
こういうのが嬉しい悲鳴なんだろうな、と苦笑しながら重ねた食器は台所の流しへ。
綺麗さっぱりと平らげられたケーキは無論半分は優人が自分で食べたわけだが、その前の夕食も含めれば女子にとっては結構な量だと思われ、雛の細い身体のどこにそれだけのものが入るのかは割と不思議だ。まさに甘いものは別腹ということか。
「ふう……さすがにもうお腹いっぱいです」
優人が簡単な後片付けを済ませて隣に座り直すと、姿勢を崩した雛ははにかみながら自分のお腹をさする。本人の言う通りいっぱいに詰め込まれたお腹は気持ち膨らんでいるように見えるが、それでも雛のスタイルは全体的に華奢である。
今日の服装がコルセットスカートなだけに強調されるところもあるのだろう。きゅっと引き締まった腰回りと相反するような二つの山が生み出す高低差は、服の上からでも少々目に毒だ。
「……ひょっとして、太るぞとか思われてます?」
ちらちらと向けてしまった優人の視線を別の意味で受け取ったらしく、両腕でお腹を隠した雛がうっすらと赤らんだ顔で優人を見つめた。
「思ってない思ってない。むしろよく食べる方なのに細いなって思ってたぐらいだよ」
「まあ色々と手は尽くしてますから。例えばカロリー計算とか、お風呂上がりのストレッチとか」
「分かってはいるつもりだけど、女の子は大変だよなあ」
「大変と言えば大変ですけど……やる価値はありますよ。だって、」
不自然に言葉を区切ったかと思えば雛は両膝を抱え、口元を隠すように前のめりになる。
「好きな人には、いつも綺麗だって思ってもらいたいですもん」
羞恥で微かに震えた囁きが、ぷすりと優人の胸に突き刺さった。
そもそもが努力家気質な雛のことだから、単純に自分磨きという面もあると思う。だがそれ以上に、優人のためにと日々の努力に励んでくれる雛の姿勢がどこまでもいじらしい。
そんな彼女への愛情は、仮に多少体型が変わったところで衰えることがないと断言できるけれど、そういった物言いは雛の頑張りに対して相応しくないだろう。
だから優人がかけるのは労いの言葉より、努力が実を結んでいることを示すものが相応しい。
自分の発言を今さら恥ずかしがって縮こまりそうな雛の背後に回り、優人は彼女を包むように抱き締めながら囁く。
「雛は綺麗だ。本当に誰よりも、世界一ってぐらい」
「……世界一は言い過ぎでは」
「言い過ぎなもんか。少なくとも俺にとっては、雛が一番だ」
あたふたとする雛に言い聞かせるよう耳元で囁いてやると、「ひうっ」と小さな悲鳴を上げた雛が身を捩らせた。
「雛?」
「耳元で喋るのは、だめ、です……」
「……ひょっとして弱い?」
「弱いとかじゃなくて……なんだか背中がぞくっとして……」
「ひーなー?」
「ふやっ!?」
どうやら弱いらしい。分かりやすく敏感な反応を示す雛を前にし、優人の口の端は意地悪くつり上がる。
「そういやいつだったかなあ。雛が俺に耳掻きしてくれた時、最後に息をふーってしたことあったよな?」
「き、記憶にございませんっ。優人さんの勘違いでは……?」
「いや覚えてるから。というわけで仕返しだ」
「やっ、ひ、んん、ん……っ!」
背後からという有利な立ち位置、そして男としての腕力を駆使してしまえば、雛が逃げられるわけもない。
今や熟したりんごのように真っ赤に染まった雛の耳の穴へ、柔らかく息を吹きかける。途端に優人の腕の中でびくびくと身悶える雛の震えを肌で感じながら、肺活量のかぎり吐息を送り込んだ。
あくまで以前の仕返しという名目なので、とりあえず一回だけ。
どうせならあと二、三回ぐらいは続けて雛の敏感な反応を楽しみたくもあるが、身悶えるたびに押し付けられる身体の柔らかさや艶めかしさを孕んだ声は、優人の理性をガリゴリと削ってくるので、適当なところで自制しないとこちらが持たない。
最後に少しだけ唇を触れさせてから顔を離すと、涙目の雛が優人の腕をぺしぺしと叩き、可愛らしい抗議の意を示してきた。
「いじわるっ、優人さんのいじわるっ」
「ごめんって」
同じことをやり返しただけなのに理不尽ではあるが、怒った彼女をつい甘やかしたくなるのは惚れた弱みといったものだろう。
体勢を変えて今度は雛を横向きに抱えるような形にし、甘い匂いが香る彼女の頭を胸に抱き寄せ、落ち着かせるようにゆっくりと撫でてやる。
直後は次は何をされるのかと身構えた様子の雛だったが、優人が優しくあやすだけに徹するとすぐに肩から力が抜けた。ただし、物言いたげな視線は依然としてそのままだ。
「これじゃお気に召さないか?」
「そういうわけではないんですが……。最近の優人さんはこなれてきたというか、大人の余裕というものがあるような気がします。なんだか悔しいんですよ」
「そりゃそもそも雛の一つ年上だし」
「……今は同い年ですけど」
「屁理屈」
雛が誕生日を迎えた以上は確かにそうかもしれないが、頼りになる年上という立場から下りるつもりはない。
「まあ、ただの安いかっこつけって言ったらそうなんだけどさ、男としてはやっぱり彼女をリードしたいなって思うわけなんだよ」
雛が優人に綺麗だと思ってもらいたいのと同じように、優人も雛からは頼りがいあると思われたい。常に努力を欠かさない彼女が羽を休められる場所であるために、好きなだけ甘えられるように。
雛の過去を知り、それからも少しずつ仲を深めていって、なおさらその想いは強くなっている。自分の存在意義の一つと言っても過言ではなかった。
それに、まだ時期も決まってない曖昧なものではあるが、雛の身も心も貰う約束を交わしているのだ。しっかりリードできるように今の内から鍛えておかないと、大事なその時にそれこそかっこがつけられない。
「……かっこつけなんかじゃありませんよ」
面映ゆそうに眉尻を下げた雛がもぞりと身動ぐ。
優人の心臓の辺りに雛の耳があてがわれる形。外面に反して早鐘を打ったような誰かさんの鼓動を、彼女はばっちりと感じ取れることができるだろう。
なのにそれを指摘する素振りは見せず、雛はくすりと微笑むだけで優人の胸に頬擦りをした。
「優人さんはかっこいいし、とても頼りになる男性です。だから私はこうして甘えたくなるんです。もう優人さんなしなんて考えられなくなっちゃったんですから……ちゃんと責任、取ってくださいね?」
「……望むところだよ」
情欲を煽るような囁きに一瞬言葉を失いながらも頷くと、腕の中の雛が「言質取りましたー」と笑みをこぼした。
「っと、そうだそうだプレゼント」
底抜けに幸せな時間はいつまでも続いて欲しくあるけれど、大事なことを忘れてはいけない。
いつでも取り出せるようにソファの陰にこっそり隠していた紙袋を手にし、それを雛へと差し出す。
「改めて誕生日おめでとう」
「えへへ、ありがとうございます」
開けていいですか、と目で訴えかける雛に頷きを返すと、興味津々な彼女は早速紙袋の中身へと手を伸ばし、購入先の店員にラッピングしてもらった小さな長方形の箱を取り出す。どうせ最後は捨てるであろう包み紙すらも丁寧に剥がしていけば、黒塗りのちょっと高級感のあるパッケージが現れた。
「これ、リップですよね?」
細長い外箱に書かれた英語を読み取り、雛が少し意外そうな顔をした。
「人に訊いたりして色々考えたんだけど、こういうプレゼントもいいんじゃないかと思ってな。……どうだ?」
「優人さんが真剣に選んでくれたプレゼントを気に入らないわけありませんよ」
「そうだとしても、やっぱり喜んでくれるものを贈りたいだろ」
「心配性ですねえ。安心してください。薬用とかならまだしも、こういうのは使ったことがないので本当に嬉しいですよ?」
雛は優人の頬を人差し指でつんと押し、開封した外箱からお洒落なイメージ通りのピンクゴールドの容器を取り出した。
「わあ……綺麗な色ですね。ちょっと待っててください」
容器の蓋を外して露出させたリップの先端を眩しそうに眺めると、続けて雛は自分のスマホを顔から少し離したところに掲げる。
今まで特に気に留めなかったのだが、雛のスマホに取り付けられた手帳型のカバーには、内側に小さな鏡が用意されていた。なるほどこうしてすぐメイクに移れるところは実に女の子らしい。
形の整った小さな唇、その上下の端から端までを丁寧にリップでなぞり、最後に軽く唇を内に巻き込む雛。塗り終わったリップの蓋を閉めてから顔を上げた彼女は、優人を見つめて悪戯っぽく小首を傾げた。
――言葉にされなくとも、何を求められているかは分かった。
プレゼントした直後にわざわざ目の前で塗るぐらいなのだから、実際に使ってみた結果の出来映えはどうかを問われているに決まってる。
なのに、目前の彼女があまりにも魅力的で、言葉が出てこなかった。
元々雛の唇は綺麗な色をしている。彼女の写真を参考に店員から勧めてもらったリップの色は、その美しさを底上げするように見事マッチし、ほんのり強調された薄ピンク色と艶のある質感が、何とも言えない清楚な色香を匂わせている。
綺麗とか、似合ってるとか、そもそもその程度のボキャブラリーしか持ち合わせていない優人だが、今はそれすらも失われた。
そして気付いた時には、雛の唇を奪っていた。
まさしく身体が勝手に動いた優人からのキスは、雛にとっても身構える暇が無いほど予想外だったのだろう。
戸惑いから強く跳ねた身体は、けれどすぐに和らいで優人を受け入れ、キスされやすい位置を探るようにもぞりと首が動く。
いつも以上の潤いに溢れた唇の柔らかさを食み、時には逆に押し付けられ、ひどく甘く感じる雛をしばし味わってから唇を離した。
「……もう、リップが優人さんにもついちゃいましたよ」
とろけきった眼差しで優人を見上げ、雛は可笑しそうに優人をたしなめる。
見れば雛の唇に塗られたリップの色は微かに薄くなっていた。
「すまん……」
「ふふ、思わずキスしたくなるぐらい似合ってたということで手を打ちましょう。――あ、これからは優人さんからキスして欲しくなったら、これを塗ってアピールすればいいんですね!」
「さすがにもったいない使い方だからやめてくれ。……キスなら、いくらでもするよ」
「なら、とりあえずもう一回……んっ」
返事の代わりに優人が与えたのは、雛がふやけてしまうような優しい口付けだった。




