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三〇〇グラムの幸福

作者: 齊川萌

「もうご飯作るの面倒臭いし、食べなくてもいいんだけど」

「食べないは無しでしょ」

「じゃああなたが作るか買ってくるかしてよ。毎日毎日作って洗って、作って洗って。ほんとに嫌になるわ。やったことない人には分からないでしょ。食べないでいる方がずっと楽なのよ。一食くらい抜いたって、死にゃせんでしょうし」

 僕はここまで聞くと、決まって書斎に逃げ込むことになっている。それは演劇の脚本家によって予め決められていたシーンであるかのように、いつの間にやらそういう流れがテンプレートとして僕の中にインプットされていた。書斎に籠ってしばらくすると、階下から規則正しい包丁とまな板のぶつかり合う音が、BGMのように聞こえてくる。ここまで来たらしばらくは妻の調理中のシーンに世の中の目は切り替わり、僕はしばらく舞台袖で休憩だ。

 妻が僕を呼び、僕は二階へ急ぐ。そして何事もなかったかのように湯気の上る夕食がテーブルの上に並べられ、僕たちは一緒に手を合わせ、「まー」と言って箸を持つ。「いただきます」が「いただきま」になり、気付くと大半が削られて「まー」になっていた。声を掛け合うタイミングが毎度ぴしゃりと合うことに、僕たちは飽きずに笑う。これももう決められたシーンなのだ。今さら「こういう風に変えたらどうですかね。一般的な家庭みたいに」などとは言えない。僕たちは僕たちの生活のすべては必然であり、運命であるということにしていた。

 ロールキャベツにしよう、と思い立ったらしい。僕は大好きなトマトスープにそれが幾つか沈んでいるのを発見した。材料不足でハンバーグを断念したが、解凍していた豚挽肉を何としてでも使いたかった、ということが何となくわかる。彼女にとって肉類が解凍されているかどうかがその日の調理に対するモチベーションに差をつけていることは、先日のカレーの豚こま切れ肉が解凍されていなかった件での落ち込み、取り乱した様子で証明されている。しかし理由はともかくロールキャベツは僕の好物だ。嬉しい、そして旨い。米も炊き立て、味噌汁もいつもと変わらない塩加減。野菜とタンパク質のバランスもきちんと取れている。僕には到底出来ない、と思ってしまう。僕が料理を作ろうと思えないことと、買いに行くことに億劫さを見出してしまうことは、妻の作る料理が旨いことが原因なのだ。僕は結婚した当初、結婚するということは専属のシェフが付くということだったのか、と心底見当違いな感動を憶えていたが、恐ろしくて口に出したことはない。

「ねえ、何か言うことは?」

 僕が満足気に食事をしていると妻は必ずこう聞いてくる。世の中のパートナーを持つ女性全員にこれはどういう意図を持っているのか聞いて回りたい。好きよ好きよで彼女と一緒に暮らし始めたばかりの頃、当時はガールフレンドであった妻が作ったミネストローネが大変美味しく噛み締めて食べていた時、この質問をぞんざいに投げつけられたのだ。そして僕はさも当然の事実を申し述べるが如く、「旨いよ」と答えたはずなのだ。一度答えが出たはずの問いを繰り返しぶつけてくるのは、もはや馬鹿の所業なのではないかとすら考え始めるが、妻に言わせると言葉にしない僕が悪いのだ。

「美味しいよ」

「あ、そう」

 妻はいつも僕のこの答えを聞いて、ミネストローネを作ってくれたあの日と同じ、どこか嬉しそうな歯痒そうな面映ゆそうな顔をする。散々文句を言ってみたが、僕はやはり妻のこの顔を見たくて、つい答えてしまうのだ。妻はいつまでも愚かで浅はかで可愛い。僕は料理に興味が持てないのではなく、滅相妻の負担を鑑みないわけでもなく、ただただ、このいつの間にか二人だけに馴染んだ一連のお決まりの台詞の掛け合いを、したいだけなのかもしれない。

 出逢った頃より少しふくよかになった妻を見ながら、味の良く染みたロールキャベツを噛み締める。


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