第1幕ー6 お風呂
朝霧が立ち込める中、小屋を後にしたエミリオは、静寂に包まれた地底の森を歩いていた。
空には太陽の代わりに、淡く輝く鉱石雲が浮かび、揺れる光が周囲の樹々に淡い青白い陰影を落としている。
霧は足元に絡みつき、足音すら吸い込まれるような静けさの中――彼は一歩、一歩と、慎重に歩みを進めていた。
やがて、山肌に沿うようにして築かれた、半ば朽ちかけた建物が姿を現した。
それは“蔵”だった。
木と石を組み合わせた粗野な造りは、一見して年代物と分かる。外壁には深い亀裂が入り、苔が這い、扉には重々しい鉄の閂が取り付けられていた。だが、その佇まいにはただの倉庫ではない、何か“意味”のようなものが宿っている気がした。
エミリオが近づくと、突如、ガチャリと閂の音が鳴り響いた。鍵が、まるで意思を持ったかのように、ひとりでに外れたのだ。
(……誰かが、俺の到着を知っていたのか?)
一瞬、警戒の色が顔をよぎったが、不思議と敵意は感じられなかった。
それは偶然ではない、意図された準備。自分の行動が、すでに誰かに読まれているかのような感覚があった。
扉を押すと、重たく軋む音と共に中の空気が吐き出された。古びた埃の匂い。冷気と湿気を孕んだ空気が、肌に触れてざらりとした感触を残す。
内部は広く、外観からは想像もつかないほど天井が高かった。
中は静寂そのもので、光の筋が天井の小さな通気口から差し込んでいた。舞い上がる埃が光の中で浮遊し、まるで時間そのものが止まってしまったような幻想的な空間だった。
その中央に、ぽつんと一頭の馬が繋がれていた。
それは美しかった。
茶褐色の毛並みは艶やかで、筋肉の張りも申し分ない。静かな瞳は知性を感じさせ、耳の動きからも警戒心の薄さが見て取れた。まるでこの場所を主の帰りを待つ忠犬のように守っているかのような気配すらあった。
(……これは)
エミリオは言葉を飲み込んだ。
その馬は、あまりにも「彼」に似ていた――かつての愛馬、“ヴァーダイト”に。
視線を奥へ移すと、壁際には複数の木箱が積み上げられていた。封印されたままの補給箱。鉄製のロックを外し、箱の中を覗くと、そこには信じ難い物が並んでいた。
猟銃。マシンガン。予備弾倉に、照準装置付きの短機関銃。ナイフ、手榴弾、銃身冷却剤、携帯用の防御盾、そして軍用バックパック――どれもが整然と並び、磨かれ、まるで“今すぐ使え”と命じているかのような整備状態だった。
(……どういうことだ?)
エミリオの中に、戸惑いと共に一抹の寒気が走った。
この地底の、封じられたような地で、なぜここまでの近代装備が?
しかも、明らかに自分の体格や訓練に見合う武器ばかりだ。
「これだけあれば、フェムシンムにも対抗できるだろう」
ぽつりと呟いた声が、蔵の内部に静かに反響した。
一体誰がこれをここに置いたのか――
それとも、これすらも“用意された”未来の一部なのか?
背後で馬が軽く鼻を鳴らした。
その音が、思考を引き戻す。目の前の現実を、まずは受け入れるしかない。
背に鞍を載せ、革の手綱を結び直し、体勢を整える。
だがその最中、ふと身体の重さを感じた。
疲れていた。激しい戦い、長い移動、不安と恐怖の蓄積。
戦士としての緊張が少し緩んだことで、心身の痛みが一気に浮かび上がってきた。
(……風呂に入りたい)
唐突に思った。けれど、それは極めて人間的な欲求だった。
戦士である前に、ただ一人の男として――血と汗にまみれたこの身体を、清めたかった。
せめて短い時間だけでも、心と肉体を休ませたかった。
彼は思い出した。先ほど山を越える道中で見かけた、あの川の存在を。
流れる水音、清らかな流れ、そして確かに湯気が立ちのぼる源泉があったはずだ。
「川で洗い流すか。」
言葉にしてみると、それだけで少し気が楽になった。
彼はヴァーダイトの手綱を引き、静かに歩き出した。
道は長くはなかった。むしろ、道すがらの風景が心を癒してくれた。
空には静かな鉱石の光が射し込み、岩の間から生えた白い蔓草が風に揺れている。
鳥に似た形の生き物が、色鮮やかな羽根を広げて小さな音を立てながら飛び交っていた。
やがて、流れる水音が近づく。
そして――それはあった。
川の上流。苔むした岩陰に、湯気がふわりと立ちのぼっている場所が。
湧き出た湯は、自然に削れた岩のくぼみに溜まり、小さな天然の露天風呂となっていた。
白濁した湯にはわずかな硫黄の香りが漂い、そこはこの地底世界の中で唯一、自然がもたらす温もりのように思えた。
彼は躊躇わず衣を脱ぎ、ゆっくりと湯へと足を入れる。
(……ああ)
思わず漏れたのは、深い安堵の吐息だった。
湯は身体を包み込み、張り詰めた筋肉をほどき、冷えた心を溶かしていく。
しばらくして、彼は湯の中から振り返った。木陰で草を食む馬の姿が見える。
その姿に、彼は語りかけるように声を発した。
「あー旅の疲れも吹き飛ぶな。ここなら誰にも見られないだろう。ところでお前に名前を付けてなかったな。よし、決めた。お前の名はヴァーダイトだ。ヴァーダイトっていうのは死んじまった俺の愛馬の名前さ。お前はあいつにそっくりだからなー」
ヴァーダイト――その名前を口にすると、胸の奥に何かが灯った。
彼はまだ、話し足りなかった。
エミリオは湯の中で目を閉じたまま、そっと言葉を紡いだ。
「……お前、本当にあいつに似てるな」
彼の瞼の裏に、かつての馬、ヴァーダイトの姿が浮かぶ。
それはただの懐古ではなかった。心の奥底から呼び起こされる、記憶の奔流だった。
――あれは、まだ彼が士官学校の生徒だったころ。
貧しい家の出身で、訓練に遅れ、よく叱責されていたあの時代。
誰とも打ち解けられず、ただ機械のように軍規を学ぶ日々のなかで、唯一、エミリオに心を開いてくれた存在。それが厩舎の隅にいた一頭の若馬だった。
生まれつき前足に癖があり、他の馬たちに比べて小柄だったその馬は、使役に回されることなく放置されていた。だが、エミリオだけは毎日世話をし、声をかけ、名前を与えた。
「ヴァーダイト」――それは、古の騎士譚に登場する宝石剣の名。
そして不思議なことに、その日を境にヴァーダイトは、エミリオの言葉に反応するようになった。
訓練にも付き合い、落馬しても背を貸し、嵐の夜には檻の中から鼻先で慰めてくれた。
時が経ち、戦場に出たエミリオの傍にも、ヴァーダイトは常にいた。
騎馬部隊の斥候として何度も敵地を駆け抜け、何度も死地から戻ってきた。
最前線で包囲された夜、飢えと恐怖に震える兵士たちの中心で、ヴァーダイトはじっと立ち続けていた。
だが、その日――最後の夜だけは違った。
敵の大砲が、味方の陣営を見事に貫いた。
咄嗟に庇うように跳ねたヴァーダイトは、砲弾の破片を背に受け、その場で崩れ落ちた。
エミリオは彼を抱きかかえ、何度も名前を呼んだ。だがその瞳は、もう微笑むことはなかった。
あの日から、彼は一度も“馬に名前をつけること”をしなかった。
「……また会えたな、ヴァーダイト」
エミリオは、そう語るように目を細めた。
木陰で草を食む今の馬が、じっとこちらを見ていた。
それが“本当に彼”であるかは、問題ではなかった。
再び彼に出会えたことが、彼の魂にどれほどの救いをもたらしたか、それこそが大事だった。
湯に身を沈めながら、エミリオは静かに空を仰いだ。
地底の空には太陽はない。だが鉱石の光が空を照らし、ゆっくりと流れる雲のように、透明な鉱霧が空を渡っている。
耳をすませば、遠くで虫が鳴いている。水音がゆったりと木霊し、岩に滴る雫がひとつ、またひとつと落ちる。
この空間には、戦争も怒りもない。ただ静寂だけがある。
だが、その静寂の中で、彼は語らずにはいられなかった。
「どうやら私は最近眠ると、おかしな夢を見るのだよ。私と夢の中で地上から来た人間と精神が入れ替わっているのだ。私は眠りに着くとその男の夢を見るのだよ。不思議だな、時代も今と全然違うのだ。我々とは比べものにならないくらい高度な技術や文明を築いていたなあ。その世界では私は、地上の世界からきた人間らしいのだ。まさかとは思うが、私達の時代の人間では無いのか。」
自嘲にも似た語りは、まるで独り言のように空へと零れた。
言葉は湯気に溶け、空へと昇っていく。
夢の中の“あの世界”――
そこでは、自分は「中島龍太郎」と名乗っていた。
都市が空を覆い、金属の列車が地上を走り、誰もが薄い板を見つめながら生きていた。
手には武器ではなく、光を放つ不思議な道具を持ち、戦うことも飢えることもない。
人々は孤独で、だが飢えてはいない。互いを恐れず、だが心を通わせてもいなかった。
その世界で彼は、ごく普通の青年だった。旅に出る直前、飛行機の中で何かが起き、そして気づけばこの世界にいた。
(……本当に夢なのか?)
自分の中には確かに“龍太郎”の記憶がある。
母親の顔、大学の講義室、コンビニの音楽、冬の渋谷――
どれもが、あまりにも鮮明だ。フィクションにはあり得ない、具体的な記憶。
逆に、こちらの世界の記憶――“エミリオ”としての記憶も確かにある。
村、マリア、士官学校、フェムシンム、戦火、剣、血。
そのどれもが、自分の肉体に刻み込まれていた。
(……ひょっとして、どちらも本当の俺なのか?)
意識の深い部分で、二つの人格が寄り添い、交差し、混じり合っている。
「龍太郎」が「エミリオ」を見、「エミリオ」が「龍太郎」を夢見る。
互いの夢が、現実の背中を引っ張っている――そんな奇妙な感覚。
「……ひょっとして俺たちは、何かに繋がっているのかもしれないな」
それは独白であり、問いでもあった。
そしてそれに応えるように、ヴァーダイトが一度だけ鼻を鳴らした。
彼は、それを“肯定”と受け取った。
空は変わらず青白い。木々の葉は風に揺れ、湯の波紋がゆっくりと広がっていく。
温泉の熱は優しく、芯からエミリオの疲労を溶かしていた。
身体が軽くなり、心が静まっていく。
あらゆる喧騒が遠のき、思考の隅からも戦の叫びが消えていく。
(もう少しだけ、こうしていよう……)
そう思い、彼は湯の中で身体を横たえた。
湯が背中を支え、耳には水の音だけが響く。まるで胎内に戻ったかのような、完全な安寧だった。
――そして、彼は眠りに落ちた。
夢は、静かに始まった。
目を閉じた瞬間、意識は水面のように静かに沈んでいき、音も匂いも重力も、すべてが滲んでいく。
やがて周囲が薄暗くなり、風が消え、光が途絶え、そこに現れたのは――あの、見慣れた光景だった。
高層ビルの谷間。無数のヘッドライトが道路を行き交い、電車が地を震わせる音。
行き交う人々の目はスマートフォンに釘付けで、誰もが黙りこくって前だけを向いていた。
それは、「中島龍太郎」の世界だった。
――俺は、あのとき、飛行機に乗っていた。
それも、ただの観光じゃない。大学の交換留学。ドイツへ向かうため、成田を発ち、上空で……何が起きた? 気絶した? あのガスのようなもの――
そして次に目覚めたとき、そこは――地底だった。
“エミリオ・ロシュマン”としての生。
剣を握り、村を守り、仲間を喪い、恋人を攫われ、宿命を背負わされた人生。
この二つの現実が、夢の中で奇妙なバランスを保ち、同時に存在していた。
一方では、龍太郎が図書館で哲学書を読み、ゼミの発表を考えていた。
一方では、エミリオが戦場で血を浴び、狼たちと対峙し、精霊の名を口にしていた。
――どちらが夢なのか。
(それともどちらも、現実なのか?)
龍太郎の夢の中にエミリオが現れ、エミリオの記憶の中に龍太郎の生活が差し込む。
大学の仲間たちの声が、フェムシンム族の叫び声に重なる。
自動ドアの開閉音が、剣を振るう金属音と混ざり合う。
脳内で誰かが語る。
《あなたは今、境界にいる。》
誰だ?
《一つの魂が、時を越えて二つに割かれた。それが“彼”と“君”だ。》
声は性別すら曖昧で、だが深く、確信に満ちていた。
エミリオ――いや、龍太郎は夢の中で問いかける。
「……なぜ、俺はエミリオの中にいるんだ? 逆じゃないのか?」
《エミリオの魂が時を越えて君を呼んだのだ。地底世界に巣食う闇を断ち切るために。そして、君の記憶こそが、彼を完成させる。》
まるで物語の語り手のように、声は淡々と語る。
《この世界の終わりは近い。だが、君たちの融合が成れば、道は拓ける。》
「……俺たちが、融合する?」
答えはなかった。
ただ風が吹いた。
夢の中の東京の街並みが、一気に砂となって崩れ落ちる。
その下から現れたのは、バクミュダットの大地。蔵。馬。温泉。霧。――そして“エミリオ”だった。
エミリオが、自分自身を見つめている。
湯に沈む裸の自分。目を閉じ、穏やかな顔で眠る自分。
夢の中の視点が俯瞰に変わり、そこに映るのは二人の“自分”。
片や剣士。片や学生。
だが、その顔は同じだった。
魂は、ひとつだった。
そして――静かに、夢が終わりを迎えようとしていた。
目を閉じた意識が再び浮上し、聴覚が戻り、皮膚に温度が宿る。
湯の温もりが背中を支え、水音が耳に触れる。
そして、開いた瞼の先に、見慣れた空が広がっていた。
地底の空。鉱石の光。風に揺れる葉の音。
木陰にはヴァーダイトが立ち、じっとこちらを見ていた。
「……寝てたか」
小さくつぶやいた声に、馬が一度だけ鼻を鳴らした。
空気はすでにひんやりとしている。
温泉の湯気は少しずつ冷えてゆき、日が傾いていく。
エミリオは、静かに湯から立ち上がった。
身体を拭い、衣をまとい、革帯を締める。
剣と荷を手に取り、ヴァーダイトの背に鞍を装着した。
それは儀式のようなものだった。
――休息は終わった。
今、自分が誰であろうと関係ない。
“エミリオ”として生きる以上、やるべきことは一つだ。
マリアを救うこと。
村を取り戻すこと。
フェムシンム族の闇に立ち向かうこと。
そして――“自分自身”の正体に決着をつけること。
「行くぞ、ヴァーダイト」
エミリオは馬に跨がり、手綱を引いた。
ヴァーダイトは小さく嘶き、霧の中へと踏み出した。
蔵の奥に眠る武器を背に、二人は新たな地へ向かって進んでいく。
霧が晴れ、風が吹き、彼の心の中には、ただ一つの言葉が浮かんでいた。
(――戦いが始まる)
そして、遠く、空の彼方で――
「龍太郎……」
誰かが、彼の名を呼んでいた。