第1幕ー5 旅立ちのエミリオ
朝が来た。
それはあまりにも静かな朝だった。
微かな鳥の囀りが、まだ暗さの残る空気のなかで響き渡り、遠くの木々の葉が揺れる音が小さな旋律を奏でていた。冷えた空気が小屋の中に入り込み、藁の上に横たわっていた一人の青年の頬を撫でた。
目がさめると、エミリオの身体になっていた。
かつて「龍太郎」であった男の意識は、すでに完全に「エミリオ・ロシュマン」という名の戦士に成り代わっていた。思い出すのは焼け落ちた村、奪われた恋人、兵士としての誇りと怒り。
そのすべてが、今では夢ではなく、この身に刻まれた現実となっていた。
仄かな朝の光が、小屋の壁に染み込んだ年月の跡を照らしていた。木と石で構築された簡素なこの小屋は、地底の大地にひっそりと佇み、誰の目にも触れぬ場所に存在していた。
エミリオのすぐ傍らには、ソフュシアが静かに眠っていた。
彼女は、昨夜と同じように藁を敷き詰めた布団の上に身を預け、深く安らかな寝息を立てていた。その白銀の髪は枕元に柔らかく広がり、獣耳がふわりと微かに動いている。
疲れがたまっていたのだろうか。どこか幼さの残る寝顔には、普段の毅然とした表情とは異なる、無防備で人間らしい柔らかさがあった。
(……守らねばならない)
そう思うと、胸が少しだけ締めつけられるような感覚がした。
布の衣を身にまとい、剣を背に帯びると、エミリオは立ち上がった。
革製のベルトを締め直し、肩当てを装着する。その一つ一つの動作が、彼の中で「戦士」としての意識を再起動させていく。これから始まる旅路に向けて、心も体も、再び引き締まっていくのを感じていた。
そのとき――
寝息のリズムが変わり、ふいにソフュシアが薄く目を開けた。瞳に映るのは、すでに旅支度を整えたエミリオの姿だった。
「エミリオ行ってしまうのですね。」
その声は、かすかに揺れていた。
どこか虚げで、淋しそうで、まるで何かを手放すことへの恐れと未練が滲んでいた。
彼女の耳が小さく伏せる。尾も動かず、彼女はただ布団の上から身を起こし、座ったままじっと彼を見つめていた。
エミリオは、少しだけ振り返ると、穏やかな声で言葉を返した。
「ソフュシアよ、私は、行くよ。そなたに助けられた礼は忘れない。どうかお元気でな。」
その言葉には、嘘偽りのない感謝の念と、戦士としての静かな覚悟が込められていた。
別れの挨拶を交わすと、エミリオは静かに小屋の扉を押し開けた。
冷たい朝の風が、顔を撫でた。地底の空は青くなく、淡く光る鉱石雲が空一面に広がっていた。けれど、その中からも確かに「朝日」と呼べるような光が差していた。
風が草を揺らし、どこか遠くから水が流れる音が聴こえてくる。その音が、まるで大地の目覚めを告げているかのようだった。
(また、今日という一日が始まる……)
そんな感覚が、自然と胸の中に湧き上がってくる。
その背後から、すっかり目を覚ましたソフュシアが姿を現した。
風が吹き抜け、彼女の長い銀髪が空に舞い上がる。耳がピンと立ち、目元には薄く笑みが浮かんでいたが、やはりどこか哀しみが混ざっていた。
彼女は何も言わず、ただ頷いてエミリオの旅立ちを見送った。
こうしてエミリオは、小屋を後にした。
その背中には、彼女が託した信頼と祈りが、確かに残されていた。
向かうのは、ソフュシアが語っていた“蔵”――戦士としての装備が眠る場所である。
歩を進めるごとに、風景はゆっくりと姿を変えていく。
岩肌の斜面を越え、草木の茂る丘を渡り、彼の旅は静かに、しかし着実に始まっていた。
だが、旅の開始からさほど経たぬうちに、エミリオの前方に、異様な気配が漂い始めた。
霧が立ち込め、空気が一変した。
――そして、現れた。
蔵の入り口が見えたそのとき。
その前に立ち塞がったのは、五匹の狼。だが、ただの獣ではない。
彼らは人語を喋った。
その中でも、ひときわ異彩を放つ一体――長のような存在であろう黒毛の狼が、言葉を紡ぎ始めた。声は直接、脳に響いた。
「私は神から、力を授かしりもの。名をデュオシュアという。貴様フェムシンムのものでは無いな。」
その名を聞いた瞬間、エミリオの眉が鋭く動いた。
「私は、エミリオ。リヒュテインの剣士だ。訳あって、こんな姿にされてしまった。そなたがデュオシュアか。世界を破壊する恐ろしき兵器を開発したそうではないか。」
彼の目には、デュオシュアの姿がはっきりと映っていた。
全身を漆黒の毛で覆い、筋肉の鎧に包まれたかのような巨大な狼。その目は冷徹でありながら、どこか誇り高い光を湛えていた。
どうして彼らが人語を喋るのか。なぜ彼らがこの地に現れたのか。すべては謎に包まれていた。
だが、唯一確かなのは――この男(狼)が敵であるという直感だけだった。
エミリオは剣の柄にそっと手を添えた。腰に帯びた剣は未だ鞘の中で眠っていたが、その刃の鋭さは、彼の瞳の中に既に宿っていた。
目の前にいる存在――“デュオシュア”と名乗る狼の言葉は、まるで神託のように重く、そして不気味な光を放っていた。
「この世界に住む、人類は増えすぎてしまったのだ。私達は、太陽神ジュラーセの力により宇宙に誕生した。神が私達に与えて下さったのだ。人類と同じような高度な知能を。私達は人類よりはるか古代から文明を築き上げてきた。この地帝国は、私達の新たなる開拓地として、栄えさせよう。エミリオと言ったな、我々の同士になる気はないかね。」
その声は口から発せられてはいなかった。脳内に直接響いてくる、低く、濁った音。まるで深海に沈む怪物が、自分の存在を告げてくるような不気味さがあった。
(……太陽神ジュラーセ……?)
その名は、バグミュダット公国でも一部の信仰者たちの間で語られる伝説の神だった。宇宙の黎明期に現れ、大陸を生み出し、知恵と力を授けた存在。その神の真の姿を見た者はいないとされ、聖典も一部は破損し、記録が断片的だった。
だが今、目の前の“獣”が語る太古の言葉は、あまりにも具体的で、そして現実味を帯びていた。
しかし、エミリオにはその意図が――その目的が――何よりも受け入れがたかった。
「ふざけるな、貴様は、リヒュテインをめちゃくちゃにするだけではなく、人間界をも滅ぼそうとしている。その分際で貴様に協力は出来ない。マリアはどこだ。」
怒りの咆哮と共に、エミリオは剣を抜いた。
その銀の刃は、霧の中で青白く煌めき、鋼の意志が宿っていた。全身に走る怒りと正義の炎が、その刃に宿り、彼の動きを速める。
だが――
「……ッ!」
次の瞬間、目の前にいたはずの狼たちの姿が、まるで幻のように掻き消えた。
残されたのは濃い霧と、冷たい沈黙だけ。
エミリオはその場に立ち尽くし、すぐに周囲を見回す。視界は狭く、風が吹けば霧が動き、立ち木の影が揺れる。だが狼たちの気配はどこにも感じられなかった。
そして――
声が、再び脳内に響いた。
「おい、、どこだ!!どこに姿を消えた!!もっと教えろ!!この世界の事とこの世界の秘密を!!私には知る権利があるのだ!!」
その叫びは風に乗って霧に消えたが、返ってきたのは冷ややかな、嘲るような声だった。
「彼女は、特異な存在なのだ。計画の為に必要なのだからな。それから1つ。お前は私に触れることすら出来ん。この姿はわたしの幻覚だからな。」
それは、絶対的な余裕とともに語られた一言だった。
次の瞬間、霧がふわりと動いた――そこに、再び姿を現す“影”があった。
高い木の上。いや、それを越えた場所。空中。
エミリオがその方角を見上げたときには、すでにデュオシュアらしき存在が、空の中に浮遊していた。
その巨体が、地に足を着けずに空間に在る――それは明らかに、物理法則を超えた存在だった。
どうやらこいつらは、魔術を操る存在――“魔族”の系譜に属する者たちであることは、もはや疑いようがなかった。
「貴様ら、、さては魔族の者か??何故人間の世界を滅ぼそうとするのだ!!!」
エミリオが天を仰ぎ、渾身の怒声を放つ。
声は届いたはずだ。だが――
その姿は、すでに空へと、霧へと、そして風へと――消え去っていた。
地に残されたのは、まだ温もりの残る足跡と、巻き上がった塵だけ。
エミリオは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
剣を握る手には未だ力が入ったまま。だが、その刃の向ける先は、もはやどこにも存在していなかった。
彼の胸には、言いようのない焦燥が渦巻いていた。
(……なぜだ……なぜ俺がこんな姿にされ、こんな世界に立たされなければならない……?)
フェムシンム族――その名を名乗るソフュシアの父。
デュオシュア――彼の正体は、魔族の一派であり、遥か古代から地底世界を裏で動かしてきた存在かもしれない。
そして、ヘルヒュート――それは地底大陸の中でも特異な領域であり、リヒュテインやバグミュダットといった文明圏とは明らかに異なる“魔の地”であると、古文書にも記されていた。
その地からやってきた者たちが、なぜ今、この地で暗躍しているのか。
それは偶然ではない。何か大いなる計画の一環であり、そして――
マリアも、その計画に“組み込まれてしまっている”という現実が、彼の胸を引き裂いた。
(ソフュシア……お前の民は、一体何を抱えているのだ……?)
フェムシンム族とは何者なのか。彼らは人なのか、獣なのか、それとも――神々に近い“何か”なのか。
エミリオの中で、疑念と覚悟が交錯した。
目の前には静かに佇む“蔵”があった。
そこには、彼がこれから戦うために必要な装備、そして次なる道筋を示す鍵が眠っているはずだった。
風が吹く。
木々の葉が、さざめくように鳴る。
――その風の中に、微かにソフュシアの声が混ざった気がした。
「……あなたのような人こそ、私たちの未来を変えられる気がしてならなかったのです。」
その言葉が、今も胸に残っている。
そして彼は、深く呼吸し、蔵の扉へとゆっくりと手を伸ばした。
これから始まる戦いが、もはや個人的なものではなくなったことを、彼は誰よりも理解していた。
エミリオ・ロシュマンは、もう迷わない。
――すべてを取り戻すために。
――すべてを終わらせるために。
彼の旅は、今まさに本当の“始まり”を迎えようとしていた。