第1幕ー3 異世界
――それは、まるで世界が一変する刹那だった。
どれほど眠っていたのかも定かではなかったが、やがて龍太郎は、ふと意識の淵から這い上がるようにして目を覚ました。
「……え?」
まぶたを開けた瞬間、視界に広がるのは、あまりにも見慣れない、異様な光景だった。
重く湿った空気。煤けた天井板には煤のような黒い斑点が広がっており、焦げ付いたような匂いが鼻腔を突いた。体を起こしてみると、床には土埃が厚く積もり、どこか遠くで風が物悲しく唸っている音が聞こえる。
さっきまで確かにレオンハルトのホテルにいたはずだ。柔らかなベッド、整った内装、静かな調度品の数々……そのどれもが今や、霧の中の幻のように遠のいていた。
辺りを見回した瞬間、彼の中に鋭い違和感が走る。
天井も壁も、どこを見ても見覚えのない風景だった。照明の代わりに、淡く光る発光苔のようなものが壁の一部に生えており、辺りを仄かに照らしている。窓もない。扉らしきものは半ば壊れており、木片がそこかしこに散乱していた。
(ここは……どこだ?)
戸惑いの中、龍太郎はベッドらしきものの縁に腰を下ろした。だが、ふと気づく。――隣に、あれほど共に旅をしていたはずの峯岸の姿がない。
「……峯岸?」
名前を呼んでみるも、返事はない。室内に彼の気配はなく、代わりに、耳を澄ませば外からわずかに、風に乗って何かが揺れるような、あるいは遠くで何かが燃えているような音が聞こえてくる。
(ここは……夢なのか?)
あまりに現実離れした光景に、思わず頬を軽くつねってみた。だが、確かな痛みが指先を伝って脳に走る。それは紛れもなく、現実の感覚だった。
足元に倒れていた金属製の片靴に目をやりながら、龍太郎は扉を押し開けた。軋む音と共に開かれたその先――
彼は、世界の終わりを思わせるような光景に出会った。
焼け焦げた大地。すすけた空。かつては森だったのであろう場所は、黒焦げの木々の残骸と化し、あたり一面に灰が降り積もっていた。ところどころで煙が立ち上り、赤黒い火の名残が風に吹かれて揺れている。
その地表に、無数の死体が転がっていた。
見るも無惨なほどに、鎧に身を包んだ兵士たちが血を流し、矢に貫かれ、剣に斬られ、あらゆる無残な姿で地に伏していた。騎馬に乗っていたのか、馬の屍までが転がり、その周囲に散らばる金属片や武具が戦の激しさを物語っている。
そのときだった。
「若大将、覚悟っ!」
怒声が背後から響き、振り返る間もなく――
ドシュッ!!
凄まじい衝撃が背中を貫いた。焼け付くような痛みとともに、龍太郎の体はその場に崩れ落ちた。振り返ることすらままならず、視界が地面に叩きつけられ、鼓動が急激に早鐘のように鳴り響いた。
馬に跨った男が、鋭い槍をその背に突き立てたのだ。荒々しく筋骨隆々とした男は、血走った目を剥きながら、地面に倒れる龍太郎を睨みつけていた。
「大将、こいつです。我々の部隊を次々と壊滅させた、弓の名手にして剣豪――エミリオ・ロシュマン!」
その名前が耳に届いた瞬間、龍太郎の中に強烈な混乱が走った。
(……エミリオ? 俺の名前は、中山龍太郎だ。それに、“エミリオ”って……俺が考えた名前じゃなかったか?)
痛みの中で、意識が徐々に曖昧になっていく。世界が歪み、景色が滲む。その中で、何かが侵食するように彼の思考を蝕んでいった。
大将と呼ばれる髭面の男が、部下に命じるままに、縄で龍太郎――いや、“エミリオ”の体を縛り上げる。鋭い縄の感触が皮膚に食い込み、血が滲む。さらに追い打ちをかけるように、男の鉄拳が容赦なく頬を打ち抜いた。
痛みの中で、龍太郎の意識は次第に変容していった。
自分が「中島龍太郎」であったこと。それはまるで、遠い過去の出来事であるかのように霞んでいき、代わりに、“エミリオ・ロシュマン”という存在が脳裏にくっきりと浮かび上がってくる。
(……これは、夢なんかじゃない。いや、違う。“俺は”……)
そしてそのとき――
ついに、意識の主導権は、“龍太郎”から“エミリオ”へと完全に移行した。
エミリオは、血まみれの顔で叫んだ。
「俺の命は奪って構わん!だが……村の仲間たちだけは、どうか助けてくれ……!」
声は、必死だった。胸の奥から絞り出すような叫びに、髭面の大将は嘲笑を浮かべた。
「ふざけるなッ!!」
怒号が大気を裂いた瞬間、分厚い鉄靴がエミリオの頭を踏みつける。骨が軋む音と共に、頭に圧が加わり、視界がぐにゃりと歪んだ。周囲の兵たちが嘲るように笑い、口々に罵声を浴びせる。
「てめえらのような雑魚が、俺たちに逆らうなど百年早ぇんだよ!」
仲間たちは捕らえられたのだろうか。マリアは、無事なのだろうか。もはや分からない。エミリオの心は痛みと怒り、そして悔しさでいっぱいだった。
その後、彼の頭に無理やり狼の毛皮が被せられた。毛皮は血と泥にまみれ、悪臭を放っていた。兵たちはそれを“侮辱”として用いていたのだ。まるで、狼の末路を彼に模倣させるかのように――
やがて、彼は馬に乗せられ、兵たちによって崖へと運ばれた。
夜明け前の冷たい空気が肌を刺す。その頂から、エミリオは何の説明もなく、突き落とされた。
体が宙を舞い、重力が急激に引き戻す。叫ぶ暇もなく、視界がぐるりと回転する。
そして次の瞬間――
ドシャッ!!
岩肌を裂き、草を巻き込みながら、彼の体は斜面を転がり、ついに地面に叩きつけられた。
痛みはもはや感じなかった。意識の灯は、黒い闇の中へと深く沈んでいった。
――どれほどの時が経っただろうか。
エミリオの意識が再び浮上したとき、彼は柔らかな光に包まれていた。
重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、天井には古びた木の梁が交差し、窓の外からは淡く光る霧のような陽が射し込んでいた。
草の匂いと、濡れた石の香りが鼻先をかすめ、どこか静謐な気配に満ちていた。
自分が横たわっているのは、苔むした敷布の上だった。枕代わりに置かれていたのは、乾いた藁束。空気は澄んでおり、どこか神殿めいた厳かさすら感じさせる。
――生きている。
その事実が、最初に浮かんだ感想だった。
だが、体の各所に走る鈍痛と引きつった感覚は、先ほどまでの出来事がただの夢ではなかったことをはっきりと物語っていた。
うっすらと目を開いた彼の視界に、馬に跨った一人の人物が浮かび上がった。
その姿は、あまりにも非現実的だった。
銀色に輝く長い髪が、風に乗ってゆらりと舞う。肌は雪のように白く、顔立ちは端正にして厳か。だが、その瞳には哀しみと優しさが共に宿っていた。
まるで神話の中から抜け出したかのような女性――彼女は、静かに馬上からエミリオを見下ろしていた。
「……あなたが、私を助けてくれたのか?」
掠れた声でそう尋ねたエミリオに、彼女は微笑みを湛えて頷いた。
「ああ、目を覚ましたのですね。そうです、私があなたを助けました。崖の上から落ちてきたあなたを、私は偶然見つけたのです。ところで……あなたは何者なのです? なぜ狼の顔をしているのですか?」
その問いに、エミリオは思わず顔を触れた。
指先に触れたのは、粗野な毛皮。鏡が差し出されると、そこに映っていたのは、人の顔ではなく、狼の頭部を模した仮面のような異形の姿だった。
(違う……俺の顔は……人間のはずだ)
どこか心の奥底で、かつて「中島龍太郎」であった記憶が警鐘を鳴らしていたが、それはすでに薄れゆく幻のようだった。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「俺の名は、エミリオ・ロシュマン。リヒュテイン公国のミカエル市第一部隊隊長だ。
元はただの平民だった。だが、ある日……バグミュダット公国のハルト三世が、俺の故郷を襲い、村人を虐殺した。
そして……皇后を選ぶという口実で、村の女性たちを誘拐していった。俺の恋人だったマリアも、その中にいた。
俺は……マリアを、そして村の人々を取り戻すために戦っている。ハルト三世を……必ず倒さなければならない。
だが……君は? 君は一体……その耳、人間ではないのか?」
彼の目が捉えたのは、女性の頭部に左右からぴんと立つ、獣の耳――狼のような耳だった。
銀髪の彼女は、ためらいなく自らの正体を明かした。
「私の名はソフュシア。私は“フェムシンム族”――狼族の末裔です。
人間ではありません。私たちは地底の別大陸、“ヘルヒュート”からやって来ました。10年前、私たちの民は地底国に降り立ち、王ハルト三世と手を結びました。
我らの種族は、古代から多くの兵器を創り出してきました。高性能放射砲さえも。
その兵器をハルト三世は用いて、地底国を滅ぼそうと企んでいるのです。
……そして、私の父――フェムシンムの長・デュオシュアは、ハルトと共にこの国を支配しようとしている。」
その告白は、エミリオの想像を遥かに超えるものであった。
狼族、古代兵器、そして地底大陸“ヘルヒュート”。これまで地底国すら神話のように思っていた彼にとって、それは更に深い“異界”の話だった。
エミリオは、驚きに目を見開いた。
「では……何故、そんなお前が俺を助けた?」
その問いに、ソフュシアはわずかに目を伏せ、そして感情を抑えきれないように、声を震わせて語り始めた。
「フェムシンム族全てが父の計画に賛成しているわけではありません。
私は反対です。人間とも共存できると信じています。放射砲が撃たれれば……私たち自身にも多大な犠牲が出るのです。
……父だけが、その放射砲に耐え得る特殊な肉体に変化してしまった。
私は、あなたが人間であると知っても、あなたを見捨てたくなかった。
むしろ、あなたのような人こそ、私たちの未来を変えられる気がしてならなかったのです。」
彼女の言葉には、偽りがなかった。
その真摯な目に、エミリオは何かを見た。それは信念であり、希望であり、たった一人でも抗おうとする勇気だった。
一度、深く息を吸い、エミリオは目を閉じ、そして言葉を返した。
「ありがとう、ソフュシア。俺はこの戦いを止めねばならん。マリアのために、村のために――今はもう、世界のために」
その言葉に、ソフュシアは微かに涙を滲ませながら、力強く頷いた。
「この小屋を降りた先に、大きな施設があります。そこには、あなたが必要とする装備が揃っています。
けれど今のあなたの身体ではまだ無理です。一晩休み、力を取り戻してください。」
彼女の指し示す方向には、わずかに明かりが差し込んでいた。
だが、今の彼にそれを追う体力は残されていなかった。
エミリオは、深く息をつきながら、苔の敷かれた床に横たわった。
窓の外では、地底の月と呼ばれる青白い鉱石が、夜の訪れを告げるように淡く輝いていた。
眠りの中で、彼の頭にはマリアの笑顔が浮かんでいた。
そして、燃え盛る村の光景、仲間たちの叫び、そしてソフュシアの瞳に宿る願い――
それらすべてが、交錯し、溶け合い、静かに心を満たしていく。
――やらねばならない。
これはもう、個人の復讐ではない。
それは、世界を蝕む闇に立ち向かうための使命。
彼は静かに目を閉じた。
遠く、狼の遠吠えが聞こえた気がした。
そしてその夜、エミリオは深い眠りについた。
――戦士の魂は、嵐の前の静けさの中で、力を蓄える。