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エスポル旅行記~夢幻の園~  作者: アリナス
第1章 地底旅行と異世界の夢
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序章

挿絵(By みてみん)


中山龍太郎という男は、久方ぶりに「旅」というものをしてみようと、そんな贅沢な考えに心を踊らせていたのである。というのも、彼は高校を卒業してからというもの、ほんの一年ばかりの間に社会人としての重たい責任と現実に叩きのめされ、日々の業務に追われる毎日を過ごしていた。入社してからというもの、与えられた休日は週にわずか二日。もちろんそれは決して連休ではなく、点在する平日休や土日のいずれかで、しかも仕事の疲れが全身にまとわりつき、せっかくの休日でさえもただただ眠って過ごすほかなく、娯楽らしい娯楽もままならなかった。テレビをつけても、何も頭に入ってこず、ゲームを手にしても指先だけが動いているような感覚。かつて夢と希望を抱いて入社した頃の、あの眩しい情熱など、もはやどこへ行ってしまったのか自分でも分からなかった。


 彼の高校時代は、共学のクラスで男子としては割と人気もあり、明るく過ごしていた。とはいえ、恋人ができるような華々しい日々ではなく、友達と放課後に無邪気に騒いだり、定期テストに一喜一憂したりと、いわば典型的な「普通の青春」を送っていたのである。そんな彼が社会人一年目となり、初任給を手にした時は、それはもう飛び跳ねるほど嬉しかった。だが、いざ生活を始めてみれば、家賃、光熱費、食費、交通費に加えて、見えざる敵である税金が容赦なく彼の財布を襲い、気づけば残高は常にギリギリ。自立とはかくも厳しいものかと、何度もため息を吐いたものである。


 彼は学生時代、近所のファミリーレストランでアルバイトをしていたことがあった。だが、接客というものがどうにも肌に合わず、注文を取りに行くだけで胃が痛む始末で、結局数ヶ月も持たずに辞めてしまった苦い記憶があった。


 そんな彼にもようやく訪れた束の間の休息――それが、夏休みである。もっとも会社が与えてくれた猶予はわずか七日間であったが、それでも彼にとってはまるで宝石のように貴重であった。そして、その僅かな日々をどう使うか、彼の中では既に決まっていた。気の置けない友人・峯岸涼との海外旅行――行き先は、ドイツとフランス。人生で初めて訪れる異国の地。彼は数週間前からその日を指折り数え、まるで子供のように楽しみにしていた。


 旅行当日の朝――。龍太郎は胸を高鳴らせながら、まだ朝靄の残る最寄り駅の改札前に立っていた。気温は少し蒸し暑く、空は高く青い。電車の音が遠くでかすかに響き、駅前のパン屋からは焼きたてのクロワッサンの香ばしい香りが漂ってきた。彼は事前に買っておいたクロワッサンをぶら下げながら、ベンチに腰掛け、時計を見た。集合時間はとうに過ぎている。それも二十分以上。何度もスマートフォンの画面を確認するが、LINEの既読は一向に付かない。


「まったく、こいつ……」


 思わず小さく呟いたその時、階段の向こうから、夏の陽射しを全身に浴びて、ようやく現れた男がいた。寝癖で頭が跳ね上がり、半袖Tシャツに膝上の短パンという実にラフな出で立ち。しかも片手には青く光るスーツケースを引いている。その姿は、どう見ても寝坊明けの人間そのものであった。


「あーー……おはよう。」


 大きなあくびとともに発せられた声に、龍太郎は思わず笑ってしまった。


「お前なあ……寝坊かよ!ったく、せめてLINEくらい返せよ。まだ家にいるかと思って焦ったぞ。」


「サーセン、完全に寝過ごしたわ。」


 龍太郎は肩をすくめながら、手にしていた紙袋を峯岸に差し出した。


「ほらよ、お前の分も買っといた。朝飯食ってないだろ、どうせ。」


「マジか……サンキュー!やっぱお前って優しいよな。」


 クロワッサンを受け取った峯岸は、電車の中でそれを頬張ることをすでに楽しみにしている様子だった。だが、クロワッサンの衣がボロボロと膝の上にこぼれていくのを見るたび、龍太郎は内心「やめてくれ」と思ってしまうのだった。


 二人はホームに並び、やがてやってきた成田スカイアクセス線に乗り込むと、空港へと向かった。電車の窓の外には、次第に都会の雑踏が遠のいていき、緑が増え、空港らしい案内板がちらほら見えてくる。そしていよいよ、成田空港に到着。搭乗手続き、荷物検査、出国審査と一連の流れを経て、ようやく飛行機に乗り込む。


 飛行機は穏やかに滑走路を滑り出し、やがてゴオオという重低音と共に空へと舞い上がった。窓の外には利根川が蛇のようにくねり、さらに右手にはどこまでも続く太平洋の青が広がっていた。


(利根川ですらこんなに小さく見えるのか……太平洋ってすげえな。)


 そう心の中で呟いた後、龍太郎は窓から目を離し、少し目を閉じた。旅の疲れ、日々の疲れ、すべてが一気に押し寄せるように彼を包み込み、いつの間にか深い眠りに落ちていった。


 しかしその静寂は、ある「異変」によって破られることになるのだった――。

飛行機が上空を滑るように飛んでから、どれほどの時間が経過しただろうか。龍太郎は、窓際のシートに身を預けるようにして眠っていた。静かに響くエンジンの音。時折ガタリと揺れる機体の振動。それらすべてが、まるで母親の子守唄のように、彼を深く優しい眠りへと誘っていたのだ。


 だが、その穏やかな眠りは、突如として破られた。


 「バンッ!」


 突如として、飛行機の機内に乾いた破裂音のようなものが響き渡った。それは何か物が床に落ちた音か、それとも扉が乱暴に開け放たれた音か――否、それはもっと鋭く、もっと凶悪な響きであった。


 「う……っ、なんだ……?」


 龍太郎は目を開けた。夢と現実の境界がまだぼやけている中で、彼の耳には何やら怒号のような声が聞こえてきた。そして次に視界に飛び込んできたのは、信じ難い光景であった。


 機内の中央通路を、迷彩服のような戦闘服を身にまとった男たちが歩いていた。その手には、テレビや映画でしか見たことのないような黒々とした金属――明らかに「武器」と呼ばれる代物――が握られていた。そして、その銃口は乗客の一人一人を威圧するように、無遠慮に向けられていた。


 一人、また一人。数えれば、全部で四人。いずれも無精髭を生やし、鋭い眼光をしていた。その表情からは、微塵の躊躇いも見て取れなかった。


 「動くな……! 一歩でも動いたら、頭ぶち抜くぞ……!」


 低く唸るような声。日本語であった。にもかかわらず、その口調には何処か異国の訛りのようなものが混じっていた。


 龍太郎は瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。心臓の鼓動が、自分の耳の奥でドクン、ドクンと激しく鳴り響いている。汗が、額から、首筋から、止めどなく滴り落ちていた。


 「お、おい峯岸……これ、ヤバくないか……?」


 隣の席の峯岸も、すでに目を覚ましていた。だがその顔には、あのいつもの余裕の笑みはなかった。ただただ、呆然と、目の前の現実を直視することしかできないでいた。


 「これ……マジのハイジャックじゃねぇか……」


 峯岸の声も、かすれたように震えていた。二人は小声で会話を交わしながらも、体は微動だにできなかった。下手に動けば、何が起きるか分からない。いや、分かりたくもない。


 龍太郎は、ふと昔見た映画のワンシーンを思い出していた。そう、つい先月、完結編が公開されたあのアクション映画シリーズ。主人公のマクレーン刑事が、たった一人で飛行機をハイジャックしたテロリストと死闘を繰り広げる――あの、映画の中の出来事。


 (あんなの、所詮フィクションだと思ってたけど……まさか現実で、こんな目に遭うなんて……)


 ふと、機内にアナウンスが流れた。女性の声だったが、その声には明らかに緊張が滲んでいた。


 「乗客の皆様……どうか、落ち着いてください。当機は現在、武装集団によりハイジャックされております。機内の安全を確保するためにも、全員、お座席を離れず、冷静に行動していただきますよう、お願いいたします……」


 続けて、同じアナウンスが英語、ドイツ語、中国語でも繰り返された。機内の乗客は、国際便であるため実に多国籍で、あちこちから混乱した声やすすり泣きが聞こえてくる。中には小さな子供の泣き声も混じっていた。


 テロリストの一人が、前方にいたキャビンアテンダント数名を搭乗口付近へと連行し、銃を突きつけながらこう言い放った。


 「おい、テメェら……余計な真似すんなよ。変な動き一つでもしたら、乗客に弾丸が飛ぶと思え。」


 龍太郎は自分の喉がカラカラに乾いているのを感じていた。唾を飲み込む音さえ響いてしまいそうで、動くのが怖かった。乗客全体が、張り詰めた緊張という糸に縛られていた。


 その時だった。


 「シューッ……」


 天井の通気口から、白い霧のようなものが、静かに、しかし確実に機内へと充満し始めた。最初は冷房のミストかと思ったが、その匂いは明らかに違っていた。どこか薬品のような、鼻をつくような刺激臭。


 「う……なんだ、これ……」


 「ガス……?」


 誰かがそう呟いた直後、機内の乗客が次々と眠りに落ちていった。まるで魔法にかかったかのように、一人、また一人と崩れるように意識を失っていく。峯岸も、「な……に……これ……」と呟いた直後、ガクリと首を垂れて眠ってしまった。


 龍太郎も、抗おうとした。しかし、瞼が重い。意識が溶けるように遠のいていく。周囲の音が遠くなり、世界が白く、霞んでいく――。


 「くっ……そ……まさか、ここで……こんな……」


 それが、彼の最後の思考だった。


 ――次に目を覚ました時、彼は見知らぬベッドの上にいた。白い天井。無機質な照明。聞こえてくるのは、自分の呼吸音だけだった。


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