第2幕ー4 ゲルシュカルト
ナハトの咆哮は、まるで大地そのものの呻き声のように、バルトアの森全体へと轟き渡った。厚く茂る森の梢がその低音の波動に共鳴し、葉は震え、枝はざわめき、鳥たちは一斉に羽ばたいて暗緑の天蓋を割った。森の中心で重く響いたその嘆きは、ただの獣の咆哮ではなかった。失われた子への慟哭、森を焼かれた怒り、人間に対する憎しみと恐怖、それらが混じり合い、神性を宿した一つの“呪詛”として世界を包み込んでいった。
バルトアの森——それは単なる森ではない。この地底世界における精霊の交差点、命の源流であり、幾千の神獣たちが棲まう“聖域”である。そこに満ちる霊気は、ただの生き物では到底耐えられないほどに濃く、密度を帯びていた。人間であれば、森の深部に入っただけで吐き気と幻覚に襲われるだろう。
その森の奥深く、誰も足を踏み入れることのない絶対の禁域――“デュークの洞窟”と呼ばれる場所がある。幾重にも絡み合った根が、地中深くに向かって巨大な竜の骨のように伸びており、その内部には自然と創造された広大な洞穴が横たわっていた。深さは三百メートル以上に及び、内部には複数の空洞と聖域が存在する。そこには伝説の龍たち——過去の戦争を生き延びた古代神竜の魂が漂っており、今もなお、息を潜めてその時を待っていた。
そして、その最奥にて長い眠りについていたのが、神々の中でも最古の一柱とされる存在——“デューク”である。六本の首を持ち、それぞれに異なる魂と属性を宿したこの龍神は、“生と死”の均衡を司る存在として、この地底世界における魂の秩序を見張っていた。デュークはただの神ではない。その意志は星をも穿ち、その視線は魂の最深部を見抜く。
ナハトの嘆きは、この眠れる巨神を呼び起こすに十分な響きだった。洞窟の最奥、巨大な黒曜石の台座の上で静かに横たわっていたデュークの身体が、ぴくりと動いた。六本の首がまるでそれぞれが独立した生物であるかのように、ゆっくりと持ち上がり、洞窟の空気を吸い込む。その動作だけで、洞窟の温度は数度下がったかのように感じられた。
「……ナハトよ。フェムシンムの女は……なんと申しておった?」
テレパシーとも、幻聴ともつかぬ不思議な響きが、洞窟内を震わせた。音というより“概念”が伝わるようなその問いかけは、ナハトの怒りを受け取ったことに対する最初の応答だった。
バルトアの森の外周では、神々の目覚めに呼応するかのように霧が立ち込め、鳥獣たちが鳴き止み、風すら止まった。ナハトの咆哮は、ただ仲間の豚神たちだけでなく、森の奥底で休眠するあらゆる存在を呼び覚ましつつあった。
地は震え、空気は濁り、神々の対峙の序章が、いま、確かに始まった。
ナハトは、神々しい巨体を震わせながら、怒気を孕んだ声をそのままに森の中心で咆哮を続けていた。彼の感情はもはや抑えようのない奔流となって、吐息ひとつで空気を焼き尽くすほどに膨張していた。鬱蒼とした樹海が響鳴し、周囲の神獣たちは戦慄しながらその咆哮を聞き届けた。
「フェムシンムの女の意見だ。人間共に手を掛けるなとだ。全く、どうもこうもない。私は、人間の意見など信頼しない。人間は全員排除すべき存在だ。甘ったれるな。この森を焼き尽くして、ラハトを殺した人間共を憎む。」
ナハトは、土を抉るように踏みしめ、牙を鳴らしながら吠えた。その吠え声に共鳴するように、後方に控える豚の神々たちも怒りの咆哮を上げる。彼らにとってナハトは単なる首領ではなく、生きる信仰そのものだった。神であり、父であり、守護者であるナハトの苦悶は、彼らすべての怒りに変わっていた。
その瞬間だった。地の底からまるで時空が裂けるかのような振動音が響き渡り、洞窟の闇を突き破るようにして、デュークの姿が現れた。
六本の首を振るいながら、神々しき威容を纏ったデュークは、空間そのものを圧し潰すような存在感を放っていた。その登場と共に、バルトアの森の霊気が一変する。まるで季節が一瞬で冬へと移り変わったかのような寒気が走り、周囲の草花は色を失い、音を飲み込むように静寂が訪れた。
デュークのうち、一本の首が真っ直ぐにナハトを見据え、雷鳴のような怒声を放つ。
「ナハトよ。フェムシンムの民と、人間共は手を結んだというわけか。ふざけるな。なぜ私のことを奴らへ話した。終わりなき魂。私の命が狙われるきっかけになっただけではないのか。責任を取れ、ナハト。」
その声には、かつて神々の戦で幾千の命を奪った威圧が込められていた。まさに問答無用の神威だった。
デュークが姿を現すと、周囲の植物たちが次々と枯れていった。生と死の力を司る神であるデュークの気配が森に触れたことで、生命の均衡が一時的に崩壊し始めていた。
そして、決定的な瞬間が訪れた。デュークはその六本の首のうち一本をナハトへと突き出すと、光の波動を放ちながら、生気を吸い取ったのである。
ナハトの目が見開かれ、全身から神気が奪われていく。彼は地を踏みしめることすら叶わず、その巨体を大地へと預けた。
「貴様一体、ナハトの君へ何をした??」
「ナハト様!!!!」
「許さんぞ、デュークめ!!!」
その場にいた豚神たちは、我を忘れ、怒りに飲まれてデュークへと一斉に襲いかかった。咆哮と土煙が舞い、神々の力が衝突する。
彼らは牙を剥き、炎を避けながらデュークの首に食らいつこうとするが、デュークは六首のうち二本を大きく振り回し、凄まじい衝撃波を放った。
周囲の木々が一瞬で灰へと変わり、空気が歪み、燃え上がる豚たちの肉体が宙に舞った。彼らは抵抗する間もなく、焼き尽くされた。
そして、夜が訪れた。デュークの姿は、さらに異形のものへと変わっていく。その肉体が黒く染まり、目が血のように深紅に染まる。彼は、もう“デューク”ではなかった。
その名は――ゲルシュカルト。
ゲルシュカルトは、生と死の循環を歪め、世界を監視する最終存在である。その存在が“顕現”するということは、すなわち、世界の均衡が崩れたことを意味していた。
「フェムシンムこそ、敵。我がゲルシュカルトの首を使い世界を破壊つくすなど、馬鹿な考えを起こそうとしているのは既に周知の事。神々を甘く見ていたな。ナハト。貴様にとって死とはなんだ。森の命を奪うことなど、我がゲルシュカルトからすれば、許すべき行為。恥ずべく実態だ。」
その言葉と共に、夜のバルトアの森は、深く、沈黙に閉ざされた。
ゲルシュカルト――夜の帳とともに現れたその名は、神々の中でも最も恐れられた存在であった。彼はもはや、調和の神デュークではない。夜の闇と生の腐敗を司る、純粋なる“破壊”そのものへと堕ちた姿であった。
彼が一歩踏み出すごとに、大地は呻き、根は裂け、草木は音を立てて枯れ落ちていった。空気中の霊素すら歪み、漂う風は重く淀み、森全体が、まるで死の手に掴まれているかのようだった。獣たちは巣穴に逃げ込み、虫すら息を潜めた。ゲルシュカルトが現れるということは、すなわち“世界の寿命が一歩近づいた”ことを意味していた。
彼は森を這いずるようにしてゆっくりと進んだ。その動きは獣のようでありながら、どこか機械的な規則性も持ち、自然の摂理から外れた異質な存在であることを如実に示していた。七つあるうちの一つ、最も外殻が黒く染まり禍々しい気配を放つその首からは、冷たい蒸気のようなものが漏れ出し、通り過ぎた跡に腐敗した苔と瘴気を残していった。
その姿を、バルトアの森の洞窟からじっと見つめていた影があった。それが、ロナークである。
ロナーク――黒き神竜。デュークが持つ七つの首のうち、闇と沈黙を司る一つの首から生み出された、彼の“影”とも言うべき存在である。その全身は漆黒の鱗で覆われ、翼は持たぬ代わりに重厚な背甲があり、腹部には無数の眼のような器官が埋め込まれていた。
その体高は五メートルを超え、尾の先まで含めれば十メートルを優に超える巨体。喋ることはできず、ただ咆哮によってのみ、他の神々と意思を交わすことができる。彼の咆哮は、音ではない。魂そのものを揺さぶる“感情の波動”であり、彼と接した者は、言葉でなく心で理解するしかない。
ロナークは洞窟の岩棚から、ゆっくりと身を起こし、森の闇を見つめていた。そこを這いずるゲルシュカルトの姿を見て、何も語らず、ただ低く鳴いた。その鳴き声は、まるで深海の底から湧き上がる嘆きのように重たく、遠く離れた森の奥にも届いていった。
バルトアの森の周縁、村落に住む人々は、その“鳴き声”を聞いていた。空気が一変し、夜の鳥が鳴かず、風が止み、空に浮かぶ天蓋石が淡く脈打ち始めたその夜、誰もが異変を感じ取った。
老人たちは震え、古い言い伝えを口にした。「黒き神の首が這いずるとき、夜の門は開かれ、世界は死者の沈黙に包まれる」と。幼い子供たちは泣き出し、母親の背にしがみつき、家々の扉は固く閉ざされた。
ゲルシュカルトは、夜な夜な這いずり回ることで、この森の“生と死”のバランスを強制的に整えていた。その様子はあまりにも異常で、人々から見れば“神聖”というより“異常”“恐怖”という言葉がふさわしかった。
それでも、その存在は確かに必要だった。彼が現れなければ、森の秩序は崩れ、神々同士の均衡が崩壊する。まさに必要悪。世界を維持するために必要とされた、“忌み神”である。
その夜、一人の男がその姿を目撃した。
ギアン。かつて森の鍛冶場に住まい、地底の金属を鍛え、神の剣を造る職人と謳われた老匠である。
彼は鍛冶場からふらりと出て、澄んだ夜気に火を吹きながら、偶然その“黒き影”を目撃してしまった。濃密な瘴気のただ中に、這いずる巨体、七本の首、爛々と光る眼。忘れようとしても、決して忘れられないその姿が、闇に浮かび上がっていた。
「……あれは、間違いない。ゲルシュカルトでっせ」
ギアンは呆然としながら、膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。背中の傷がズキリと痛み、彼は胸を押さえながら低く呟いた。
「ついに目撃した……中々姿を見せぬとされていたのに……来るべき、世界の終わりだ」
その声は風に溶け、闇へと消えていった。
その夜、バルトアの森には、もはや“静寂”と呼ぶにはあまりにも濃密で、禍々しい“沈黙”が支配していた。森に宿るすべての生命が、ひたすら息を潜め、ただその場に震えながら、時間が通り過ぎていくのを待っている。ゲルシュカルトの気配が、森の一点に止まることなく彷徨い続けているためだった。
その歩みは速くはない。しかし、確実に、森を包囲するように円を描きながら、何かを探し、何かを測り、何かを記録しているようだった。その存在は“神”という言葉だけでは形容できない。むしろ、星の外にある原初の“概念”が、たまたまこの世界に肉体を与えられたような、そんな畏怖すべき存在だった。
森のあらゆる神々が、その気配に気付き、各々の聖域で身を伏せていた。風神サーリス、火の神グラナート、水の精霊アストリナ……いずれも、この地の中級から上位に連なる神性たちであったが、誰一人としてゲルシュカルトの前に立ち塞がることはなかった。
「……動いたのか、ゲルシュカルト……」
そう呟いたのは、洞窟の最奥にひっそりと座していた“沈黙の女神”ミールである。彼女は戦いを好まず、光を嫌い、千年に一度しか口を開かない神だった。だがその夜、彼女の瞳はわずかに開かれていた。
「この気配、均衡が崩れようとしている。……あの者が動くということは……」
神々の間で長く語られてきた“終わりの兆し”。それは七つ首のうち“第四の首”が動いた時に起こるとされていた。今夜、まさにその予兆が動いたのだった。
ゲルシュカルトは、森の中央にあるかつての聖域——“フィルザの丘”に足を踏み入れた。そこはかつて光の神と闇の神が争ったという伝承の地であり、今でもその地には強力な霊気が宿っていた。
丘に立った彼は、七本の首を広げ、空を仰ぎ見ると、そのまま咆哮を上げた。大地が震え、天空の岩が微かに砕け、水脈が逆流した。世界が、わずかに傾いた。
森に住む者たちは、その咆哮をただ聞き、怯え、祈り、何もできず、ただ膝をついた。
かつて、この世界が生まれた時、すべての存在は七つの“律”によって支配されていた。生、死、記憶、火、水、虚無、そして“命の終わり”。その“終わり”を担うのがゲルシュカルトであり、彼が動くということは、世界にとって一つの時代が終わろうとしていることを意味していた。
夜明けは来るのか? ゲルシュカルトが彷徨い終える時、世界は果たして“次”を迎えることができるのか?
森に眠る神々、森に逃げ込んだ民、そして遥か地上の空にすら、その問いが沈黙のまま響いていた。
そしてその時、再び森のどこかで咆哮が上がった。それはゲルシュカルトではない。別の存在、いや、別の“神”が目覚めた合図だった。
“夜の神々”が、ついに目を覚まし始めたのだった。




