第2幕ー3 ナハトの嘆き、人間への憎悪
エミリオはソフュシアに導かれるまま、重苦しい森の奥へと足を進めていた。空気は冷たく湿り気を帯び、木々の間から差し込む光は薄く、まるで世界が息を潜めているかのようだった。やがて、森の向こう側に差し掛かったその時、視界の中にうごめく影が現れた。――それは、豚の大群だった。
ざっと見ただけでも、二十、いや三十匹はいるだろうか。どの個体も大柄で、体格の良さが際立ち、並みの獣とは明らかに違う異様な威圧感を漂わせていた。
「……あれはこの森に住む豚たちです。ただの豚ではないですよ。皆、神なのです。恐らく、この森の主――ナハトの神も、どこかにいるはずです」
ソフュシアが厳かにそう告げたとき、エミリオの背筋にひやりとしたものが走った。
さらに森の奥へと踏み入ると、その存在感は否応なしに目に飛び込んできた。まるで森そのものがその姿を讃えているかのように、一本の大樹の根元に、異様なまでに巨大な豚が佇んでいた。
その体高はゆうに三メートルはあった。普通の豚が持つ茶や黒の毛色とはまるで異なり、まるで金属を混ぜたような鈍く光る銀色と、淡く妖艶なピンクの入り混じった体毛は、神の名を冠するにふさわしい異形の美を宿していた。
「……そなたがナハトの神か?」
エミリオが息を詰めながら問いかけると、異形の豚はゆっくりとこちらへ顔を向けた。双眸はまるで夜の深淵のように濁り、しかし鋭く、底知れぬ怒気を孕んでいた。
「いかにも、わしがナハトの神だ。お前……人間か?」
その声は地鳴りのように重く、エミリオの全身を包み込むように響いた。ナハトの視線は鋭利な刃のごとく、エミリオの心を貫いた。
「私はエミリオという者だ。私と同じ人間が……そなた達の住処を燃やし尽くし、生態系を乱し、数多の同胞の命を奪ったことを、心より詫びたい。本当に……申し訳ない」
エミリオは頭を深く垂れ、魂の底から滲み出る言葉で謝罪した。しかしその言葉は、まるで霧の壁に吸い込まれていくかのように、ナハトの耳には届かなかった。
「お前ら人間共は、わしの……わしの息子を焼き殺した!」
ナハトの声が怒りと共に爆発する。その瞬間、空気が振動し、木々がざわめいた。
「この森を火の海にし、多くの我らの同胞を……神々を、殺したのだ!その分際で詫びるだと? ふざけるなッ!!!」
次の瞬間、ナハトは巨体を振り上げ、怒りのままにエミリオへと飛びかかった。その質量と速度を前に、エミリオはまるで人形のように吹き飛ばされた。
「ぐはっ……!」
呻き声を上げながら、エミリオの体は森に隣接する小さな池へと落ちた。泥と水が飛び散り、全身に走る激痛が、まるで肉体の悲鳴そのものだった。
「やめてナハト様! エミリオは……この人は悪くないの!お願いだから、この人に怒りをぶつけないで!」
ソフュシアが必死に制止の声を上げたが、ナハトの怒りは容易には収まりそうにない。
「我が息子は焼かれた。そして、あの呪われた存在――“デドアラ神”へと変貌してしまったのだ。あれに成り果てれば、二度と元には戻れぬ。黒き触手と炎の呪いに取り憑かれ、死に至るまでただひたすら暴れ狂うだけの、破壊の化身となるのだ!」
「……なんだと? まさか、あの“化け物”のことか……?」
エミリオの記憶が一気に甦る。あれは、二ヶ月前のことだった。彼がとある村を訪れた際、森の奥から這い出てきた異形の存在があった。無数の黒い触手を蠢かせ、蜘蛛のように這いずり、村を襲い、破壊し、焼き尽くしたあの怪物——あれこそが、ナハトの言う“デドアラ神”だったのか。
その化け物は、村の人々に“タタリ神”と呼ばれていた。暴れ回る末に、エミリオが放った矢がその目に突き刺さり、ついには崩れ落ちた。溶け崩れる触手の中から現れたのは、弱々しく、苦しげに喘ぐ一頭の豚だった。そして、最後にこう呟いたのだ。
「……覚えていろ、愚かな人間どもよ……」
それが、息子だったというのか。あのナハトの……。
「ナハト殿……私は、そなたの息子を殺した。だから、殺すなら私を殺せ」
エミリオの声は低く、しかし凛としていた。
「私は、村を襲った“デドアラ神”を討ち取った者だ。だが……その存在の背後に、そなたの悲しみがあったとは知らなかった。頼む、他の者には手を出さないでくれ……」
沈黙が流れた。ナハトの瞳には未だ怒りが燃え続けていたが、どこか、悲哀も宿していた。
「このまま七眷属の奴らを放置すれば、またこの森は燃やし尽くされる。そして、神々は滅びるだろう。だから……私が、七眷属を倒す。だから……ナハト殿。どうか、これ以上絶望に飲まれないでくれ。あなたまで、“デドアラ神”になってしまっては……困るのだ」
ナハトは牙を軋ませながら吼えた。
「人間には、薄々協力などできぬ!まだ……貴様を信用したわけではないぞ。貴様のような薄っぺらい言葉を信じたばかりに……我が息子は、命を失ったのだ!」
すると、横にいたソフュシアが前へ出て、毅然とした声で語った。
「ナハト様。ラハト様が亡くなった悲しみは分かります……ですが、今は人間を憎んでいる場合ではありません。この森にいらっしゃる“デューク様”を、お守りしなければなりません」
その言葉に、ナハトは怒りの咆哮を上げた。森中に轟くような凄まじい鳴き声が響き、他の豚たちも共鳴するように嘶き始めた。地面が震え、枝葉がざわめき、森全体が怒りの波に飲み込まれる。
「貴様らフェムシンムに、我が苦しみが何が分かると言うのだ!お主は何者だ!なぜ、人間ごときの言葉を鵜呑みにする!デュークを守ると言うのならば、わしが自ら……説得に向かおう。……だが問おう、貴様はフェムシンムを裏切ったのか?」
ナハトの問いに対し、ソフュシアは一歩も引かずに答えた。
「はい。私は裏切り者です。フェムシンムの長であるデュオシュアの暴挙に反旗を翻したばかりに、組織を追放されました。けれども私は、信念に従い動いています。ナハト様、私の意見を全面的に信じてほしいとは申しません。ただ、考慮だけは……お願い申し上げます」
ナハトはしばし黙し、やがて低く唸るように言葉を返した。
「……分かった。考えておこう。ただし、完全に信用したわけではない。それだけは、忘れるでないぞ」
そう言い放つと、ナハトは大地を揺らすような巨大な咆哮を響かせた。それに呼応するように、周囲の豚神たちも次々と咆哮を上げ、森の空気は、まるで戦の予兆のように張り詰めていった。
やがて彼らは一頭ずつ、背を向けると、森の奥深く、バルトアの深淵へと姿を消していった。
その背中に宿る怒りと悲しみは、森そのものに染み込むように、静かに、しかし確実に残されていた。




