親愛なる貴女へ
寒い寒い夜が、続いていますね。今この場所は、まるで月明かりに濡れる独房の浮遊感とでも言うべき閉閑とした空気が佇んでいます。
貴女が去った後、私がこの場所に留まっているのは、別に貴女を否定したいからでも、貴女に憎しみの念を抱いているからでも、貴女に欲情しているからでもありません。
……嗚呼、こんな言葉を使うと、貴女は私のことをまた勘違いするのでしょうね。私は官能小説家ではありませんし、電車でスポーツ新聞を広げるなんてこともいたしません。私が表現したいのは、童貞の抱く夢でもサラリーマンの不満でもないのです。
私のことを卑しいヒトだと言うのであれば、しかし私はそれを仕方のないことだと受け止めるでしょう。理解してもらえるとは――もちろん理解してほしいという気持ちはありますが――思っていませんから。
私の書く小説と、官能小説や同人誌はまったくをもって異なるのです。性欲を満たそうと思うのであれば『く、くやしい・・・ビクビクッ』とでもオンナに言わせ、即効性のある媚薬を飲ませればよいのです。もっとも、私は三点リーダをきちんと使えないような文章を書くつもりは毛頭ないですし、そんな媚薬が本当にあるとは思っていませんけれど、ね。
私は貴女と出会い、そしてそこからエロスについて知りました。性欲とはかけ離れたところにある、美としての性を貴女は私に教えてくれたのです。裸婦の彫像に興奮して自らを慰めようとはしないのと同じ、いやそれ以上に崇高な美を私につきつけたのです。
私は『美』を表現したいと願うようになりました。美しいことは罪であると同時にそうでなくてはならないものなのです。讃え、敬い、この世界に発信し続けなくてはならないという強迫観念のような縛りを、私は甘受しました。それ以来、私の作風はすべて美に通ずるものに仕上がるようになったのです。
私の言いたいことが分かりましたか? 少しは分かってもらえたのであれば、私はすごく嬉しいです。初めて貴女と体を重ねた夜にも負けない悦びが、私の海馬をくちゃくちゃに溶かしてしまいそうになります。あの日、貴女は私と三度交わり、十回もの絶頂に達し、数えきれないほどの喘ぎ声とひっかき傷を私の胸に刻みつけましたね。せっかく整えてあげたシーツや掛け布団も、気がつけば床で無価値なオブジェクトとして流されていたのを、貴女は覚えていますか?
貴女はあの時、ひどく酔っていた。普段はスクリュードライバーを一杯飲んだだけで顔を赤らめる貴女が、ショットグラスで私の大好きなウォッカを何回も呷ったのです。ライムすら噛まずに。ひどく不自然な貴女は『私のことを抱きますか、それとも私を捨てますか』と闇に怯える少女のような瞳で私を誘うのです。私の返答も待たずに、貴女は私の手をひいて、自分の部屋へ、そして貴女の真っ赤なシャツの内側へと導いたのです。
その時の貴女と言ったら!
淫ら、という表現とは違う。そんな野蛮で獣のような姿などとはまったくの無縁。かといって、堕天使の微笑だとか天使の顔をした悪魔なんて気取った言葉もおかしい。可笑しすぎて笑うことすらできません。
――貴女はその日、初めて『貴女』になれた。
私が貴女の血管が浮かび上がる白い肌を見て思ったのは、その一言につきます。貴女の正体は、貴女とは違う別殻に閉じ込められていた真珠なのです。私が解放してあげた、などという自惚れはいたしません。しかし貴女はウォッカに酔い、自分の不幸から悲劇のヒロインであると酔い、汚い都会の空気に酔った。何もかもが、すべての事象が貴女をそこまで酔わせたのでしょうね。私はさながら、貴女がトリップしすぎないようにこの世へ引きとめておくための麻薬だったのかもしれません。
麻薬でしか生を繋いでいられないなんて。しかし私を含めた誰もが貴女を責めることはできないでしょう。貴女は悲劇のヒロインを演じてもいいのです。誰から罵られようと、誰から暴力を振るわれようと、貴女は自分のその境遇を嘆かなくてはいけなかったのです。
良識のある人間ならば、貴女のことを異端だと忌み嫌うのは間違いではありません。しかし貴女にとって、そして私にとってその『異端』という言葉はある一種の褒め言葉ともいえましょう。なぜならば、貴女は自らのことを異端であると自覚し、受け入れていたのですから。私はそのことを知っていましたし、それを否定することもありませんでした。その異端であるという事こそが、貴女をどんな美女よりも輝かせ、私を魅了してやまなかったのです。
狂っているのではありません。正気を失っているわけでもありません。異端であるだけ、それだけなのです。
皆は貴女を今まで以上に迫害するでしょうか。私はそれが怖くて仕方がありません。陰口を叩くのは彼らの得意技なのです、貴女がいなくなった今、貴女のことを中傷しようとも誰も止めることはいたしませんし、貴女が悲しむこともないのです。
貴女の温もりが、まだこの手に残っています。ここは、本当に寒い。でも、貴女がここにいて私と性交をし、私を愛撫し、私をその華奢な体の中で受け止めた刹那の煌きは、きっと消えることはないでしょう。永遠に、永久に。
貴女がここにいた、それは事実なのです。事実は否定することなどできませんし、歪曲させることすらも許されないのです。
そこに存在する。それ以上もそれ以下もない、絶対的な意味。
私が貴女を愛している、それも事実。愛している。愛してしまっている。この私が、貴女を愛してしまった。
貴女のどこに惹かれたのか、と私に聞くのは野暮というものです。今までの文章の中に、何度『貴女』と語りかけたのか、それで察していただければと思います。
私が惹かれたのではないのです。貴女が私を惹かせたのです。私は逃げなかった。代わりに受け止めることもしなかった。貴女がしたいようにし、貴女のなすがままに、現実という失笑劇の中で操り人形となっていたのです。貴女はその資格があった。貴女だけは、この世の中で私のことをどうにでもしてよい存在なのです。それが、貴女に強いられた運命の代償として手にいれた、貴女のささやかな喜びの時間だったのです。
嗚呼、貴女。貴女は今、どこで何をしているのですか。私はこの何もない部屋にただ一つ残された手鏡を覗きながら、貴女の姿を探すことしかできないのです。私の目には映らない貴女。もしかしたら鏡の向こうの世界で貴女がまた一人で泣いているのではないか、と手鏡をいろいろな方向に向けるしかできないのです。
いっそ、この手鏡の中に貴女を閉じ込めておけばよかったのかもしれませんね。私だけが貴女を独占できるなんて梵雑な想いではなく、そうすることによって、貴女に確かな居場所ができることを、私は心から喜ぶのです。
『居場所がないの』と貴女は私と初めて出会った時にそう呟いて泣いた。昔から強制的につくらされていたのであろう、偽りの笑みをその顔にたたえながら、貴女は一筋の涙を頬に伝わせたのです。美しくも、儚い。綺麗なのに、どこか私を苦しめてやまない、そんな表情でした。
だから私は、貴女のその腰でばっさりと切られた墨染色の長い髪を、優しく撫でてあげたのでしたね。貴女はそんな私の肩に額を押しつけ、肩を震わせることもせず、一人で涙をこぼしたのでした。
私はその瞬間、初めて他人に対して憎しみというものを覚えたのですよ。苛立ちを超えた、確かに『殺してやりたい』と願ったことを、貴女はついぞ知ることはありませんでしたね。私がいる、目の前にいるというのに、貴女は私などはじめからおらず、顔を委ねるのにちょうどいいモノがあったとでも言いたげに、私を無価値と化したのです。私をそのように扱ったのは、貴女が初めてでした。最初で、おそらく最後でしょう。貴女のような人に、この先出会えるとはとても思えません。貴女はこの世界でたった一人の存在。貴女が存在したという、たった一つの事実。
だからこそ、私は貴女の玩具となったのです。貴女なら私を制御してくれる、私をどうにかしてくれると思ったのです。
しかし、貴女は結局、私を置いてどこかに行ってしまった。行先も告げず、体を拭うこともせず、さっさと服を着ると、私の持っていた薬を手に、部屋のドアから遠いところへと旅立ってしまった。
貴女はあの薬が何かを知っていたのですね。そして、その薬が目的で私に近づいた。貴女は私のことを知りつくしていたのです。何故知っていたのかは聞きません。聞いたところで、貴女が帰ってくることはないのですから。
そう、貴女はもう戻ってこない。さよならさえ言わずに消えたのに、私はもう二度と貴女と会えないことを悟っていました。
あの情熱的な性交は、私への餞だったのですか? それともいざ旅立とうとする自分を奮い立たせるための儀式だったのですか?
問いかけても、貴女は返事をしてくれない。そもそも私の問いに耳を貸そうともしないのです。本当に困った人ですね、貴女は。『楽しいですか? 私はとても楽しいです。元気ですか? 私はとても元気です』そんな中学英語のような単調なやりとりすらなく、貴女は沈黙を貫くのです。
この街の、いや、この世界のどこかに、貴女の骸はあるのですね。人知れず、貴女は誰にも見送られることなく逝ってしまったのです。私がその手で下してやろうと思っていた貴女の境界を、貴女は自らの手でひいてしまったのです。
最期まで、貴女は私のしたいようにさせてはくれなかった。貴女の死に顔も、きっと美しいものなのでしょう。屍体性愛の趣味は持ち合わせておりませんが、私は貴女のその姿を思い浮かべると胸が高まって仕方がないのです。貴女は、もはや私を離してはくれない。私が天国にいこうが地獄にいこうが、きっと貴女のもとへといざなうのでしょうね。
しかし、私は死にたくない。死が怖いのです。貴女の屍体に魅入られることはあっても、私自身が死ぬということに関してはひどく怯えてしまうのです。
貴女は矛盾していると思うでしょう。そういえば、初めて貴女が私の小説に対する感想を言った時、第一声が『矛盾していますね』でしたね。その時と同じような冷たさで、貴女は言い放つのです。矛盾している、と。
けれども、それは矛盾ではないのです。いいえ、むしろ死が怖いからこそ貴女の死に顔が素敵に思えるのです。羨望の眼差しを向けてしまうのです。私は死にたくない。死の先が怖いのではなく、死ぬという現象自体がひどく厭なのです。どうしても、たまらなく。死の直前に苦しみがあるとか、そういう話でもないのです。
ただ、怖い。怖いのです。私は永遠に生きたい。生き続けたい。死とは違う道を歩んでみたいのです。
そのために作り出したのが、あの薬だったのに。貴女はそれを持っていってしまった。
貴女は一つ、間違いをおかしました。あの薬だけでは、おそらくひどい苦痛が貴女を襲うことでしょう。今私が手にしている薬、これと併用して飲まないかぎり、安らかな世界は訪れないのです。
貴女はもう薬を飲み、そして苦しんだことでしょう。しかし最後の形相は乱れたそれではなく、静かに眠るような逝き様なのです。私はそう信じています。貴女には、それが似合っている。
貴女に読ませてあげたかった小説も、もう見せてあげられない。貴女をモチーフとして、私の愛が世界を壊してしまわんばかりに綴られた愛の詩。もう読ませてあげられない。この小説を読んだ人は、きっと作者のマスターベーションであると一蹴するに違いありません。
これは、愛の物語なのです。純愛物語なのです。貴女一筋のこの物語を純愛と言わずに、何を純愛物語と言うのでしょうか。レイプされて妊娠して彼氏が死んでも想い続けるような小説が『純愛』と謳われている世の中においてこそ、私のこの『マスターベーション』は『純愛』と成りえるのです。誰も否定はできません。なぜなら、これは事実なのですから。
貴女は結局、私を理解することはなかった。私も貴女を完全に理解することはできなかった。それだけが名残惜しい。しかし、私にまたがり喘ぐ貴女は、完全に一人の女性でした。私のことだけを想ってくれた、唯一の瞬間でした。その時間があるというだけで、私は幸せです。私が貴女の中に介在したことがある、それだけで、いいのです。ありがとう。私は今この場にいない貴女にむけて、感謝の気持ちを風に乗せて贈ります。
嗚呼、本当に寒い。私はそろそろ休もうと思います。貴女が持っていかなかったこの薬を飲んで、私はいつまでも眠り続けましょう。この手に残る貴女の温もりが、幻だったのではないかと疑いはじめる前に。
いつか風化して、私を死が襲うかもしれません。しかし私はそれにすら気づかずに、いつまでも貴女のことを想い続けましょう。いつまでも、いつまでも、永遠に、永遠に。
貴女が私の中でいつまでも永遠であるように、私は私自身を永遠に昇華いたします。
薬が私の喉を、食道を通ります。もうすぐ、別れの時間がやってくるでしょう。
この小説を読んだ方、もしもいらっしゃいましたら、どうか私たちを静かに眠らせてください。そして、この小説は頭のいかれた小説家がマスターベーションのために書いたものだと思ってくださって結構です。
ただ一つ、私が思うのは、こんなマスターベーショナリズムに満ちた小説にも、表現したいという作者の願いが込められていることを、忘れないでください。この作品は私の愛する彼女に向けて書きました。しかし同時に、これを読むかもしれない第三者、つまりあなたに向けてもメッセージを発信しているのです。
嗚呼、意識が遠のいてゆく。私がペンを握っていられるのも、あと少しのようです。
ねえ、貴女。貴女の人生は幸せだったのかと問うことはありませんが、『私』と出会った貴女は、いったい何を目指し、何のために生き、何を成そうとしていたのですか。
そう、嘆くのならば、これからいくらでも嘆けばいいのです。さようなら。愛しい貴女。どうか私を、導いてください――
この作品は大学卒業後にObとしてサークル誌に寄稿したものです。
村上春樹さんや嶽本のばらさんが好きだった私が、私なりの狂気を文字におこして表現をしてみました。
作中の最後でも触れておりますが
『ただ一つ、私が思うのは、こんなマスターベーショナリズムに満ちた小説にも、表現したいという作者の願いが込められていることを、忘れないでください。』
たとえ狂人であったとしても、自分に酔いしれている人間であったとしても――どんな作品にも何かを表現したいという気持ちが込められているということ。
このことを最後に伝えたく、伝わればいいなぁと思っています。
お読みいただき、ありがとうございました。
また次の作品も読んでいただけますと幸いです。
感想などお待ちしております。