家庭教師、敗北を認める
――端的に結論を言ってしまうのであれば。
それは予想していたどんな結末とも違っていた。
だがそれは、ある意味で当然のことだろう。
呆然としながら空を見上げることになるなど、誰が予想できるというのか。
「ぬぅ……先生、幾らなんでも手を抜きすぎではないか? とりあえず軽い手合わせ、とは言ったものの、これでは軽くですらないのである」
不満に溢れた声に視線を向けてみれば、そこにあったのは声そのままの顔だ。
唇を軽く尖らせ、ソーマがこちらを見下ろしている。
しかしカミラが何より驚いたのは、そこにこちらを侮辱するような色もなければ、得意げに誇るようなものも感じなかったことだ。
つまりソーマは心底、本音でその言葉を言っていたのである。
だが手を抜くなというのは、無茶な話だ。
大人と子供とかいう以前の話である。
手を抜かないという選択肢などが、思い浮かぶはずもないのだ。
とはいえ、その結果がこれ――地面に寝転がるという、無様な姿を晒すことである。
だから、カミラはそれを受け入れ……笑みを浮かべながら立ちあがった。
「はは、いや、悪いな……だがソーマは身体を動かすの自体が久しぶりな上、未だ筋肉痛は治りきってもいないんだろ?」
「む、確かにそれはそうであるが……それでもさすがに今のはないのである」
「そうか……それは本当に悪かった」
今口にした言葉は、嘘ではない。
そう思ったのは事実だし、それがさらに手を抜く一因となったのも事実だ。
だがそれを余裕を持って――否、余裕を装って口にしたのは、ただの見栄と意地によるものであった。
「んじゃ、今度こそしっかりと手合わせすっか」
「うむ、頼むのである」
そう言ってソーマが堂々と構えるのを、つい先程は、微笑ましさすら感じて見ていたものだった。
しかし今は違う。
余計なものなど全て投げ捨て、全力で見つめる。
それが必要だということを、悟ったのだ。
そもそもこんなことになったのは――カミラとソーマが手合わせすることになったのは、カミラが軽い気持ちでそれを口にしたからであった。
ソーマの日課が素振りということを知り、さらにそこに多少の筋の良さを感じたための、提案であったのだ。
正直なところ、軽く遊んでやるつもりで……だがそのためには、得物も、体格も、スキルも、その全てに覆しがたい差があった。
まず得物の時点で明確すぎる差がある。
カミラが持っているのは、身の丈を超えるほどの斧なのだ。
まあカミラの背がそもそも低いということもあるが、それを差し引いてもそれなりの大きさのものである
しかも刃を潰してすらいない、人を簡単に殺し得る道具なのだ。
対するソーマが持っているのは、そこら辺で拾ったような棒きれである。
その二つがぶつかり合った結果どうなるかなど、考えるまでもないだろう。
そして体格は見たままで、スキルに至っては、ソーマには何もなく、カミラは斧術の上級だ。
大人と子供どころか、象とアリとですらまだ可愛げがある。
上級とは、一流のその先、俗に天才などと呼ばれるものしか至ることの許されていない領域だ。
様々な才能を持つ者が集まる学院、その最高峰ですら、年によっては一人も持っているものがいないことがある。
そんなレベルの代物なのだ。
だからこそ、カミラが全力で手を抜いたのは当たり前のことであった。
手を抜くことにのみ全力を注ぎ――その結果が、あれだ。
それを偶然などと考えるほど、カミラは傲慢ではなかった。
しかし同時に、自負もある。
上級のスキルを持つ者として、次も負けるわけにはいかない。
子供だとか、棒きれだとか、筋肉痛だとか身体がなまってるだとか、スキルがないとか。
その全てを忘れ、ソーマを自分と対等以上の剣士だと想定し、見つめる。
故に。
その一撃は本気の、殺してしまっても構わないと思った一撃であった。
――斧術上級・武芸百般・怪力乱神・心眼:フルスイング。
「――っ」
直後に感じたのは、鈍い手応え。
何かを叩き斬ったのだということを、自らの手が伝え――だから、その場から飛びのいた。
「――ぬ」
漏れ聞こえた声と共に、カミラは自身の居た空間が薙ぎ払われたのを目にした。
だがその時には既に半歩後ろに着地しており、その手には叩き斬った地面から引き抜いた斧が構え直されている。
――斧術上級・武芸百般・怪力乱神・心眼:フルスイング。
一呼吸吐く暇もなく踏み込み、甲高い音が響いた。
「はぁ……!」
「――ふっ」
木の棒と鋼の斧がぶつかり合い、何故そんな音が響くのか、という疑問が一瞬頭を過ぎるが、続く斬撃に置き去りにする。
そもそもそれを言うならば、初撃が普通に地面に叩き落とされた時点で疑問まみれだし、そんな余計なことを考えている余裕は最初からない。
ただ最善の動きだけを思考し、試行し、ひたすらに斬撃音だけがその場には響き渡る。
――斧術上級・武芸百般・怪力乱神・ウォークライ・乱舞:大切断。
一合、三合、八合……二桁より先は、思考が介在する余裕すらもなかった。
考えるよりも先に、腕が振るわれ……それを客観的に見ている自分が告げる。
こうしてまがりなりにも続けることが出来ているのは、リーチの差だな、と。
単純な話だ。
腕の長さ、足の長さ、得物の長さ。
その全てが、カミラにのみ有利を与える。
ソーマで届かないところがカミラは届き、ソーマが三歩必要なところを、カミラは一歩で済む。
卑怯だとかそういう話ではなく、それはただの事実であり……そして。
それがあるからこそ、一見互角に打ち合えているように見えているというのも、事実であった。
それはどれだけ取り繕ったところで無意味だ。
だってカミラの本能と理性の両方が告げている。
目の前の少年の剣技は、自身と同格だと。
否、それどころか、少しずつ離され始めてすらいる。
より速く、より正確に。
こちらの手が、明らかに遅れ始めていた。
その意味するところを考えている余裕はない。
あくまでも幾つかの有利な点から、互角に見えているに過ぎないのだ。
全てが同条件……いや、そのうちの一つでも埋められてしまったら――
「しっ……!」
「っ……!?」
そして言っている間に、あっという間にその一つを潰された。
ソーマがやったことは単純。
ただ、カミラの速度の倍で動いたというだけだ。
だがそれだけで、足の分のリーチが消え、それだけで十分だった。
「もらったのである……!」
「しまっ……!」
半歩分だけ、挙動が遅れる。
負けじと腕を振るうが、明らかに遅く――
「――あ」
瞬間、ぽーんと、ソーマの手から棒がすっぽ抜けた。
その行方を呆然とソーマは目で追い……しかし呆然とするのはこっちも同じだ。
打ち落とされる、受け流される、受け止められる、そもそも間に合わない。
そのどの展開が来ても大丈夫なように、構えてはいたが……さすがにその先になにもなくなる、というのは想定していなかったのだ。
無様に空振りすると、勢いを殺しきれずに体勢を崩し、そのまま倒れこんだ。
その先に居るソーマへと、である。
「――むぎゅっ」
「ぐへっ」
乙女の口から漏れてはいけないような声が漏れた気がするが、この場には子供しかいないからセーフ。
そんな戯言を考えながら、カミラは押しつぶしたソーマへとジト目を向けた。
「おまえなぁ……」
「いや、今度は我輩が失敬したのである……面目ない」
「直前に不自然に腕の動きが止まったが、あれはもしかして筋肉痛か?」
「んーまあ、似たようなものである。気が散ってしまったことに違いはないであるしな」
「治りきってないってのに無茶すっからだ……まあ、言いだしっぺの私が言えた義理じゃないだろうけどな」
そんなことを言いながらも、ひっそりとカミラは安堵の息を吐き出していた。
今のはソーマがやらかさなければ、間違いなくカミラが一本取られていただろうからだ。
それは色々な意味で、情けなすぎる。
たとえカミラ自身としては、負けを認めていようとも、だ。
それでも家庭教師として、何よりも斧術の上級スキルを持つ者としては、本気でやってスキルを持たない者に負けたなど、そんな姿を見せるわけにはいかないのである。
「ぬぅ……だがようやくなまった身体が温まってきたのである」
「そうか、それはよかったな……私はもう付き合わんけどな」
「何故であるか……!?」
「気分転換って言っただろ? そろそろ戻らんとな」
それは一応、事実ではある。
あるが……まあ要するに、ただの勝ち逃げであった。
「むぅ、勝ち逃げとはずるいのであるが、仕事となれば仕方ないのである……」
「悪いな」
ソーマは明らかに不満顔であったが、今カミラの仕事と言えばそれが何をするか分かるから、言うに言えないのだろう。
実際カミラが気分転換を必要としていたのは、ソーマの家庭教師がらみのことであったので、それは正しい。
「……次は絶対勝つのである」
「ま、機会があれば、な」
言いつつも、カミラはその機会を作るつもりはなかった。
負けると分かっていてやる理由など、存在しないからだ。
大人げないと言いたくば言うがいい。
カミラはこれ以上無様な姿を、生徒に見せるつもりはないのであった。
……或いは、カミラがもう少し若ければ、分からなかったかもしれない。
何クソ負けるものかと、自分も鍛え直したかもしれない。
だが今のカミラに、そのつもりはなかった。
自身の限界などとうに理解しているし……何よりも。
ソフィアの言葉は、贔屓目でも何でもなかったのだと、そう確認を持てたこの少年に、張りあうよりも様々なことを教えないと、そう思ったからだ。
「……こんなことを思うなんて、私も歳を食ったってことかねえ」
「何か言ったであるか?」
「独り言だから気にすんな」
「そうであるか……ところでそろそろ我輩の上から退いて欲しいのであるが? いい加減重いのである」
「ああ? ……どうやら、まずは女性の扱い方から教える必要がありそうだな?」
「重い重い、潰れるのである……!」
「私はそこまで重くねえよ……!」
そんなことを言いつつ、口元が自然と緩む。
今までだって、やる気がなかったわけではない。
しかしそれはどちらかと言えば、負い目からのものである。
義務感に近く、故に性格的な意味で相容れづらいものではあったのだが……どうやらこれからは問題なさそうだ。
そう思い、カミラはその口元を、さらに吊り上げるのであった。