邪龍の最期
その姿を見た時、ソフィアは夢を見ているのだろうと思った。
随分と自分に都合のいいものを見ているのだと、そう自嘲交じりに思ったものである。
だがいつまで経っても夢は覚めることなく、どころか、繋いだままの手から伝わるぬくもりが、これは現実なのだと訴えていた。
そんなことはあるはずがないのに。
だって助けられる理由がない。
理解はしてくれていただろうし、もしかしたら納得もしてくれていたのかもしれない。
でもそれは、負の感情を抱かないという理由にはならないのだ。
自分達を許す道理がない。
どれだけ自己満足を重ねたところで、それは償いにすらならないのである。
辻褄が合わない。
合っていいわけがない。
むしろ見捨てられ、無残に死に絶えてこそ、ようやく合うはずだろうに。
けれどいくら否定したところで、それが消えることはなくて。
ソフィアはその光景を、ただ眺めていた。
一度は後ろを向いたクラウス達であったが、気が付けばいつしか前を向き、その光景を眺めていた。
それはベリタス王国側の兵達の心が完全に折れてしまったのか、こちらを侵攻しようとする様子をまるで見せなかったからというのもあるが……一番はやはり、単純に気になったからだろう。
息子と、龍との戦いを。
「……凄い、わね」
「ああ……本当にな」
ソフィアの口から漏れた言葉に、クラウスは感嘆交じりに頷く。
視界を走る剣閃は、瞬きをしてしまえばあっという間に見失ってしまいそうで、その残像を追うのが精一杯だ。
しかもそれは、こうして離れているからこそ僅かなりとも捉えられるのであって、至近距離でそれを受ければ何が起こったのかも分からずに斬り刻まれてしまうに違いない。
剣の王などと呼ばれるようになって、早十年以上。
今更剣の腕で絶対に敵わないと思う相手に出会うなど、正直想像すらしたことはなかった。
……いや、それは嘘か。
多分クラウスは、いつかそんな日が来るのだろうと、漠然とではあるが理解してはいたのだ。
ただ、それが今日この時だとは、思ってもいなかったというだけのことで。
「正直、まさかここまでとは思ってもみなかったわね……幾らなんでも、あの龍と単独で戦えるなんて」
「……知らなかったのか?」
それは意外であった。
ソフィアのことだから、何だかんだ言いながらも大体のところは把握しているものだとばかり思っていたのだが。
「ええ、知らなかったわ。知ってはいけなかったもの。もっとも、魔天将の一人を倒したとは聞いてはいてもここまでとは想像出来なかったのだから、同じではあるけど」
「魔天将を……? 何だそれは……? 今初めて聞いたぞ?」
「それはそうよ。公的には存在しなかったことだもの。報告出来るわけがないわ。まあ今日来たのは、本来それを教えるためでもあったんだけど」
「ふむ……なるほど」
魔天将を倒す。
それはかなりのビックニュースだ。
世界規模では勿論のこと、この国でさえその影響力は免れないだろう。
例えば、それを成した者がスキルを持っていなくとも、例外的に認められるだろう程度には。
ただしそれは同時に、魔族との戦争を大々的なものとすることを認めることでもある。
ならばその状況で何を優先とするのかなど、今更言うまでもないことだろう。
そして実際にソフィアは、それを実行した。
息子を表舞台に立たせる道ではなく、再び国を優先したのだ。
それはきっと責められてしかるべきことだろう。
いや、責められなければならないことだ。
だが。
クラウスだけは、その判断を支持しなければならなかった。
「それは少し、残念な気がするな。そういった話は、もっとゆっくりしながら聞きたかったものだ。まあ、疑う必要がなくなったのだから、これはこれでよかったのかもしれないがな」
「……よく言うわ。別にこの光景を見なくても、信じてたくせに」
そこで肩をすくめたのは、実際その可能性が高かったからだ。
この光景がなかったところで、おそらくクラウスは何の疑いもなくその話を信じただろう。
クラウスはソーマにそれだけの才能があるのだということを、知っていたからだ。
それはスキルのことを知ったところで、変わることはなかった。
スキルを持っていないはずなのに、自分よりも遥かに強い者のことを、クラウスは知っていたからである。
だからこそ、クラウスはそこに疑いを抱く理由こそがなく……故に。
クラウスはそれを知った上で、ソーマの存在が公的に消滅してしまうことを認めたのである。
とはいえ、それはクラウスがソフィアの夫だから、などという理由によるものではない。
それが妥当だと判断したから……否。
そうしなければならない義務が、クラウスにはあったからだ。
実際の実力や才能などは、何の関係もないのである。
スキルがあるか否か。
それだけが全てなのだ。
少なくとも、クラウス達はそれを否定してはいけないのである。
それが、この国を建国し、スキルに傾注させるよう仕向けた者達の一人としての、義務であるが故に。
言い訳をするつもりはない。
その必要があり、それが最善だったとはいえ、選択したのはクラウス達なのだ。
その責任は取らなければならなかった。
子供にその責任を押し付けるようなまねをすることになってしまったとしても。
それを嘆き、悲しんでも。
そこから逃げることだけは、許されないのだ。
「まあそれでも正直、お前には負けると思うがな」
「え……何が?」
「一目見ただけで、お前はあれが誰なのかが分かってただろう? 俺が分かったのは、お前の反応を見てからだったからな」
そう、あのあからさまに怪しい格好をした人物のことを、クラウスが息子だと認識出来ている……認識したのは、ソフィアの反応を目にしたからなのだ。
あの瞬間、クラウスはそれに気付くよりも先に警戒をした。
何故か警戒心が起こらないことに疑問を抱いたが、それよりも理性を優先したのだ。
しかしそうしながら、ソフィアがまったく警戒していないことにも気付き……その目を見た時に全てを理解したのである。
その目を向ける相手が誰なのかなど、考えるまでもなかったから。
「ああ……それは単純に私の方が接していた時間が長かったからでしょう? ここ数年に限らず、あなたがあの子とまともに過ごせていた時期なんて、三年もなかったじゃない」
「確かにそうだが、それは――」
それ以上の言葉を口にしようとし、だがそこでクラウスは口を閉じた。
言ったところで、何の意味もないからだ。
お前が母親としてきちんとやれていたからじゃないか、などというのは。
今がそう出来ていない以上、ソフィアにはただ傷を抉る行為でしかあるまい。
「それは?」
「……いや、何でもない」
「……そう」
何を言おうとしていたのか、ある程度察しがついたからだろうか。
ソフィアは何も言わずに前を向き、クラウスもそれにならうように前方へと視線を戻す。
相変わらず続いている戦闘は、ソーマが優勢なように見えた。
断言出来ないのは、確かにソーマは押しているものの、相手は龍だからである。
龍が本来単独で打倒できるような相手ではないというのは、改めて言うまでもないことだろう。
何せまず、身体の大きさが違う。
それだけならば的が大きいだけだが、当たり前のように龍はそうではない。
それだけの生命力を持ち、攻撃と防御を誇るのだ。
その鱗は万の兵の一撃を以ってしても傷つけることすら叶わず、その一撃は余波だけで兵達を殺すに余りある。
よしんばこの攻撃を凌ぎ傷を付けることが出来たとしても、それは瞬く間に再生されてしまい……どれだけ繰り返したところで、それは同じだ。
何故ならば、人は龍を殺すことは出来ない。
龍を殺すということは、総体としての人類の幻想、その一部を殺すということだからだ。
空間を斬り裂いたりするのとはわけが違う。
人の身でそんなことが、出来るわけがないだろう。
そのはず、なのだが……。
「……なんていうか、このまま普通に倒しちゃいそうよね?」
「ああ……俺もさっきからそう思ってる」
ソーマの放つ一撃は、そのことごとくが龍の鱗どころか、その皮膚を裂き、肉を絶つ。
ブレスなどもまとめて斬り裂かれ、少しずつ龍の身体には、癒しきれない傷が増えていっていた。
対するソーマは、未だ無傷だ。
かといってそれほど余裕があるわけではないようだが……それでも、その動きは最初から変わっていない。
的確にその手の剣を振るい、龍を斬り、追い詰めている。
魔天将を倒したと聞かされても嘘だとは思わなかっただろうが……実際に目で見てすら信じられないような光景が、そこには広がっていた。
『づっ……馬鹿な……何故我が一撃が届かぬ……何故我が身が斬り裂かれる……!? 有り得ん……こんなことは、有り得てはいけないはずだ……!』
「そんなことを言われても、実際に有り得てるのだから仕方あるまい。諦めて大人しく倒されるがいいのである」
『認めん……認めんぞ……! 貴様から感じるその気配含め……絶対に認めるわけにはいかん……!』
吼え、龍の攻撃が一段と激しくなるが、ソーマはそれでもやはり相変わらずだ。
その全てを当たり前のように斬り裂き、龍を存在しないはずの死へと近づけていく。
「……こうなると、やっぱりちょっと思っちゃうわね」
「うん? 何がだ?」
「これは夢なんじゃないか、って。だって色々と、都合がよすぎるもの……」
「……確かにな」
龍が殺されかけている。
それだけでもそう思うには十分だが……何よりも、自分達が見捨ててしまった息子が、それを成しているというのだ。
しかも、自分達を助けてくれた上で。
夢だと思ってしまうのは、ある意味当たり前のことだろう。
「あー……確かにその感覚はよく分かるわね。あたしもあの時同じようなこと思ってたもの」
「ああ、兄さ……兄様に助けられた時、なのです? 私その時気絶してしまっていたからよく覚えていないのですよね……むぅ、勿体無いというか、ずるいのです!」
「それをあたしに言われても、どうしろっていうのよ……?」
「……私もちょっと羨ましいかも? ……わけて」
「どうやってよ!?」
「魔法で頑張るのです!」
「ソーマみたいなこと言い出すんじゃないわよ!」
と、その時ふと、そんな会話が聞こえていた。
瞬間そこへと視線を向けていたのは、息子の名が出てきたことと……その声の一つに、聞き覚えがあったからだ。
そして視界に飛び込んできたのは、やはり想像通りのものであった。
もっともそれは――
「え、リナ……?」
「あ、母様に父様、ちょっとお久しぶりなのです!」
「いや、確かに久しぶりではあるんだが……どうしてここにいるんだ? 聞いた話によれば、確かお前は……」
「えー、それはなのですね……あ、そうなのです。偶然旅をしている最中に寄ったのです!」
「あなたは病気で療養していることになっているのだけど?」
「あれ、そうなのです? じゃああれなのです、故国の危機に眠っていた力が目覚めたとかで何とかなったのです」
「せめてもうちょっと隠す努力をしなさいよ……」
「……仕方ないとはいえ、雑すぎ」
「……ある意味間違ってもいないんですけどねー」
そんな言葉を聞きながら……いや、と、クラウスは思い直す。
考えてみれば、ソーマが居るのだ。
リナがソーマの後をついていってしまった、というような話は聞いてはいたのである。
ならばリナもここに居るのは、別に不思議でもなかった。
「とはいえ、ここに来る必要はなかったはずだな? ここが色々な意味で危険だというのは、一目で分かるはずだ」
「あー、その……確かに兄さ……兄様にも待ってるよう言われたのですが……」
「……あいつを一人危険な目にあわせておいて、安全な場所で待ってるなんて出来るわけないもの。まあリナだけは、待っててもよかったとは思ってるけど」
「だからあれは、ちょっと酔っちゃっただけなのです! ほら、今ではこうして問題ないわけですし……それにどうせ、私達がどんな状況だろうと、大差はないと思うのです」
「……ん、ここ来たところで、多分何も出来ないのは、全員同じ。……でも、分かっていながら、来た」
「ふむ……」
リナを補うよう、言葉を付け加えた少女二人に目を向け、細める。
見覚えのない二人であり、片方がエルフであったことに若干の驚きはあったものの……おそらくはソーマやリナと共にここまで来たのだろう。
それがどうやってなのかは気になったが、まあそういうことならば警戒する必要はない相手だ。
後方を気にしつつ、龍の方へと再度視線を戻した。
「まあ、来てしまった以上は仕方がないか。三人とも、あまり俺達の傍から離れんようにな。何かあった時に守れなくては、あいつに合わせる顔がないからな。元からないとも言えるが、さすがにこれ以上は、な」
「……そうね」
「あの……どういう顔をしていいのか分からないので、出来ればそういったことは言わないで欲しいのです」
「そうか? ……まあ確かに、そうか」
親の愚痴を聞かされたところで、確かに困るだけだろう。
何とも言えない顔をしている三人に、自嘲の笑みを浮かべる。
まったくこんな子供達にこんなことを言ってしまうなど、自分は思っていたよりも参っているのかもしれない。
「まあ守るにしても、あの龍に襲われたらどっちにしろ無理そうだけれど」
「あ、その心配はしていないのです」
「あら、どうして?」
「だってあいつがあんなのに負けるわけがないもの」
「……ん、だから襲われることはないし、だからここにも来た」
「……なるほど、そういうことか」
そんな三人の物言いに、つい苦笑が浮かぶ。
こんなことを言わせる息子のことを、さすがと思えばいいのかは分からないが……まあとりあえず――
「信頼を違うことだけはなさそう、か」
「はい? 何か言ったのです?」
「いや……俺達にこんなことを言う資格はないだろうが。あいつのことを誇りに思うって、そう思ってな」
「……はい! 当然なのです!」
笑みを浮かべ頷くリナに応えるように、ソーマの振るった一撃が龍の尻尾を斬り飛ばした。
巨大なそれが宙を舞い、龍が怒りを叫ぶ。
『っ……こんな……こんなことが……! こんなところで……あの方の無念のためにも、こんなところで……!』
「まあ、貴様にも色々と事情はあるのだろうというのは分かる。だが生憎と、我輩には知ったことではないのだ。貴様は許されんことをした。我輩にとって重要なのは、それ一つ。故に――」
『まだだ……まだ我が身は……!』
「――いい加減、堕ちろ」
叫んだ龍が、その怒りをこめるが如き一撃を、前足と共に叩き込んだが、最後までソーマはそれを悠々とかわした。
踏み込んだ一歩で、その頭の真下へと潜り込み――
「――」
呟きは、風に紛れて消えた。
ただ、起こった事実は消えることなく……先の尻尾と同じように、それよりも巨大なものが宙を舞う。
それは、龍の頭部。
不死であることを示すそれが斬り飛ばされたのに合わせるかの如く、その胴体がゆっくりと傾いていく。
そして。
まさに地が揺れるほどの地響きによって、それが倒されたのだという事実が、その場に示される。
同時に……それがこの戦闘の終結を告げる、その合図代わりともなったのであった。




