家庭教師の無念
楽しそうな笑みを浮かべる少年を見下ろしながら、カミラ・ヘンネフェルトは小さく溜息を吐きだした。
もしかしたら軽はずみな約束をしてしまったかもしれないと、そう思ったからだ。
別に魔法に関する課題を出す自信がないというわけではない。
その程度で臆すようであれば、幾ら自責の念があり、友人のソフィアに頼まれたからとはいえ、わざわざ家庭教師などというものを請け負うことはなかっただろう。
だからそれは、別のことが理由であった。
「ま、きちんと考えてくるから、今日のところは大人しくしておけ。余計なことを考えたりするんじゃねえぞ?」
「ふむ……最初からそのつもりではあるが、仮に考えたところで、この身体では実現するのは不可能だと思うのであるが」
「普通ならそう考えるところだが……普通のやつはそもそもそれほどまでに酷い筋肉痛になんざならないからな」
「む……確かにその通りなのである」
これは盲点だった、とでも言うかのような顔をするソーマに、カミラは今度は呆れの溜息を吐き出した。
それは二重の意味で、だ。
そしてそれこそが、先の溜息にも関わってくる理由でもあった。
――そもそもの話。
今カミラは酷い筋肉痛などと言ったが……普通は、筋肉痛になること自体が早々ないのだ。
特に武術系のスキルを持つ者に至っては、有り得ないと言ってしまっていいほどに。
これは単純な話で、そういった者達は、根本的に、文字通りの意味で、筋肉痛にはなりようがないからである。
それぞれのスキルの効果によって最適な行動をする結果、筋肉痛が発生するほどに肉体を酷使することが起こり得ないのだ。
ついでに言うならば、スキルの効果で肉体が強化されるからでもある。
まあ或いは、余程スキルの効果外のことでもすれば分からないが。
例えば、自分よりも遥かに重く巨大な鉄塊でも振り回すとか、である。
そういうことをすれば、筋肉痛にもなるかもしれないが……そんなことをするのは普通の範疇に入らないだろう。
だからこそ、普通は筋肉痛になることそのものが有り得ないのである。
とはいえ、あくまでもそれはスキル持ちの場合の話だ。
実のところ、武術系のスキルを持つ者というのはそこまで多くはないのである。
大半の者は覚えることが可能ではあるものの、覚える必要がそもそもないからだ。
魔物や盗賊といった存在に襲われる可能性を考えれば、念のために覚えておいて損はないが……まあ、そんなことを考えるぐらいならば、護衛でも雇った方が確実だろう。
そのため、兵士になる場合やそういった方面に進む場合を除き、武術系のスキルは覚えないのが普通なのである。
そんなことをする暇があるならば、自分がなろうとする職業の知識を一つでも多く覚えた方がいいと、そういうことだ。
ただだからこそ、たまにそういった人達が筋肉痛になることはある。
例えば、それこそ魔物などに襲われ、全力で逃げた後などだ。
基本的にこの国は、その立地上及びとあることが原因により、魔物も盗賊も出ることはほぼないが、全ての者がこの国で完結しているわけではない。
他の国に商売に行く者もいれば、何らかの用事で出かける者もいる。
そういった人達が……ということだ。
まあ中には単なる趣味で身体を鍛える者などもいるらしいが……そういった者達も、当然ながら筋肉痛になる。
カミラとして、そんなことをするぐらいならば素直にスキルを覚えればいいと思うのだが、そこら辺は価値観の違いというものだろう。
そういった人達は、実用性を重視しているのではなく、身体を鍛えるということそのものが目的なのだから。
閑話休題。
ともあれ、そういうわけで筋肉痛になる人というのは珍しいのだが、皆無というわけでもない。
だがそれでも、それは常識の範囲内での話だ。
これほどの、全身に激痛が走るほどの筋肉痛になるなど、カミラですら聞いたことがなかった。
「ところで、筋肉痛で思い出したんだが、おまえは結局何をしたんだ? そんなことになるとか、余程のことをしなければならんと思うんだが」
「ふむ……いや、別に大したことはしていないのであるが。ただ、必要だと思ったことをしただけなのである」
「必要なこと、ねえ……」
それは多分、本当のことなのだろう。
少なくとも、ソーマ自身はそう思っているのだろうと、カミラはその顔を見て理解した。
同時に、何をしたのか聞いたところで教えるつもりはないのだろうということも。
「具体的には何をしたんだ?」
「それは秘密なのである」
だからそう答えられたのも、想定内であった。
というか、そもそもふと思い出した風を装っていたのからして嘘だ。
本当はずっとそのタイミングをはかっていたのである。
まあ結果としては、予想から何一つ外れることはなかったわけではあるが――
「私はお前の家庭教師なのに、か?」
「むしろ家庭教師だから尚更、であるな。こんな失態を見せる原因となったことを嬉々として話す趣味はないのである」
「ふむ……」
その言葉は、おそらく本音なのだろう。
しかしだからこそ、カミラはふと思わざるをえなかった。
スキル鑑定をしなければ、この子は一体どうなっていたのだろうか、と。
勿論カミラがスキル鑑定をしなかったところで、別の誰かがしただけだ。
だからそれはそういう意味ではなく……例えば、ソーマがこの家ではなく、もっと別の、貧しい村の子供として生まれていたらどうなっていただろうかと、そんなことを思ったのである。
何故そんなことを思ったのかと言えば、スキル鑑定というものは、実は誰もが受けるものではないからだ。
その理由は単純であり、スキル鑑定には相応の金がかかるからである。
まあそれほど高額過ぎるという値段ではないが、それでも気軽に出せるようなものでもないのだ。
勿論それに見合う価値はあるのだが、それも人次第ではある。
ろくなスキルがなければ、その価値がないと思う人もいるだろうし……実際のところ、ろくなスキルがないのが大半なのだ。
ただ、その結果見当違いの道に進むことがなくなる、というだけでも十分な価値があるとは思うのだが、それはカミラ達の、毎日を何の不足もなく過ごせる者達の価値観である。
貧民に位置するような者達は、それならばと、スキル鑑定を受けないということも珍しくはないのだ。
そしておそらくは、ソーマが最も才能を発揮できるのは、そういう環境であった。
スキルを持たない者は、スキルを持つ者に敵うことはない。
それはこの世界の常識であり、理の一つだ。
それが覆されることは有り得ず、挑むことは無駄でしかない。
確かにスキルを持たない者がスキルを持つ者に勝ったという事例は存在するし、例としてあげられることはある。
だがあれはそもそも、努力を肯定するものとしての例ではないのだ。
その意味は、まったくの逆。
一生を費やし、極限まで鍛えたところで、下級と同等に至るのが精一杯という、無意味さを表したものなのだ。
下級というのは、言ってしまえば最低限である。
正式に兵士として認められる、その下限。
あくまでも一人前でしかなく、一流には程遠い。
それが、下級スキルというものなのである。
だからこそ、スキル鑑定を受けるような身で、無駄な努力が肯定されるようなことはない。
やろうとしたところで、全力で止められてしまうだろう。
例え、何のスキルを覚えることが出来なくとも、だ。
だが……そう、故に、カミラは思うのである。
極限まで鍛えたとは言っても、それは多分全身に激痛が走るほどの筋肉痛を伴うものではなかっただろう。
というか、普通に人間にはそんなことは不可能である。
どれだけそんなことをやろうとしても、必ずどこかでブレーキがかかってしまう。
では、それを可能とするソーマは?
止める者がいなければ、果たしてどこまで進むことが出来たのだろうか。
下級、中級……或いは……?
そんなことを思ったのだ。
というか、そもそも筋肉痛に苦しむ必要も、本来はないのである。
魔法で治してしまえば済むし、それが必要でもあるはずなのだ。
聞いた話でしかないが、ソーマの全身を走っているのは、本当に激痛なのだそうである。
それも、子供は勿論のこと、大人ですら発狂しそうなものだと。
医者が語っていたのだから、それは事実なのだろう。
果たしてどうやったら、そんなものに耐えることが出来るのだろうか。
実のところカミラは、ソーマとあまり面識はなかった。
カミラもこの屋敷に住んでいるため、顔を合わす機会はそれなりにあったものの、話すことはほぼなかったのだ。
ただしソフィアから話を聞いていたので、それなりにソーマのことは知っているとは思う。
とはいえ正直なところ、カミラはそれをあまり信じていなかった。
親としての贔屓目というか、誇張して話しているのだろうと思っているのだ。
だからカミラにとってのソーマとは、少し不思議な話し方をする少年でしかないのである。
カミラがソーマに持つ印象は、ほぼこの三日の間に自身の目で見たものしかなく……しかし故に、思うのだ。
本当に残念だ、と。
カミラは家庭教師だ。
しかも、ノイモントから雇われた立場の、である。
ソーマが余計なことをしようとしたら、いさめるしかないのだ。
まあ無駄になる可能性が高いことを考えれば、それは当たり前でしかないのだが――
「……その果てを見てみたかったとか思うのは、私の我儘でしかないんだろうな」
本当に惜しいと、そんなことを思い、口の中だけで言葉を転がしながら、カミラは小さく溜息を吐き出すのであった。