幕間 消えた一つと残った一つ
ベリタス王国王城、玉座の間。
かつてはこの国の頂点に位置する者が座していたその場所は、すっかり荒れ果ててしまっていた。
片付ける手間を惜しまれ放置されていたからであり、だがここ三日ほど人が立ち入る事がなかったその場所へと、不意に足音が響いた。
誰の姿もないはずなのに、ただ足音だけが響き、次第に人影が薄っすらと現れ始める。
それはまるで影法師のようですらあり、しかしやがてその人影はしっかりした人の形となった。
背は低く、一見すると少年のようにも見えるが、そうではない。
一度はこの場から立ち去ったはずの、悪魔であった。
少年の姿をした悪魔は、何かを探すようにきょろきょろと周囲を見渡すと、ふと笑みを浮かべる。
それから、真っ直ぐにとある地点へと向かうと――
『どうやら、随分とこっぴどくやられてしまったみたいですね?』
その言葉は、地面へと向けられていた。
少年の悪魔の視線もまた地面へと向けられており、だが当然のようにそこには誰の姿もない。
話しかけたところで返答があるはずがなく――ないはずの返答が、直後に返った。
『ふんっ……余計なお世話だ。それよりも、早く助けろ』
『そうしたいのは山々なんですが、何となくどの辺にいるのか、ということは分かっても、具体的な位置は分からないんですよね。その幻覚を解いてもらわないと』
『ちっ……まあ、仕方がない、か』
そう言った瞬間、何もないはずの空間に、滲むようにしてソレが現れた。
その顔は間違いなく、先ほどソーマに倒されたはずの悪魔だ。
ただし、その姿は首から上だけしか存在してはいなかったが。
『さすがにこんな姿になってしまったというのは、不憫でなりませんね』
『余計なお世話だと、既に言ったはずだが?』
『おっとそうでしたね、これは申し訳ありません』
謝りながらも、笑みを浮かべたままの少年に、男はつい舌打ちを漏らした。
それでもそれ以上何かを口にする事がなかったのは、男の方がこの状況では立場が下だということを理解しているからだろう。
このままでは男は、どうしようもないのだから。
男達は悪魔であり、即ち普通の生物ではない。
だからこそ首だけになろうとも死ぬことはないのだが、それは単純に死なないというだけのことでもある。
幾ら悪魔であろうとも、首だけで移動は出来ないのだ。
空腹を覚えることもなければ餓死することもないため、放っておかれたところでやはり死ぬことはなく、実際首だけの状態で既に三日が経過している。
このままあと百年が経ったところで男は変わらず死ぬことはないだろうが、同時にそれだけだ。
何も出来ないのであれば死ぬのと大差はあるまい。
悪魔は通常の生物ではないが、四肢が欠損した場合に勝手に生えてくるような生態をしているわけでもないのである。
直すには、相応の手段が必要だ。
そして少年はその手段を持ち合わせているのであり――
『ふんっ……まあいい。それよりも、治療はまだか? さすがの私も、これ以上首だけで放っておかれて良い気はしないのでな』
『まあそれはそうでしょうね。僕だってそうですし』
『ならば早く直せ。そして直ったら……さて、どうしてくれようか。あの人間は、私にこれ以上ないほどの屈辱を与えてくれたのだからな。何倍にもして返し、あの顔を絶望で染め上げてくれよう。くくくっ……!』
『ふーむ、貴方が楽しそうで何よりなのですが……ところで、実は先ほどからずっとお聞きしたいことがあったのですが?』
『なんだ? いや、それよりも、まずは私の治療をだな――』
『いえ、それに関係してのことなんですけどね? ――どうして僕が貴方のことを直してあげなければならないのかな、と思いまして』
『……は? 貴様、一体何を――』
男が言葉の途中で止めたのは、そこでようやく少年の顔に浮かんでいるものに気付いたからだろう。
少年はその顔にずっと笑みを浮かべてはいたが……目だけは、笑っていなかったのだ。
そしてその目に含まれているのは、侮蔑と嘲笑である。
『都合よく忘れているみたいですが、貴方は既に失敗しているんですよ? 失敗してしまった貴方を直す必要性が、どこにあるというのですか?』
『っ……貴様、私に協力すると……!』
『ええ、確かに言いました。言いましたが、あくまでもそれは、失敗するまでの話です。当然でしょう? 僕は泥舟に乗るような趣味はありませんから。まあもっとも、貴方の乗っている船を泥舟にしてしまったのは、僕なわけですが』
『なに……? 貴様一体何を言っている……?』
『貴方の持つ固有の能力……その幻覚を見せる力は、本当に厄介でしたからね。しかもあの彼と相性が良すぎたせいで、その厄介さに拍車をかけましたし。まさか契約を交わすことで、互いに力が増幅されてしまうとは思いもしませんでした。彼の方はともかくとして、彼と事前に戦うことで、貴方の厄介さはさらに増してしまったでしょうし。初見限定ではありますが、あるいはやり方次第では魔王をも殺し得たかもしれませんね」
一人で喋り続ける少年のことを、男はいつしか奇妙なものを見るような目で見つめていた。
いや、あるいは……単に気付きたくなかっただけだったのかもしれない。
自分が既に――
『そういう意味では、僕に任せてくれたのは本当に僥倖でした。おかげさまで色々と教える事が出来、見させる事が出来ましたから。まあ、抑えておくのがちょっと大変ではありましたがね。一時は本気で殺されるかと思いましたよ。もっとも、その甲斐はあった、というところでしょうか? こうして僕の望む通りの展開になりましたしね。とはいえ、これに関しては魔王に感謝すべきでしょうか。こうして、ちゃんと約束を守ってくれたのですから。貴方のことをギリギリのところで殺すことなく、且つ抵抗できないようにすることで、ね』
『っ……貴様、まさか……!?』
『まさかも何も……これは規定路線だと思いますが? まさか貴方も、僕が裏切らないと思っていたわけではないでしょう? 実際僕は彼女のことも裏切ってますしね。まあどちらかと言うならば、あれは仕方なくではありますが。ああ、今回は違いますよ? ちゃんと、僕の意思で、です』
言いながら、少年の手が男の頭に伸び、掴んだ。
先ほどまでならば、男はそれでようやく治療を開始するのかと思っただろうが、無論今は違った。
『貴様っ、やめろ……やめろ……!』
『生憎と、聞く理由がありませんね。聞かない理由なら幾らでもあるんですが。と言いますか、嫌だと言うのならば抵抗すればいいのでは?』
『っ、貴様……!』
抵抗しようにも、既に男からその術は失われていた。
斬撃を放とうにも腕はなく、光弾を放とうにもそれだけの力が残っていない。
最も得意な幻術も、先ほど解いてしまったのが最後であり――
『抵抗しないということは、嫌ではないということですね。それは幸いでした。さすがの僕も、嫌がる元仲間を無理やり吸収するようなことはしたくありませんでしたから』
『貴様っ、やめ――』
『――それでは、いただきます』
言った瞬間、男の頭が爆ぜた。
だがすぐに、逆再生するように飛び散ったはずの何かが少年の手元へと集まり、そのまま少年の手へと吸収されるが如く消えていく。
全てが消え去るまでそれほどの時間は必要とはせず……何かを確認するように数度掌を開閉すると、少年は笑みを深めた。
『うん、これならば大丈夫そうですね』
正直なところ、男に残されていた力は僅かだったために、力の補充としては不十分ではあった。
だが、悪魔にとって重要なのは力そのものではなく、力の質だ。
そして今吸収したのは、男だけではなく、彼女の分も含めての二人分となる。
自分も合わせれば、三人分だ。
少年がやろうとしていることからすれば、十分であった。
『さて、それでは、ようやく僕も動くとしましょうか。僕の目的を、果たすために』
そう呟くと、少年はその場から姿を消し、目的とする場所へと向かうのであった。




