嘘か真か
部屋の惨状を横目に眺めながら、アイナは息を一つ吐き出した。
正直なところ思うところは色々とあるが、今は言っている場合ではあるまい。
それに、最悪を迎える前には間に合ったのである。
今はそれでよしとすべきであった。
「くくっ……今日はまたよくクソ野郎って呼ばれる日だな。まあ別に構わねえが。むしろ、たまにはそういうのもありってもんだ」
「何言ってんの? 頭沸いてるのかしら?」
心底から冷たい目を送るも、男……確かイザークとかいう名前だったそれは、楽しげに口の端を吊り上げた。
その姿にこちらのことを脅威に思っている様子はなく……だがそれも仕方のないことではあるのだろう。
何せ先ほどはろくに抵抗することも出来ずにやられてしまったのだ。
むしろ正当な評価とも言え、しかしだからといって今度は遅れを取るつもりはない。
「くくっ、随分と強気だな。だがその強気がどこまで持つかな? つーかテメエらはそいつの後にしようかと思ってたんだが……まあいいか。折角わざわざ来てくれたんだ。先にテメエらで楽しませてもらうとしようか。ああ、心配すんなよ? テメエらもちゃんと楽しませてやるからよ」
「言ってなさい。さっきと同じようにいくと思ったら大違いよ?」
「へえ、そうかよ? じゃあまあ――どこが違うのか、見せてもらおうじゃねえか」
「っ……!?」
イザークがそう言った瞬間、膝から力が抜けた。
咄嗟に何とか持ちこたえるも、先ほどと同様……いや、先ほどよりも強烈な眠気が襲ってきて、気を抜けば一瞬で眠りに落ちてしまいそうになる。
だが。
「ほぅ……? さっきのよりも強力なのを叩き込んだんだが、意外ともつな。一瞬で終わるかと思ったんだが……言うだけはあるってことか?」
「……ん、要するに、物凄く眠いってだけ。……分かってれば、耐えられないわけじゃない」
「言うじゃねえか、どう見ても耐えるのに精一杯ってだけのくせしてよ。とはいえ、下手に傷つけちまったら楽しめねえしな。まあ気にしなけりゃいいだけの話ではあるんだが……なるべく多くのやつを幸せにしようと思うほどにオレって良いやつだからな」
「っ……言ってなさい。こんなの……!」
目が覚めてから、この攻撃への対処法をずっと考えてはいた。
眠くなるだけとはいえ、それがどれほどの脅威なのかは自分の身で確かめたばかりだ。
何もされなかったのはただの相手の気まぐれが理由で、そのまま殺されていたり、あるいは今も地面に転がされている人達の一部になっていたところで何の不思議もなかった。
そしてここで負ければ、今度こそそうなるのだろう。
そんなことになるぐらいならば今ここで舌を噛み千切って死ぬが、諦めるのはまだ早い。
要するに、この眠気さえ何とかすればいいのである。
ソーマならばそう言って簡単に何とかしてしまうのだろうが……いや、それをソーマにしか出来ないと言ってしまうことは、最早出来まい。
ソーマがやるようなことを、シーラもやってみせたのだ。
ならば……そう、ならば。
ソーマから直々に出来ると言われた自分に、出来ない道理はない。
それに、別にやろうとしていることはそれほど難しいことではないのだ。
ソーマやシーラのように、有り得ないことをやろうとしているのではない。
眠気に抵抗するための魔法というのは、実際に存在しているのだ。
それを使うだけ。
今まで出来なかったことをやる。
それだけだ。
で、あるならば――
「――光よ。我が意我が想いに従い、穢れを払い魔を打ち破る力と化せ。そしてその力を以て、今ここに顕現せん」
――魔導特級・魔王の加護・精神集中・一意専心・積土成山:魔法・キュアライトワイド。
瞬間、アイナとシーラの身体を光が覆った。
光はそのままアイナ達の身体へと溶け込むようにして消えていくが、効果は劇的だ。
膝の力が戻り、眠気は完全に消え失せている。
シーラへと視線を向けてみれば、返ってきたのは頷きだ。
どうやら、シーラの方の眠気も無事打ち払えたようである。
出来ると思ってやったことではあるものの……本当に出来たことに、少しだけ口元を緩めた。
「へえ……あれを破ったってのかよ? なるほど、本当に言うだけはあるじゃねえか」
「当たり前でしょ。同じ手が通用するなんて思ってもらっちゃ困るわ」
「……ん、アイナなら出来て当然」
その言葉は、シーラの本心だったのだろう。
事前に今回のことをシーラには言っておいたのだが、その時シーラは何も言わず、ただ頷いてくれたからだ。
今回の魔法が成功したのは、きっとそのおかげでもあった。
とはいえ、ここからが本番でもある。
まさか、これで終わりということはあるまい。
「さーて……しっかしどうすっかね。こりゃ痛めつけんのもやむなしってとこか? んな互いにとって無駄にしかならねえこと止めとけってオレとしては言いてえんだがなぁ」
「無駄になんてならないわよ。いえ……あんたにとっては、自分が負けるだろう戦いなんてやりたくないのは当然でしょうけど」
「はっ、本当に強気な女だな。そういう女をへし折んのも楽しいんだが……まあいい。そういうのは後回しだ。つーかテメエら、本気でオレ……いや、オレ達に勝てるつもりなのかよ?」
自信満々といった様子ではあるが、何を今更といったところである。
確かに未知な部分は多いものの、そのつもりがなければここにいるわけがないのだ。
そんなアイナの思いに同意するように、シーラが頷く。
「……ん、当然。……むしろ、負ける理由がない」
「そっちもそっちで澄まし顔ながら中々に強気だな。だが、負ける理由がない、ねえ……本当にそうか? あの魔王だってオレ達には敵わなかったんだぜ? それは十分テメエらが負ける理由になると思うがな」
「……ソーマは負けてない。……負けるわけがない」
「……そうね。単に今は姿が見えないってだけでしょ。あいつのことだから、どうせそのうちひょっこり現れるに――」
『――いえ、彼は負けましたよ? 僕がここにいるのが、何よりの証拠です』
決まっている、と口にしようとした言葉を遮る形で、その声はその場に響いた。
そしてそれと共に、新たな人影が唐突に現れる。
それは、外見だけで言うならば、十歳前後の少年のようにも見えた。
しかし直後に、そうではないのだということを嫌でも気付かされる。
サティアを目にした時と同じであった。
どう見てもそれは、人と同じ姿をしているというだけで、人と同じ存在ではなかったのだ。
半ば無意識のうちに唾を飲み込み、ゴクリと喉が鳴る。
だがイザークはその事実にまるで気付いていないかのように、気楽な調子で声をかけた。
「なんだ、もうケリついたのかよ?」
『ええ、意外とあっさり終わりましたよ。まあ、僕としては手間が省けて助かりましたが』
「っ……」
言いながら向けられた視線に、反射的にアイナの肩が跳ねる。
しかしそんなことよりもアイナの意識を捉えて放さなかったのは、その少年のような何かが口にした言葉だ。
――ソーマが、負けた?
まさか、本当にそんなことが――
「っ……いえ、そんなことやっぱり有り得ないわ。そんなこと言ってこっちを動揺させようとしてるんでしょうけど、お生憎様だったわね」
「……ん、そんなこと有り得ない。……嘘言うな」
『健気ですね。そんな貴方方を地に這わせなければならないというのは非常に心苦しいのですが……まあ、僕が手を下すまでもありませんか』
「そうだな。どうせオレが相手するだけで終わる。お前ら曰く不確定要素だっつー魔王は既にいねえわけだしな。逆に言やオレが相手しなけりゃならなくなったわけだが……ま、ちょうどいい気分転換になると考えるしかねえか。ちょっと疲れたしな。もっとも、すぐに再開することになりそうだが」
「……っ」
言葉と共に嘗め回すように全身を見回され、唇を噛み締める。
色々と気になることはあるが……まずは、あの男を叩きのめしてからだ。
シーラへと目を向ければ、頷きが返ってくる。
どうやらシーラも同じ考えのようであった。
これは訓練ではない。
合図などは必要なく、構えると共に僅かに腰を落とすと、シーラの姿が掻き消える。
アイナも前方へと視線を戻すと、その動きを援護するために、男へと魔法を叩き込むのであった。




