皇帝の末路
床に寝転がりながら天井を見上げていたのは、何か理由あってのことではなかった。
単純に身体に力が入らないからそうするしかなかったという、それだけのことだ。
「っ、ごほっ、ごほっ……!」
と、喉に違和感を覚え、咳と共に唾を吐き出すと、びちゃりと目の前に赤黒い染みが広がった。
煙臭い上に熱く、体調はこの有様。
まったく――
「皇帝ともあろう者が、無様よな……」
自嘲の笑みを浮かべながら呟き、再度咳き込む。
腹部から止まらぬ熱と痛みを感じながら、ヴィクトリアはどうしてこんなことになってしまったのだろうかと思った。
「……いや、どうしても何もあらぬ、か。結局は、妾が愚かだったというだけなのだからな……」
ランベルトの声はここまで届いていた。
あんなことを言わせてしまったのも、全てはヴィクトリアのせいだ。
全ては、ヴィクトリアの弱さのせいだった。
自らに相応しくもない、過分な願いを抱いてしまった、愚かな女の末路がこれなのだ。
「妾はただ、この国をより良くしたかった……胸を張って、誇りたかっただけなのだが……まったく、上手くゆかぬものよな……」
アルカナム大陸中央部に位置する大国、ユピテル皇国。
千年以上もの歴史を積み重ねた、世界で唯一の皇国であるユピテルだが、実のところ世界で最も栄えている、などと言われるようになったのはここ十数年のことでしかない。
それまでは二番手、三番手の国でしかなく、皮肉交じりで眠れる獅子などと言われたものであった。
しかも扱いとしては、それ以下だったことも珍しいことではない。
大国であるがゆえに一定以上の信頼を得てはいたが、同時に歴史を積み重ねただけでしかない、とはよく揶揄されたものである。
国同士である以上は絶対の信頼などおけるものではないが、それでもユピテルは大国と呼ばれる割には随分と軽い扱いを受けていたのだ。
とはいえそれは、仕方のないことであった。
それだけのことをユピテルはしてきた……否、してこなかったからだ。
大国であることの責務を、ユピテルはずっと果たしてこなかったのである。
最も近場で言うならば、前回の魔王退治の時などもそうだ。
あの時、各国の本音はともかく、少なくとも建前上はほぼ全ての国が戦力を出し合い、協力していた。
だが、ユピテルだけはあの時、様子見を決め込んでいる。
各国の仲を取り持ってこそみせたが、それだけ。
ついには一度も戦力を出してみせることはなかったのだ。
当時世界一の大国と呼ばれたベリタスとは隣国でもあるせいか、色々と比べられたものである。
ヴィクトリアはそれが我慢ならなかった。
外に出す事がなかったゆえ、他の国が知らぬのも無理はなかったが……当時のユピテルは、最盛期のベリタスと比べてさえ、明らかに優れていたからである。
軍事力を含めて、国力の全てで、だ。
しかし何故かユピテルはそれを隠し、二番手以下の国として甘んじていたのである。
当時のヴィクトリアは、最も優れている事が明らかなのだから、それを示せばいいと思っていたし、事実何度も進言していた。
だが受け入れられることはなく……やがて、その必要がなくなる。
父と母が事故に遭い、帰らぬ人となってしまったからだ。
そして。
当時まだ成人も迎えていなかったヴィクトリアが、皇位を継ぐこととなったからである。
それからの日々は、大変ではあったが、やりがいのある日々でもあった。
幸いにも、周囲は自分のことを小娘などと侮ることはなかったし、やりたいことを理解してくれもした。
彼らもまた、現状を歯痒く思っていたのだ。
一部、経験と歳を積んだ者達だけは、やんわりとたしなめようとしてきたり、反対してきたりもしたが、押し進めるのだという強い意思を示せば引き下がり――
「……ああいや、もしやあの者達は、やがてこうなるということが……その可能性があるということを予見していたのか? くくっ……ならばやはり妾は、救いようがないほどの愚か者よな……」
しかしそうして今更自嘲してみせたところで、後の祭りだ。
時間は戻らず、押し進めたという結果だけがある。
だがその甲斐あって、ユピテルはここまで来た。
誰もが褒め称える大国へと至り、栄えることになったのだ。
最早名ばかりの大国などと陰口を叩かれることもなく、やはりあの時のヴィクトリアは、何一つ間違ってはいなかった。
そのはずであり――
「……だが実際には、間違っていた、のだろうな」
認めたくはないが、現実はこの通りだ。
折角世界一の大国にまで押し上げたというのに、一体何を間違えてしまったというのか。
……いや、きっと本当は、分かっていた。
もうずっと前から。
成人を迎え、正式に皇帝の位を継ぎ……だがそれでも、ユピテルの名を名乗ることを許されなかった時から。
ヴィクトリア・Y・アルカナム。
このYは、実は略称などではないのである。
ユピテルの名を名乗れないが故に、名乗ることを許されてはいないからこそ、中途半端にそうとしか名乗れないのだ。
確かに皇帝ではあるが、同時に皇帝として真に認められてもいない。
そんな矛盾を体現しているのが、その名なのであった。
歴代の皇帝は全てユピテルと名乗ることを許されたのに、何故かヴィクトリアだけは許されなかったのだ。
とはいえ、だから甘言に乗ったかと言えば、そういうわけではない。
それはまた、別の理由からであった。
「妾ならばどうとでも出来るという自信と自負があった……などと言ってしまうのは、ただの言い訳にしかなるまいな。否、あるいはそれにすらならぬか」
だが、何も甘言に乗ったから魔王や世界への態度を決めたわけではないし、そもそもその結論自体は話し合いの果てに決まったことだ。
まあ、主に賛同してくれたのは軍部であり、そのせいもあってか文官達との間には随分な亀裂が出来てしまったわけだが……あれは誰が悪かったということではあるまい。
きっとどちらも正しかったのだ。
ただ、どちらの可能性がより高いと思っていたのかという、それだけの話でしかない。
そしてヴィクトリア達は、世界の滅びは避け得ないだろうという結論に達したのだ。
だから、甘言に乗った。
自分達が滅ぼす側に回ることを決めたのだ。
「……ま、それも結局は、ある意味での我が身可愛さだったのかもしれぬが。世界を愛していると言いながらも、我が国を取ったことを考えれば、な」
そう、ソーマに語った話は、正確でもない。
ああいった考えがあったのは事実でもあるし、幾つかの要因となったのも確かだ。
しかし、最後の決め手となったのは、別の理由なのである。
単純な話だ。
滅ぼす側となれば、自分達が滅びるのは必ず最後になる。
ヴィクトリアはただ単に、自らの国の民達を少しでも長く生かしたかっただけなのだ。
たとえ民達から嫌われようとも。
ほんの少しの理解者さえいて、ほんの少しでも長く、民達が生きていてくれれば。
「だが、そう思った結果が、この有様、か。ふっ……なるほど確かに、妾には皇帝などというものは相応しくなかったのかもしれぬな」
「――その通りだ」
独り言だったはずの呟きに言葉が返り、反射的に視線を向ければ、そこにいたのは見知った人物であった。
炎に包まれ始めている入り口に立つ男の顔を、ヴィクトリアが見間違えるはずもない。
ランベルト・Y・アルカナム。
ヴィクトリアに残された唯一の肉親であり、血を分けた実の兄であった。
そんな、皇帝を継いだ瞬間から兄とは呼べなくなった男に向けて、ヴィクトリアは口の端を吊り上げる。
それは自嘲のようでもあったし、あるいは安堵であったのかもしれなかった。
「どうした? このまま妾を蒸し焼きにするとでも思っていたのだが……趣向を変えることにしたのか?」
「……そうだな、正直迷いはあった。貴様をこのまま不要になった玉座の間ごと焼き尽くすか、あるいは民達の前で断罪するか、な」
「……なるほど。そもそも何故ここに火を放ったのか疑問ではあったが、皇帝そのものを不要としたために、ここも不要となったから、か」
「その方が皆も本当にいらなくなったのだと分かり易いだろうからな」
「ふむ……して、妾が死ぬ前に姿を見せたということは、やはりこの身を断罪に使うことにしたということか?」
「いや……? 第三の選択をすることにした」
そう言いながら、ランベルトが近寄ってくるが、甘い考えは一切浮かぶことはなかった。
ここで死んだことにして命は助ける。
そんなことを考えるような甘い男ではないからだ。
ならば、これは――
「つまり、俺の手で直接殺す、ということだ」
「くくっ……燃やすのでは万が一がありえるから、か?」
「ああ。誰かを身代わりにして逃げるという可能性が有り得、何よりもそう疑われる可能性がある。だがここで俺が殺し、その首を晒せばさすがに疑うものはいないだろう」
「なるほど……ついでに断罪にもなるということだな」
頷きつつ、死が近寄ってくるのをヴィクトリアはただジッと見つめていた。
抵抗する気はなかった。
既にその力がないというのもあるし、どうしようもないというのもある。
こちらは無手で、ランベルトの手にはしっかりと槍が握られていた。
ランベルトは槍を扱わせれば、この国どころかこの世界でも随一の使い手だ。
抵抗する意味などないことぐらい、誰に言われるでもなく分かっていた。
故に。
「さあ……覚悟はいいか?」
「正直よくはないが……まあ、仕方ないであろうな。これからのことは、其方に任せていいのであろ?」
「ああ。あとは俺達が継ぐ。だから……お前は、ここで死ね」
「そうか……」
ならば、それでよしとするかと、そう思い――
「――いや、それはちょっとよろしくないであるな」
その声が聞こえたのは、その時のことであった。




