魔族と魔王 後編
にっこりと、笑みすら浮かべて言われた言葉に、不思議とアイナはショックを受けることはなかった。
おそらくはここまでの話の流れで何となく分かっていたのと……あとは、薄々感づいていたからだろう。
そう、強引に連れて来るにしたところで、アイナまで牢屋に入れておく必要はないのだ。
むしろそんなことをすれば、問題にしかならない。
けれどアイナも生贄にするならば、逆にそうしない理由こそがないのだ。
気付いていながらもそれを考える事がなかったのは、怖かったからだろう。
しかしここまできてしまえば、そんなことを言っている場合ではない。
逃げ出したとはいえ、アイナは魔王の娘であり……何よりこの場には、リナもいるのだ。
そんなこと、許すわけにはいかなかった。
「……こんなことして、ただで済むと思ってるの?」
「ええ、勿論ただでは済まないでしょう。何せ魔王様が復活なされるのです。あの男を含めた愚か者共を引き摺り下ろし、嬲り殺しにし、それからようやく反撃の時が来るのです。我らのことを蔑み、魔族などと呼んだやつらへの、復讐の時が!」
声高に叫ぶ男を見て、アイナは狂ってると思った。
そもそも、滅ぼされた者を復活させたとして、何故それで反撃などが出来るのか。
もう一度滅ぼされ、より酷い目にあうだけなのは分かりきっているだろうに。
もっとも、それを言ったところで無駄なのだということなど分かっていたし……何よりも、必要がなかった。
「……そう。よく分かったわ」
「ご理解いただけまして幸いです。残念なことに姫様はそれに加わることは出来ませんが、どうかお嘆きになりませんように。何せあなた方の犠牲こそが、我らが復讐の第一歩なのですから!」
「――そんなのごめんですから、勝手にやってればいいのです」
瞬間、鉄格子の一部が吹き飛んだ。
否、斬り飛ばされたのである。
そしてそれを成した影――リナは、そのままアルベルトへと飛び掛った。
リナが何かしようとしていることに、アイナは気付いていた。
だからリナは最初の質問以降言葉を発していなかったし、アイナはそんなリナから注意をそらすべく話しかけ続けていたのである。
リナの手に握られているのは、どうやらベッドの一部を壊して作り出した短い木の棒のようだ。
本来であれば、それは何の脅威にもならないが、そうではないのは今鉄格子の一部を斬り飛ばしたことからも分かる通り。
リナの手に渡れば、それさえも立派な凶器となるのだ。
そんなリナによる奇襲である。
幾らアルベルトといえども、これにはただでは――
「――ふむ。まさかとは思いますが……その程度で奇襲を仕掛けたつもりなのではありませんよね?」
「――え?」
直後に宙を舞ったのが何であったのか。
それを理解するのに、数瞬の時間を要した。
いや、それを理解するのを、脳が拒絶していた、と言うべきだろうか。
薄暗い中でもはっきりと見えたそれは、赤黒い色をした液体であり……全身のいたるところからそれを流した小さな身体が、ゆっくりと地面に倒れこんでいく。
「む……これはいけませんね。そのまま攻撃を反射しただけなのですが、ここまでとは。さすが、と言うべきですが、まあ詰めが甘かったですね。私は魔天将の一人ですよ? 同じ特級所持者とはいえ、対策など当たり前のようにしています。さてそれはともかく、このままでは死んでしまいそうですが……別に問題はありませんか。あと少しだけ生きていればそれで構わないわけですし……それに、死んだら死んだで、その時はその時です」
「っ――アルベルト!」
瞬間、右手を突き出していたのは、反射的な行動であった。
何かを考えてというよりは、単純に許せないと、そう思ったからだ。
それに気付いたアルベルトがこちらに視線を移し……直後、その口元を吊り上げた。
言葉にされるまでもなく、その目だけで何が言いたいのかが分かる。
それは、何十回、何百回と向けられてきた目であった。
魔法の一つも使えない無能が何をするつもりだと、そういう目だ。
そしてアイナは、そこでふと気付いた。
何となくではあるが……アルベルトに姫様と呼ばれる事が、嫌だったのだ。
その理由に、今ふと気付いたのである。
それは、アルベルトの声に嘲りの色がこめられていたからなのだろう。
気付かれない程度に少量の、だが確かなそれが。
隠す必要がなくなった今、それをはっきりとその目から感じ……まあだから、どうというわけでもないのだけれど。
それでも……今までの鬱憤の全てをこめるかのように、その言葉を口にした。
「――その悉くを焼き払わん。フレイムアロー!」
――魔導特級・魔王の加護・積土成山:魔法・フレイムアロー。
「――なっ!?」
顕現し、勢いよく飛び出した炎の矢に、アルベルトの目が見開かれた。
だがその間にもそれは一気にその距離を詰め、その顔に吸い込まれるように、炎の矢が――
「……え?」
「いや……これは驚きました。まさか姫様が魔法を使えるようになっているとは」
何事もなく消えたそれを眺め、今度はアイナが呆然とする番であった。
何せ、魔法を発動した素振りすらなかったのだ。
リナの時とは違う。
リナの時は、一瞬とはいえ確かに魔法を発動した形跡があったのだ。
なのにアイナのそれが消え失せたのは、魔法を発動する必要すらなかった、ということである。
つまり、それだけの実力差があるということであった。
いや、そんなことは重々承知の上ではある。
しかし僅かな隙を作ることすら出来ないとは……。
「ふむ……しかし、本当にどうして魔法が使えるようになっているのですか? ――折角私が、封印したというのに」
「……え? なに、を……?」
「おや、それには気付いていなかったのですか? まあどうせ最後ですから言ってしまいますが、ええ、今言った通りです。姫様が魔法を使えなかったのは、私が予め封印していたからなんですよ。どうです、さすがは魔天将でしょう? 何せ誰一人にすらそれを気付かせなかったのですから」
誇らしげな表情すら浮かべるアルベルトを、アイナは呆然と眺めていた。
それはつまり、全ては目の前の男が原因だったということなのである。
「なんで……どうして、そんなことを……?」
「そんなの、決まっているじゃありませんか。姫様を、絶望の底に叩き落したかったからですよ。姫様を生贄とするのは、当時から決まっていましたからね。とはいえ、まさかやりすぎてしまうとは思っていませんでしたが……ええ、正直、姫様が逃げ出した時にはどうしたものかと思いましたよ。まあ結果から言えば、こうしてこちらの都合のいいように転がってくれたわけですが。さすがの私でも、アレらの目を盗むのは容易ではありませんからね。何から何までありがとうございます、姫様」
そう言って頭を下げたアルベルトは、本気でその言葉を言っていた。
今言ったことの全て、感謝の言葉までもがその本心なのだと、言われるまでもなく理解する。
「……っ!」
だからこそ、瞬間、カッと頭に血が上った。
だってそうだろう。
あの日々の全てが、この男のせいだと言うのだ。
そんなの……そんなの――!
――魔導特級・魔王の加護・積土成山:魔法――
「アル――」
「――別に姫様程度の魔法でどうにかなることはないのですが、まあ鬱陶しいですからね。少し黙っていてください」
「――がっ……!」
何をされたのかは、分からなかった。
あの森でされたことと同じだ。
気が付けばアイナは吹き飛ばされ、牢屋の壁に叩きつけられていたのだ。
ただあの時と違うのは、今度は明確に痛みを感じることである。
喉元からせりあがってくる何かを吐き出すと、それは赤黒い液体であった。
さらに重力に引かれて地面に落ちると、さらに全身に痛みが走る。
「……っ、ぐっ、あっ……」
「ふむ……私は昆虫採集とかに興味はなかったのですが、こうしてみると少しは面白そうかもしれませんね? まあやっぱり私としては、こちらの方が好みですが」
「ぎゃっ……!」
突然腕に走った痛みに、声を漏らした。
見てみれば、そこにあったのはアルベルトの足だ。
踏みつけられた、ということを悟り……だがアイナは歯を食いしばると、眼前を見上げた。
「アル、ベルト……!」
「おや、痛みに泣き叫ぶかと思いましたが、まさかここまで気骨があるとは思いませんでしたよ。この一年で何か変わったみたいですね……ええ、これなら少し、楽しめそうです」
「……っ、ぐっ……っ!?」
グリグリと踏みにじられ、さらなる痛みが走る。
しかしそれを、アイナは歯を食いしばり耐えた。
別にそれでどうにかなるわけでもなかったが……それはただの意地だ。
こいつの思い通りになるかという、それだけのことである。
何も出来ないけど……何も出来なかったけれど……せめて――
「ふむ、ただの籠の中のお姫様だと思っていましたが、少しだけ評価を変える必要がありそうですか。まあ結局何が変わるというわけでもないんですがね。鑑賞している分には滑稽で興味深いですが、飽きたらば首を絞めて殺されるだけ。あなたはただそのためだけに、生かされていただけなのですよ」
声は聞こえていたが、それに何かを返すことはなかった。
既にその余裕がないとも言うが……アイナはただ、痛みに耐え続ける。
「勿論それは、私だけが下していた評価ではありませんよ? まああなたも知ってのことでしょうが……どうやらそれは、逃げ出した先でも変わらなかったようですね?」
「……っ」
「おや、ふふっ、どういう意味かと言いたげですね? 大丈夫ですよ、ちゃんと教えてさしあげますとも、ええ。もっとも少し考えれば分かることではありますが……さて、ここで一つ質問です。私はどうして、あなたがあそこに居たのかを知っていたでしょう? ……はい、単純な話ですね。教えられたから、ですよ。それが誰からなのか、どんな理由なのかは……まあ、敢えて言いませんけれど。私、これでも、慈悲深いもので」
どの口が、とは思ったものの、自然と思考は今伝えられたことへと向かった。
とはいえ、誰が、などということは考えるまでもないことだ。
あの村で、アイナは周囲との交流はほぼ皆無だったのである。
ただの二人を除けばではあるが……だからこそ、アイナの身を特定できた人物など、限られていた。
だがだというのに、アイナは欠片も疑念を覚えることはなかった。
アルベルトの言葉が嘘だと思ったわけではない。
多分それは本当のことで……でも、きっと何かを間違えてしまっただけなのだ。
それを確信するのに、理由など必要はなかった。
「……気に入りませんね。まさか、これでもまだ堕ちないとは……仕方ありません。あまりスマートではありませんが、やはり力で分からせるしかありませんか」
「……っ!?」
言葉の直後、痛みがさらに激しくなった。
グリグリ、グリグリと踏みにじられ……だがそれでも、ひたすらに耐える。
アイナに出来ることは、本当にもう、それだけしかなかったから。
全身から力が抜け出していっているということは、分かっていた。
多分このままでは、そう長くないうちに死ぬだろうということも。
「っと、これはいけませんね。これでは儀式が終わるまで持ちそうにないかもしれません。うーん、さすがに姫様だけでも生かしておくべきでしょうか? ……ああそうです、いい考えがありました。姫様、折角ですから、命乞いをしてくれませんか? そうしたら、傷を治してさしあげますよ? まあどうせ殺すのですが、せめてそれまでぐらいならば痛くないほうがいいでしょう?」
その言葉を聞いて、一瞬でも心が傾かなかったといえば嘘になる。
だがアイナはただ、歯を食いしばった。
それが精一杯の抵抗だ。
それしか出来なくても……それだけしか出来ないから、それだけをすることに決めたのである。
「……はぁ。なんだ、命乞いしないんですか? 面白くないですねえ。……ああそれとも、もしかしてこの期に及んで助けが来るとか期待しているわけじゃありませんよね? そんな都合のいいこと、有り得ませんよ?」
助け、と聞いて、一瞬だけ頭に誰かの姿が過ぎった気がする。
しかしそれを、アイナは必死で抑え込んだ。
それを意識してしまえば、心が折れてしまうと、本能で察したからである。
それに、そんなことは言われるまでもなく分かっていた。
彼は助けになど来ない。
当たり前の話だ。
だってその価値がない。
その意味がない。
ああ、いや、或いは、妹の助けにならば来るかもしれないけれど……それは、妹を助けに、だ。
自分を、ではない。
まあでもどっちにしろ、同じことだ。
世界は優しく出来てはいないことなど、アイナはとっくの昔に知っているのである。
だというのに、アイナは一度救われてしまった。
だからこそ、尚更だ。
二度目など……そんなことは――
「ふむ……仕方ありません。ここは何とか、鳴き声を上げさせることを優先としましょうか。さて、最後にもう一度ぐらいは私を楽しませてくださいよ? 絶望に満ちた鳴き声を、存分に――」
「――いい加減耳障りなのである。絶望の声を上げたければ、貴様が勝手に上げてろ」
声と共に、腕から重みがなくなった。
直後に響いたのは壁がぶち抜かれたかのような轟音であり……いや、そんなことはどうでもよかった。
今の声は……そして、目の前に現れた、その姿は――
「すまんであるな。リナの方が危険であったので、ちょっと向こうを優先したのである」
「……ソー、マ?」
「うむ? それ以外の誰かに見えるであるか?」
「……見えない、けど」
「それならよかったのである。うむ……少し遅れてしまったであるが、約束通り、助けに来たであるぞ」
見慣れた、いつも通りの姿に、頬から一つ、透明な雫が伝い、落ちた。




