女帝の望むモノ
ソーマ達が去った後の謁見の間で、ヴィクトリアは未だ去ることなく椅子に腰掛けていた。
虚空を眺めるその横顔からは、感情を窺い知ることは出来ない。
だが揺らめく紫紺の瞳が細められる姿は、どことなく憂いを感じているようにも見え――
『――ですが、私にはその手は通用致しませんよ? こちらには、貴女が何を考えているのかも分かっているのですから』
瞬間舌打ちが聞こえたのは気のせいではないだろう。
そして無駄だということなど最初から分かっていただろうに、律儀に憂鬱そうな仮面を脱いだ後で、ヴィクトリアは口を開いた。
「まるで妾が嘘を吐いていたような言い方は甚だ心外だな。妾は真実憂鬱に思っていたとも」
『私の小言を聞くのを、ですか?』
「……小言と分かっているのならば、止めてもいいと思うのだが?」
『そうは参りません。他の何を見逃そうとも、これだけは見逃してはなりませんから』
言いながら、ジッとヴィクトリアの内側を見つめる。
誤魔化しを認めず、偽りを見逃さぬ。
もしもこの期に及んでそんなことをするというのならば、相応の代償が必要だと、そんなことを思いつつ――
『――貴女は何を考えて、魔王と接触したのですか?』
言葉に、反応はなかった。
焦りもなければ恐れもなく、まるで何ということのないことを聞かれたかのようだ。
しかし、そんなわけはなかった。
ある意味では仲間とも呼べる魔王ではあるが、今のところはどちらかと言えば敵対しているのだ。
そんな相手を、事もあろうに本拠地へ引っ張り込むなど、あっていいことなはずがなかった。
「そんなことを言われてもだな。つい会ってみたくなり、ちょうど呼び寄せる事が可能な好機に恵まれたのだ。ならば試さなければ嘘であろ?」
『そんなことを言うのも、それに頷くのも、貴女だけです。……まったく、以前までの貴女でしたら、こんなことはしなかったでしょうに』
言った瞬間、僅かにヴィクトリアの内側が蠢いたのが分かった。
だが敢えて指摘することがなかったのは、分かっていて口にしたのと、それよりも話すべき事があったからだ。
『それで?』
「ふむ……それで、とは?」
『誤魔化しが通じるとでも? 会ってみたいと思ったのは事実でしょう。好機であったのも事実でしょう。ですが、その元。あなたはどうして会ってみたいと思ったのかについて、話していません』
今度もまた反応はなかったが、先のそれとは意味合いの異なるものであった。
先ほどのものが予測済みであったがゆえに動揺も何もなかったのに対し、今回のは分かってはいたものの、単に言葉がなかったというだけなのだ。
あるいは、こう言い換えるべきだろうか。
それはヴィクトリア本人すらも、言葉に出来るほどに自覚できてはいないのだ、と。
『……もしや、今の貴女ならば魔王にさえも勝ち目があると、そう思いましたか?』
「……いや、それはなかろう。もしもそうならば、妾はあやつを目にした時もっと感情が動いていたはずだからな」
『ということは、そうではなかった、と?』
「うむ。妾があやつを目にした時に感じたのは、ただの納得であったからな」
納得。
それが何に対するものであったのかは、ここまでの話を考慮に入れれば考えるまでもないだろう。
即ち。
『戦ったところで勝ち目などはないという納得、ですか』
「まあ最初から分かっていたことではあったが、それが確信に至ったという感じだな。おそらくどれほどの足手まといを作ろうとも、妾では討てまいよ」
『でなければ、世界を滅ぼすなど夢のまた夢でしょうからね』
「うむ、理解したし、実感もした」
『……実感? ちょっと待ってください、そういったことは特になかったかと思いますが?』
今日ヴィクトリア達がやっていたことは、本当に皇都を見て回っていただけだ。
その意図は不明なれども、それしかやっていなかったのは、実際に見ていたからよく知っている。
しかしだというのならば、どうやって実感したというのか。
「いや、ほれ、あやつが一度その身から剣を離したことがあったであろ?」
『……ええ、確かにありましたね』
ヴィクトリアが酷く動揺していたために見づらかったものの、一応見てはいた。
だがその時にだって、戦闘になるようなことは……いや、まさか。
『……その、まさか、ですけれど』
「そのまさかよ。魔王と言っても、所詮剣士。剣がなければ、と思い、試しに一撃放ってみようかと思ったのだがな」
そうなっていない、ということは諦めたということか。
いや、この口ぶりからすると――
「直前まで、本気で放つつもりだったのだぞ? だがいざ放とうと思ったらな……死ぬ気しかしなかった。いや……正直死んだと思ったぞ?」
わざわざ確かめるまでもなかった。
その声音と表情は何処までも真剣そのもので、きっと僅かに身体が震えているのは、自覚してすらいまい。
とはいえ、正直なところそこまでか、というのが本音であった。
力の差があり、戦闘になれば絶対に勝ち目がないと思ってはいたものの、同時にそこまで絶対的な差とまでは認識していなかったのだ。
だからどちらかと言えば、次に出た言葉は好奇心ゆえであった。
『……もしも私が力を貸していたら、どうなっていたと思いますか?』
それは実際には有り得ない仮定だ。
ヴィクトリアを介して見てはいたものの、万が一のことを考え一方通行な状態なのである。
力を貸そうとしても、不可能ではあった。
それが功を奏したと考えると複雑な気分ではあるし、あるいは無茶をしでかしたのはそのせいなのではないかとも思えるのだが……ともあれ。
「ふむ……契約は結んだものの、力を借りたことはないであろ?」
『さすがに試しでも力を貸してしまえば、そこから色々とバレてしまうかもしれませんからね』
「だから、正直どこまで使えるようになるのかは分からぬからな。その上で言うのだが……しかしそうだな、それならば一割程度にはなる気がするな」
『負ける確率がですか?』
「勝てる確率に決まっておろう?」
当然のことだと、口調と顔でそう告げるヴィクトリアは、本気でそう思っているようであった。
正直そこに不満がないと言ったら嘘になるが、納得を覚えたのもまた確かである。
先に言った通りだ。
相手は世界を滅ぼし得る魔王なのである。
即ち、この世界の全ての存在を敵に回そうとも、全てを打倒可能な存在だという意味だ。
悪魔そのものが相手にしてさえ勝ち目があるか怪しいというのに、その一部の力を借りただけの人間に勝ち目があるはずもないのである。
そう考えれば、むしろ一割も勝ち目があると豪語できるだけ、ヴィクトリアは色々な意味で上等だろう。
『ところで、現状の認識を正確に出来たのは何よりなのですが、結局何故貴女は魔王を呼んだのですか? それも、皇都を案内までするなど。自身がどれだけ忙しいのか、忘れたわけではありませんよね?』
息抜きのために抜け出すのは珍しいことではないが、今日は半日近くも皇都にいたのだ。
どれだけの仕事が溜まり、どれだけの案件が滞っているのかなど考えたくない。
この穴を埋めるには、二、三日の徹夜ではすまないだろう。
そして、それだけのことをするだけの価値があの魔王にあったのかと言えば――
「ふむ……何故魔王を呼んだのか、か。……それが、ずっと考えてはいるのだが、妾には思い当たる理由がないのだ。どうして妾はあやつを呼んだのであろうな?」
それは誤魔化しなどではなく、本心からのものであった。
本心から、自分でやっていながら、ヴィクトリアはその理由を理解してはいないのだ。
やはり、とそう言うべきかもしれないが。
だがここまでであれば、わざわざ尋ねるまでもないことであった。
魔王を呼んだその時も、こうして見ていたのだ。
ヴィクトリアが何らかの理由を自覚する前に魔王のことを呼び寄せていた、ということはよく分かっている。
故に重要なのは、この先のことだ。
『……では、少し聞く内容を変え……いえ、先に進ませましょう。貴女は、何故魔王に皇都を案内したのですか?』
「……む? 何故魔王に皇都を、だと……?」
『はい。貴女は魔王を呼び出した直後には、確実にそんなことを考えてはいませんでした。ですが、貴女は何を思ってか、すぐにそう提案し、そのまま実行するに至ったのです。それは、何故ですか?』
「それは……無論、魔王が皇都に来たからだ。ならばこの素晴らしい国と民達の姿を見るべきであろ?」
『なるほど……それでは、続けて問いましょう。そうしてこの素晴らしい国と民達の姿を見せた貴女は、どうして魔王と手を組もうなどとおっしゃったのですか? そんなことは、計画になかったはずです』
そう、それは計画にないことであった。
むしろそれが成ってしまったら、計画の根本を見直さなければならないほどだ。
無論、叶うのであればそれが最善であるのも事実である。
計画とは結局のところ、如何にして魔王をその気にさせるか、ということにかかっているのだから。
しかし、それはそれ、これはこれでもある。
計画にないことをやられてしまっては、困るのだ。
計画にないことをやるにせよ、せめて――
「……ふむ。なるほどな」
と、不意にヴィクトリアが頷いた。
気が付けばその目には、納得と理解の色がある。
『ご理解いただけたのですか?』
「うむ、世話をかけたな」
『いえ、この程度のこと何ということもありませんが……それで、結局どういった理由だったのですか?』
「なに、大したことではない。妾はな、あの男を見た瞬間に思っただけであったのだ。――欲しい、とな」
だから呼んだ。
だから自分の愛するものを案内し、見せびらかした。
だから手を組もうと提案した。
それだけのことでしかなかった。
「うむ、妾は魔王が欲しかったのだな。くくっ……分かってしまえばこれほど馬鹿らしく、これほど分かり易いものもあるまいにな。ああ……あんなものを目にしてしまえば、手に入れたいと思わぬわけがないのだ」
常に浮かべる微笑ではなく、民達へと向ける笑みでもなく、心の底からの笑みを、ヴィクトリアは浮かべていた。
それは自分で口にしている事が真実であることの証だ。
……もっとも、その真に意味するところにまで、自覚があるのかはわからないが――
『なるほど。それでは、理由が判明しましたところで、これからはどうなさるおつもりなのですか? やはり……いつも通りに?』
「……いや、それはやめておこう。折角ここまできたのだ。ここで今更強攻策を取る必要もあるまいよ」
『そうですか……では、貴女の望むがままに。私は、そのためにこそここにいるのですから』
――そういう契約であるがゆえにと、声には出さず、代わりに従順な言葉を返す。
そう、契約は絶対だ。
絶対でなければならない。
なればこそ。
言葉はやはり声にはならず、ただ霧散し、消えていく。
先のことを見据えるがごとく、口元に笑みを浮かべたヴィクトリアが、虚空を眺めたまま目を細めたのであった。




