憂鬱な溜息
ソフィア・ノイモントにとって、息子――ソーマ・ノイモントという存在は、天才というものの象徴とでも呼ぶべきものであった。
その立場柄、ソフィアは様々な人物と出会う機会がある。
その中には悪人が居れば善人も居たし、凡人が居れば天才も居た。
公爵家令嬢から始まり、魔導学院を経て、幾多の戦場を駆け抜け……やがて、世界最強の魔導士などと呼ばれるようになり。
だがその過程で出会ったどの人物よりも、自分の息子は才能に溢れていたのだ。
それは息子であるが故の贔屓目などでは決してない。
むしろ息子であり、それこそ生まれた時から見ているからこそ、その異常なほどの才覚に気付く事が出来たのだ。
最初にそれに気付いたのは、夜泣きをまったくしない、ということにふと気付いた時だろうか。
そして考えてみれば、そもそもソーマは、生まれた直後を除き、一度も泣く事がなかったのである。
その異常性は、ソフィアの娘であり、ソーマの妹でもあるリナを育てている時に、はっきりとした。
リナはソーマと違い、昼夜問わず泣いていた、というのもあるが……一歳の子供が泣いてる妹をあやしている光景というのは、どう考えても有り得ないものだろう。
しかもそれは一度や二度ではなく、ソフィアが手が離せない時などに頻繁に起こっていたことであり……そのうちそれに慣れてしまったためか、忙しい時にはソーマに頼むようなことすらあったのだが、後から考えてみれば大分麻痺していたものである。
まあしかしそんなものも、その後のことを考えれば可愛いものであったが。
その後にあった、教育時のことを考えれば。
基本的に教育というものは、スキル鑑定前は受けさせても簡素なものであるのが普通である。
その結果次第では、無駄となってしまうこともあるのだから、これは当然なことだろう。
もっとも、一般的というのであれば、そもそもスキル鑑定後ですら、教育というものを受けられるとは限らないのだが。
この世界には学院というものが存在しているが、それは九歳以降に通うものであり、さらには決して安くない学費が必要だ。
スキル次第では教育の有無は不問とされることもあって、教育を受けた事がない者というのも珍しくはないのである。
だからソフィアの言う普通とは、あくまでも公爵家……というよりは、貴族における普通だ。
逆に公爵家であることを考えれば、教育を受けないというのは有り得ない。
家庭教師を雇い、それで勉強をするというのが普通なのである。
ただそれにしたって、前述の通り、無駄となる可能性があるものはなるべく行われない。
広く浅く、無難な知識を学んでいくのが基本なのだ。
それも、早くて五歳頃から……才覚の片鱗を見つけた親達が、大抵は贔屓目によって行われるものである。
だがソーマは、その教育が『四歳』から始められた。
どう考えても早すぎであるし、それを聞いた全ての人が贔屓目にも程があると思ったことだろう。
とはいえ或いは、そう思ったのが自分だけであれば、ソフィアもそこまでのことはしなかったかもしれない。
だがそう思ったのは、自分だけではなかったのだ。
クラウス・ノイモント。
ソフィアの夫であり、ソーマの父である彼もそう判断したのである。
結局ソーマの親であることに変わりはないが、それを贔屓目などというのは、クラウス・ノイモントという人物を知らない者だけであろう。
公平にして厳格。
クラウスを知る者であるならば、その評価に私情を挟むなど有り得ないと分かるはずだ。
そんなクラウスが……世界最強の剣士などと呼ばれる人物が、その才覚を認めたのである。
ならばソーマはやはり天才であるのだと、そう考えるのは当たり前のことだろう。
そして実際にソーマは、そんなソフィア達の期待に応えた。
応えすぎたと言っても過言ではないほどに。
何せ本来であれば、学院の初等部――三年かけて覚える全基礎課程を、半年足らずで終えてしまったのだ。
いくら多少の検閲を行った上で、さらには武術や魔導といった、実技を必要とするものは除いていたとしても、である。
才覚が云々の話をするなど、既に馬鹿げたことでしかなかった。
ただ、それでもスキル鑑定を急ぐ事がなかったのは、逆にそれでソーマの可能性を狭めてしまうことを懸念したが故である。
確かに早く鑑定すればそれだけ早く動く事が出来るが、スキル鑑定というのは未だ分かっていないことも多いのだ。
そのせいで、より先に進めたはずの道を閉ざしてしまったとなれば、ソフィア達は悔やんでも悔やみきれないだろう。
だからこそ、はやる気持ちを抑えながらも、ソーマが六歳を迎える時を待っていたのである。
――そして。
「……その結果がこれ、か。まったく……本当に、まったく、といったところよね」
呆然とした顔のまま部屋を出て行った息子――否、既にそう呼ぶことすら許されなくなってしまったソーマのことを思い返しながら、ソフィアは溜息を吐き出した。
視線を向けているのは、手元にある一枚の紙だ。
真っ白で上質なそれは高価な代物ではあるが、息子の将来を示すものに惜しむことなど有り得ない。
たとえこれ一枚で、高価な魔導書一冊に匹敵するとしても、だ。
だが折角そんなものを用意したというのに、そこに記されているのは短い言葉一つであった。
――神域の器:完成し完結した証。この魂がこれ以上成長することはない。
これが、ソーマのスキルなのだという。
現在と未来、その全てを合わせて、だ。
剣術も槍術も弓術も体術も、魔導すらもなく、この意味不明なスキルただ一つだけが、ソーマの才能の全てなのだというのである。
大仰な名を持つくせに、そこに意味はない。
そんなスキルが存在していることは知ってはいたものの、まさかソーマがそれを持ち……しかも、それだけだとは。
間違いだと言いたかった。
偽りだと、言って欲しかった。
しかしソーマのスキル鑑定をしたのは、ノイモント家専属のスキル鑑定士だ。
ソフィアの友人でもある彼女がそんな真似をするはずもなく……つまり、これが事実なのだということである。
いや、そんなことは分かっていた。
分かっていたからこそ、ソーマにはこれを伝えなかったのだ。
無意味なものを一つしか持っていないと知るよりかは、何もないと思っている方が、きっとまだマシだろうから。
だが、それでも……そう、それでも。
何かの間違いだと、誰でもいいから言って欲しかった。
ソーマが天才ではなかった、などというのはこの際どうでもいい。
それはただ単に、ソフィア達の目が節穴だったというだけなのだから。
しかし既に事は、それだけで収まるものではなくなっていた。
或いは、ノイモント家が普通の家であれば、まだ何とかなったかもしれない。
別にスキルは生きていく上で必須ではなく、スキルがなくとも出来る仕事は幾らでもある。
そもそも才能の全てがスキルとなるわけではなく、スキルに至らない才能というのも確かにあるのだ。
剣術スキルがなくとも剣を振るうことは出来るし、瞬間記憶スキルがなくとも記憶力のいい人というのは存在する。
ソーマの才能はそういうものだったということなのだろう、などと納得することも可能だったはずだ。
だがノイモント家は、公爵家だ。
しかも四大公爵家の筆頭である。
さらに言うならば、よりにもよって、ソフィアとクラウスの血を引いているのだ。
その嫡男に才能がないなど――基礎スキルすら覚える事が出来ないなど、許されるはずもなかった。
ふと、ソフィアの脳裏に、かつてソーマと交わした会話が蘇る。
それは、ソーマに将来何がしたいのかを聞いた時のこと。
勿論、望んだスキルを覚える事が出来るのかは分からないと言った上でのことであったが――
――我輩、魔法を使いたいのである。
――あら、それなら大丈夫そうね……なら、私がちゃんと教えてあげるわ。
そう言って笑いあった日が帰って来ることはない。
思い描いていた未来がやってくることはない。
否、それどころか――
「……はぁ。こんなことならば、こんな血や称号なんて、欲しくなかったわ……」
嘆いたところで、全ては手遅れだ。
これからのことを思い、ソフィアは、重い重い溜息を再度吐き出すのであった。