歪んだ真実
俯き自らの腕を震わせながら、イングリッドは自分でも説明しようのない感情を持て余していた。
当然というべきか、驚きはある。
馬鹿なと、そんなはずはないという思いは確かにあるのだが……それと同時に妙な納得もしていたのだ。
ふと思い出すのは、今も耳の奥にこびり付いたように離れない嘲笑である。
何度も何度も、繰り返し夢に見たそれは、切欠さえあれば容易に思い出すことが可能だ。
しかし考えてみれば、村の皆はそんな者達ではないのである。
人の不幸を喜び蔑むような、そんな人々ではない。
それは、この村で二十年以上過ごしてきた自分が最もよく分かっていることだ。
だから、不意に思ったのである。
自分の両親は、そんな彼らからすらそんな目で見られ、嘲笑われてしまうようなことをしていたのではないか、と。
頭の片隅で、そんな声が自らに囁いてくる。
そんなことはない、と否定するのは簡単だ。
村の人達のことをよく知っていると言うのならば、それ以上に両親のことを知っている。
両親は悪魔を崇拝するような人達ではなかったし、そんな素振りも見せたことはなかった。
だが、村の皆の様子から考えれば、そういった姿が実は全て取り繕ったものであった、と考えることも出来るのだ。
とはいえそうなると、村の皆はそのことを知っていたということになる。
ずっと共に暮らしていた自分だけが知らないなど、そんなことが――
「……いや? そういえば……」
呟きながら、イングリッドは反射的にそれを取り出していた。
僅かな光に照り返される、鈍色の刃。
父の遺品であり……その命を奪ったものだ。
目の前に掲げたその刃には曇り一つなく、しかし問題なのはその下、柄に彫られた文様である。
それは何かと、かつてイングリッドは尋ねたことがあった。
その時父は、確かこう言っていたはずである。
夜の闇のような瞳を優しく細めながら、自分の信仰を示すものだ、と。
あまりにも昔過ぎる話、イングリッドが小さな子供だった頃のことであったため今の今まで忘れていたものの、考えてみればそれはおかしなことであった。
そもそも聖神教には、こんなものは存在していないからだ。
イングリッドが聖騎士となってからまだ二年に満たない程度しか経ってはいないが、それだけの時間があれば様々なことに触れる機会というものはある。
しかしこの文様を目にしたのは、後にも先にも父の持っていたこの短剣のみであった。
文様とは言いつつも、形状は単純なものだ。
二つの板が直角に交差したような形であり、本当にそれだけ。
だが単純であればこそ、存在しているのならば見たことも聞いたこともないということは有り得ないだろう。
ということは、本当に……?
「父達は、悪魔崇拝者だった、ということなのか……?」
この村の属する国は確かにその大半が聖神教の信徒ではあるが、別にその他のことを信じるのを禁じている、というわけではない。
ただ、国教であるからこそ、何か特別な理由でもなければ自然とその信徒となることが多い、というだけである。
しかしそれでも、明確に禁じられていることはあった。
それは、邪神及び悪魔を信仰対象とすることである。
これは別に珍しいことでもなく、特に邪神を信仰することは大半の国で禁じられていることだ。
厳密には、信仰対象としたところで具体的に何らかの処罰をされるということはないのだが、かつては実際に弾圧されていたということもあって積極的にそれを破ろうとする者もいない。
それに少なくとも、そう公言している者と親しく付き合いたいと思う者はそうそういないだろう。
そして改めて思い返してみれば、イングリッドは父や母から邪神や悪魔を信仰することが禁じられているということを聞いたことがなかった。
明確に禁じられているとはいえ罰則が存在していないそれは、通常親から子へと伝えられるものなのだ。
特にこの国のそれは少し変わっている。
イングリッドは聖都に行ってから初めて知ったのだが、悪魔という存在を他の国の者達はほとんど知らないようだからだ。
イングリッドがそんなこの国にとっての常識とでも言うべきことを知っているのは、村の皆から教わったからなのである。
両親からは、何一つとして教わってはいない。
そうして次々と思い出される事実は、ただ一つのことを示していた。
両親はこの国では禁じられた悪魔を崇拝する者達であり――
「アレも、自業自得だった、ということか……?」
それが事実だとするならば、村の皆は日常の些細なことの積み重ねからそれに気付いていったのだろう。
イングリッドが明確に思いつくのは短剣のことのみではあるが、単純に自分にとっては当たり前すぎて気付いていなかった可能性というのはある。
だがそれでも村の皆が変わらず接してくれていたのは、きっと優しさゆえだ。
「ああ……そしてそれならば、先ほどの皆の態度も納得が出来るな」
不満や不安を押さえ、優しく接してくれたということに違いない。
昨日はきっと、突然やってきてしまったから心の準備が出来ていなかった、ということだ。
それに関してイングリッドがどうこう言えることはない……いや、それどころか感謝すべきなのだろう。
ソーマ達の様子からすると、彼らは自分と共に来たからといって特に不当な扱いを受けたりもしていないようなのだ。
皆の優しさと心の広さに、感謝するしかない。
と、そんなことを考えながらも、イングリッドの目は自然と手に持ったままの羊皮紙に記された文字を追っていた。
それはある種の現実逃避だったのかもしれない。
そこに何かこの思考を否定するようなことが書かれていないかと、それを探すために。
しかし実際にあるのは、その思考を補強するようなものばかりだ。
悪魔の習性や特徴、イングリッドでは聞いたことがないような情報も多く記されており、中でも特筆すべき点はその全てが賞賛で満ちているということである。
他にも悪魔の召喚方法など、目を疑うようなことまで記されており……だがそれは同時に、イングリッドに納得も与えるものであった。
ずっと疑問ではあったのだ。
どうして両親が悪魔憑きになったのか、ということがであった。
悪魔憑きとは、基本的に突然なってしまうものだと言われている。
そこに共通点はなく、分かっていないことも多い。
いや、むしろ分かっていることなどほとんどないと言うべきであり……だが、確実に分かっていることもあった。
それは、悪魔憑きとは同時に二人以上が現れることはない、ということである。
それはある意味当然のことだ。
悪魔憑きが現れるのは、頻度が高くなったと言われている今ですら一月に一度程度。
同時に現れるわけがないのだ。
だというのに、『両親』が悪魔憑きになっている。
そう、父と母の両方が同時になっているのだ。
有り得ないことであった。
だがそれは、何か別の要因があれば解消される問題ではある。
たとえば、悪魔を二体召喚し、それらが両親に取り憑いたということであるならば、少なくともその現象そのものに関しては疑問の余地などあるまい。
問題があるとすれば、それが可能なのかということだが……こうして証拠があって現実に起こっている以上は、可能だということなのだろう。
イングリッドは両親が悪魔憑きとなった状況がどういったものであったのか、ということを知らない。
その時イングリッドは村の周囲の巡回に出ており、何か大きな音がして慌てて村に戻ったところ、既に悪魔憑きとなってしまった両親と遭遇したからだ。
そうしてそこから両親のことを殺すこととなるのだが……実のところ、イングリッドはその時の状況をよく覚えてはいなかった。
夢で見るのはいつも自分が両親を……より正確には父を殺す場面だけだからである。
そこだけを繰り返し見ているためか、その前後は曖昧になってしまっているのだ。
鮮明なのは、両親が暴れたからか、燃えている家が目の前にあるということと、母が地面に倒れ既に事切れているということ。
同じく地面に倒れ、しかしまだ息のある父に、馬乗りになったイングリッドが何度も父から奪った短剣を突き刺しているということだけだ。
どうしてそうなったのかは……確か、暴れている父から短剣を奪ってそのまま馬乗りになり……いや、違ったか?
それでは、既に母が倒れていることの説明が付かない。
イングリッドは村で用心棒の真似事のようなことをやってはいたものの、周囲には大した魔物などもいないことから木剣のようなものしか持っていなかったからだ。
しかし倒れている母は喉から血を流していた。
明らかに木剣によるものではなく、辻褄が合わない。
だがイングリッドがやったのは間違いないはずだ。
何故かその場面をはっきりと思い出すことは出来ないが、その実感だけは明確にある。
「っ……どういうことだ……? 私は何かを忘れて……?」
そんなことはない、勘違いだ、という自らの声が頭の中で囁いてくるも、疑念が晴れることはない。
今までこんなことを考えたことはなかった……というか、避けてすらいたため思い至ることはなかったが、自分は本当は何を――
「――っ!?」
しかしその思考は、強制的に中断させられることになった。
瞬間、僅かにではあるが、轟音のようなものが聞こえたからである。
それは間違いなく村のどこかで発生したものであり……しかも、どことなく身に覚えのあるものだ。
反射的に、両親の時のことが脳裏をよぎった。
「っ……まさか……!?」
まさかとは思うが、何にせよ確認せずにはいられない。
すぐさまそこから外に出ると、素早く周囲を見渡す。
どこから音がしたのかがすぐに分かったのは、煙のようなものが上がっていたからだ。
嫌な予感に背中を押されるがごとく、急いでそこへと向かい……そして。
イングリッドの目に映ったのは、今まさに村人達から襲われようとしているソーマ達の姿であった。




