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少女の決断

 薄暗い空間に満ちていたのは、不満のそれであった。

 声に出すことはないものの、向けられる視線がそれを雄弁に物語っている。


 だがそれを一斉に受けながらも、男は平然とした顔をしていた。

 まるで関係がないといった風を装いながら、平然と今回の分の報告を続けていく。

 まだかまだかと、焦れすら交じり始めた視線に、男はやはり何の反応もすることはなく――


「――私からの報告は以上です」

「――なっ」


 瞬間、複数の人物の口から、思わず声が漏れた。


 しかしそれも当然のことだろう。

 あの日から既に、一月以上もの時間が流れている。

 勿論準備が万全とは言い難いが、それらは第一歩が済んでからでも十分なのだ。


 いや、むしろその後のことを考えれば、それからの方がスムーズにいくはずであり、何よりもそろそろ彼らの方が限界だった。

 いい加減進展というものを見せて欲しいのである。


「おや、何か問題がありましたでしょうか? 今の報告に何の問題もなかったはずですが……それにしては、随分と不満がおありのようでしたし」

「……分かっているくせに白々しいぞ。雌伏の時間が終わると言ったのは貴様ではないか……!」

「ですから、あの時も間もなく、と言ったはずですが。今まで待ったのです。さらに待つことに、今更何の違いがありますか?」


 それは確かに、真実ではあった。

 あと一年経とうとも、それは今更だろう。


 だが。


「そういうことでは……!」

「いえ、申し訳ありません。今のは私の失言でした。さすがの私も、つい嬉しさが隠しきれないようです」

「……何?」


 怪訝を感じたのは、一瞬。

 直後にその意味を理解し、驚愕を浮かべた。


「……まさか?」

「ええ。お待たせしてしまったことは心から申し訳なく思いますが、こちらもようやく準備が整ったのです」

「では……!」

「はい。今日これから最終的な確認をしてきますし、彼女次第ではありますが……そうですね。早ければ一週間後には、始めることが出来るでしょう」

「――なっ」


 再度、複数の口から声が漏れたが、今度のそれは違う意味のものであった。

 あまりにも早すぎたからだ。


「来週に、始まるだと……!?」

「馬鹿な、まだこちらの準備は終わっていないぞ……!?」

「ええ、ですから、くれぐれもお急ぎください。そうでなくては、その分遅れてしまいますから」

「くっ……貴様、そういうことならばもっと早くに言え……!」

「申し訳ありません。出来るだけ皆様を驚かせようと思いまして」

「ああ、貴様の目論見通り十分以上に驚かされたわ……!」


 言葉ではそう言っていたものの、その声音は明らかに喜びが含まれていた。

 当然だ。

 それは即ち、本当に雌伏の時が終わるということなのだから。


「では、皆様抜かりなく。全ては魔王様のために」

「魔王様のために!」


 薄暗い中に、歓喜を隠しきれない叫びがこだました。









 眼前の光景を、アイナはぼんやりと眺めていた。


 ソーマとリナの手合わせ……いや、あれは既に二人の剣舞だろう。

 舞い踊っているようにしか見えないそれを、ただ見惚れながら見つめる。


 もっともおそらくはリナ自身に、その自覚はないだろう。

 必死に、真剣に繰り出されていく斬撃は、間違いなくソーマに当てることを狙っていた。


 だが巧みに身体を動かすソーマが、そうはさせない。

 先週はついにリナがソーマに受け止めさせ、ついにリナがソーマに追いついたのかと思ったが、またその差は開いたようにも見える。

 ソーマが手加減をしていたのか、或いはソーマもまた未だ成長しているのか。

 どちらなのかは分からないが、何にせよリナがソーマに追いつくにはまだまだ時間が必要そうなことに違いはなかった。


 そして気が付けばそんなことが分かるにまで、アイナの目もまた鍛えられている。

 ろくに二人の動きも追えなかったのに、今はしっかりと追いかけられているのだ。

 本人は自覚していなかったが、アイナもまた確実に成長していた。


 とはいえそれを自覚したところ、アイナはやはり喜ばなかっただろう。

 それはアイナが望んでいる成長ではないからだ。

 二人の動きを目で追いながら、そっと溜息が吐き出されたのも、それが理由であった。


 端的に言ってしまうならば、二人は着実に成長しているのに、自分は……と、そんなことを考えているのだ。

 繰り返すが、アイナもきちんと成長はしている。

 それは勿論、魔法方面でも、だ。


 少なくともその成長ぶりは十分特級の名に恥じないものだし、逆に誇れるほどのものだろう。

 他の者がそれを知れば何を贅沢なと思い、才能の差に心をへし折られるかもしれない。

 しかしそれを知って尚、アイナは同じことを思うだろう。


 だって事実、足りていないのだ。

 ソーマが望んでいるように、ソーマに魔法を使わせてあげることが出来ていない。

 アイナにとっては、それが全てであった。


「……はぁ」


 溜息と共に、ふと思う。

 もう諦めてしまおうか、と。

 それはここ一月以上もの間、ずっと考えていたことでもあった。


 結局ソーマには何も返せていない――ソーマ本人が何と言いどう思っていようともアイナ自身はそう思っているが、それでも無理なものは無理なのだ。

 だから謝って……そして、二度とここには来ない。

 そんなことを考える。


 もっとも、それは多分アイナ一人であったら考え付かないようなことであった。

 そう思うようになったのは、あの日あんなことを言われたからだ。


 ――魔王様のところへ、そろそろお戻りになりませんか?


 あの、顔見知りの男――アルベルトから。


 ――端的に言ってしまうのであれば、アイナは、所謂魔族と呼ばれる存在であった。

 とはいえ、厳密には彼女達が自分達のことをそう呼称することは基本的にはない。

 魔族は蔑称であって、そのことをよく理解しているからだ。


 同様に、勝手に名付けられた名称も、厭う事はあってもそれを歓迎し口に出すことはない。

 こちら側の地名や、村の名などである。


 ただ、その中でも二つだけ例外があった。

 それが、魔王と魔天将だ。

 この二つだけは、人類側が畏怖を込めて呼んだもののため、いつしか望んで口にするようになっていた。


 魔王とはその名の通り魔族を統べる王のことであり、魔天将とは彼の者に付き従う魔族最強の存在達のことだ。

 ちょうど人類側で言うところの、七天、或いは七天の王などと呼ばれている者達と似たような存在である。


 違いがあるとすれば、それは数か。

 七天は名前の通り七人なのに対し、魔天将は四人なのだ。

 ただこれは魔族と人類との人数比を考えればむしろいい方だろう。


 実力の方も、負けてはいない。

 十年以上前に、魔天将の一人が七天の一人に滅ぼされてしまったが、それは相手が七天の中でもさらに最強の名を冠する者が相手であったからだとされているのだ。

 逆にそんな者を相手に一人の命で済ませたのだと、魔族側ではそう評価されていたりもする。


 ともあれ、そういったわけで魔王や魔天将とは、魔族の中では天上人であり、絶対の存在なのだ。

 そしてあのアルベルトは、そんな魔天将の一人であった。


 そんな相手から、戻ってこないかと誘われたのである。

 皆からの失望に耐え切れず、逃げ出した人間が。

 普通であれば、即返答をしていたところだろう。


 だがアイナはその返答を保留とした。

 魔法が使えるようになったとはいえ、まだあの恐怖は心の底に残っていたというのもあるし……何よりも、楽しかったのだ。


 ソーマと居るのは、楽しくて、嬉しくて、離れたくてなくて……さらに、悩んでいる間に、もう一人過ごしていて楽しい人が――そう言っていいのかは分からないけれど、友人が、出来てしまった。

 悩みは解決することなく、増してゆくばかりだった。


「それでは、また明日なのである」

「またなのです!」


 そんなことを考えている間に、今日も別れの時間となってしまった。


 最近では本当にアイナは考えてばかりだ。

 二人が打ち合っている間だけではなく、ソーマと色々試している時ですら、ふとした拍子に考え出してしまうのだから、どうしようもない。

 まあそれは、そろそろ試すべきことを試し尽くしつつある、というせいでもあるのだろうが。


 しかし。

 いい加減、それも限界だろう。


「……うん。それじゃ」


 だから、敢えて再会の言葉は口にしなかった。

 どうするべきか、まだ迷っていたから。


 それでも、そのまま二人へと背を向けた。

 何となく、二人が何かを言いたげだった気がするけれど、無視して。

 そのまま、歩き出して、去っていって――


「――さて、そろそろお答えは決まった頃かと思いましてやってきましたが、如何でしょうか?」


 唐突に姿を現したアルベルトに驚かなかったのは、何となく予感がしたからだろう。


 そして、ふっと腑に落ちた気がした。

 アルベルトの顔を見て、それだけで、理解してしまった。

 自分が本当は何を悩んでいたのかを。


 それがとても単純なものだったから、思わず笑ってしまっていた。


「……姫様?」

「ああ、ごめんなさいね。別にアルベルトを笑ったわけじゃないの。ただ……あたしは何でこんなくだらないことを悩んでたんだろうって、そう思っただけなのよ」


 そう、そんな自分の馬鹿さ加減が、おかしくなったのだ。


 最初から悩む必要などなかった。

 最初から、答えなど決まっていたのだから。

 だから。


「――では」

「ええ。あたしは――」

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