遊びの終わり
視線の先で腕が振り上げられたのを認識した瞬間、ヒルデガルドはその場から大きく飛び退いていた。
攻撃をかわすためというよりは、その後の硬直時のためだ。
戦線から一時離脱してしまうぐらい距離が開いてしまうが、それも仕方のないことである。
大袈裟すぎるぐらいでないと、直後の攻撃を食らってしまうのだ。
ヒルデガルドも龍の鱗を持ってはいるものの、正直言って気休め程度のものである。
概念攻撃でなくとも、ある一定以上の攻撃であれば貫かれてしまうぐらいなのだ。
当然あれの攻撃を防げるわけもなく、実際幾度も傷を負っていた。
それでもヒルデガルドの身体に傷がないのは、治癒能力によって癒えたからである。
これまたそこまでの効力はないが、龍であった時に持っていた治癒能力も受け継いでいるのだ。
さすがに腕が消し飛んだとかいうことになれば治せはしないが、この程度であれば問題はない。
だから問題はないにも関わらず、ここまでして攻撃を食らうまいとしているのは、どちらかと言えば心情的なものが理由であった。
というのも、龍というのは自身の身体を傷つけられることを事の他嫌うのだ。
そしてそれもまた、龍が最強という概念をその身の核としているがゆえである。
最強であるからこそ、誰かに傷つけられるということを許せないのだ。
傷つけた相手と、何よりもそれを許してしまった自分を。
もっとも、それも厳密に言えば相手によるのだが。
龍は最強であるからこそ、基本的には闘争相手を望んでいる。
自らが最強であることを証明するために……或いは、自らの力を超えてもらうために。
龍は最強を望まれた存在であるがゆえに、誰かが自身を超え本当の最強となってくれることを、心のどこかで望んでいるのだ。
しかしだからこそ、余計に望まぬ相手に傷つけられるのを嫌うのである。
当然ながら、ヒルデガルドはアレに傷つけられたいなどとは微塵も思っていない。
傷つけられるたびに嫌な気分になるし……例えるならば、タンスの角で小指をぶつけた時程度には腹が立つ。
その程度我慢しろと言われるかもしれないが、生憎とそれも龍としての本能から来るものなのだ。
思うのは避けられないし、避けようとも思えない。
ついでに言うならば、それを晴らそうとすら思ってしまう。
そんな本能任せに突っ込んだらどうなるかなど、考えるまでもないことだ。
状況が好転するならばともかく、どう考えても悪化しかしない以上、こうするのが最も無難ということになり……こちらがそんな判断をするしかないということは、向こうも勿論知っている。
「っ、フェイントとは小癪なのじゃ……!」
視線をこちらに向けたまま、腕はリナへと叩きつけられた。
甲高い音が響き、咄嗟にリナが剣で防いだのだということが分かるも、攻撃はそこで終わらない。
引き絞られていた逆側の腕が突き出され、盾代わりとしていた剣ごと、リナの身体が吹き飛ばされた。
その方角がヒルデガルドの飛び退った方角と同じだったのは、わざとだろう。
合流する手間を省いてくれたというわけである。
当然親切心からではなく、こちらが余計なことをするのを防ぐためだ。
別々の場所へと吹き飛ばされれば、そのまま二手に別れどちらかがこの場を抜けようとするだろうということを、把握されているということである。
ヒルデガルドがこうして距離を開けているのは、チャンスがあればそのまま離脱するつもりだからということも、だ。
既にリナ一人で残していったら云々とか言ってられる状況ではないのである。
「っ……さすがにそろそろ厳しくなってきたのですね」
そうして相手の様子を確かめながら、しかし近くの場所に着地したリナから発された言葉に、ヒルデガルドは首を傾げた。
相変わらず向こうはこちらに対しての最適化が進みつつあるが、それでも圧倒されるほどではないと思うからである。
あまり進んでやりたいとは思えないとはいえ、まだヒルデガルドを一時的な盾役のようにして使うことは可能だ。
攻撃をしても傷つけられはしないが、リナの攻撃と合わせることで幾つか利用法もある。
事実、向こうが攻撃をすることの方が多くなってきたとはいえ、今も変わらず凌ぐことは出来ているのだし――
「ふむ……スタミナ的な心配、というわけではないのじゃよな?」
「はい、スタミナ的にはまだまだいけると思うのですが……問題はこっちなのです」
そう言ってこちらに差し出すようにして見せてきたのは、リナの持つ剣であった。
そしてそれを見て、ヒルデガルドはなるほどと納得する。
その刀身の所々に罅が入り始めていたからであった。
「それは確かに厳しそうなのじゃ」
「なのです。父様達に用意してもらった、それなりにいい剣なはずなのですが……」
「アレの攻撃はどちらかと言えば龍の攻撃に近いものじゃからな。概念的な攻撃ではないものの、それに近い。どれだけの業物であろうとも、受け続ければそうなるのは道理じゃな……」
リナの腕の問題ではなく、単純に武器の方の問題だ。
あれを完璧に捌くためには、ドワーフの作った武器でもなければ無理だろう。
とはいえそんなものは、当然のようにここにはない。
大国の超一流と呼ばれるような店にすら、置いてあるか分からないような代物なのだ。
ドワーフはそもそもの数が少なく、ドワーフの打つ武器は超一流ではあるが、当人達が偏屈であることが多い。
リナならばその腕を見せれば認めるドワーフもいそうなものだが……何にせよ言っても詮無きことだ。
そんな現実逃避気味に考えたことではなく、今はこの状況をどうするかを考えるべきである。
「それはあとどのぐらい持ちそうなのじゃ?」
「そうですね……多分あと数回も持たないと思うのです」
「……思ったよりも少ないのじゃな。見た目的にはもっと持ちそうなものなのじゃが」
「見た目以上に中がボロボロなのです。ここまで何とか騙し騙しやってきたのですが、さすがに限界みたいなのです……」
「ふむ……」
アレ相手にそんなことが出来る時点で、やはりリナの腕は超一流に近い。
もっと経験を積んでさえいれば、アレ相手でも十分勝機はあっただろうに――
「ちなみに、一応聞いておくのじゃが、裁定者の方の知識では」
「どうにもならない、とのことなのです」
「うーむ……何と言うか、本当に使えんのじゃな……」
持っている知識はヒルデガルドが知っているものばかりだし、力としてこの状況で使えるものはない。
人類の裁定者などという大層な名だけは持っておきながら、肝心なところで役に立たない存在である。
「……そういうことを言うと、わたしに反論が物凄く来るので止めてほしいのです。本来はもっと色々スキルを覚えられるはずだったとか、わたしに言われてもどうしようもないのです」
「うん? 覚えられるはずだった、ということは、裁定者は裁定者でもアズライールじゃったか」
「はい? アズライール、なのです?」
「む、まだそれに関しては聞いていないことじゃったか。まあ、興味があるようならば後で聞いてみるといいのじゃ。あまり愉快な話にはならんじゃろうから、聞かん方がいいとも思うのじゃが」
死者の能力を自身の能力にする存在、などと言われて、気分がよくなるはずもない。
とはいえそれは、リナ達の事情だ。
嫌そうな顔をされるも、肩をすくめておく。
「そういうことを言われると、物凄く気になるのですが」
「余計なことを言ったのは悪かったのじゃが、それよりも今は優先して考えなければならんことがあるじゃろう?」
「まあそうなのですが。先ほど三回ほど物凄い音と共に地面が揺れたのも、空での戦いが止んだのも気になりますし。あれって母様達だったのですよね?」
「そうじゃな。多分戦う場所を変えたのじゃとは思うのじゃが……」
おそらくあれは自分のことを待っていたのだろうが、どうしようもない。
そもそもこの状況をどうにか出来るかということすらも分からないのだ。
急ぐでもなく、ゆっくりとこちらに向かってくる視線の先のその姿からは、余裕すらも感じられる。
「ったく、腹立たしいのじゃが……さて、どうしたものじゃろうな」
正直なところ、アレの対応速度は本当に異常だ。
有り得ないと言ってもいい。
何度も言っているが、元が龍であったことを考えれば、あんなこと出来るわけがないのだ。
或いは、弱い固体であったのならばまだ分からないが、それであればここまでの力が出せる理由が分からないし、そもそも弱い龍であったならば龍人になれるわけもない。
龍が龍人に堕ちるには、転生を可能とするだけの力と、強い意志が必要なのだ。
逆らえる程度に弱い本能しか持たない個体が、転生出来るわけがないのである。
となれば、可能性として考えられるのは一つ。
何らかの手段で、死ぬ前に龍としての本能を捨てたということだ。
例えば……自ら死を選んだ、とかである。
最強の幻想を体現した存在である龍に、自ら死を選ぶことが許されるわけもない。
もしそれを無視し、死を選ぶことが出来たか、或いはその真似事のようなことをすることが出来たのであれば、本能を無視するようなことが出来るようになっていても不思議ではないだろう。
もっとも、その前提条件からして、やはりほぼ不可能ではあるはずなのだが。
それでも出来たというのであれば……その意思というのは、果たして何から――
「……どうやって死ぬかという相談は終わったか?」
近くにまで来るなり、それはそんな声をかけてきた。
冗談なのか何なのかは分からないが、あまりのつまらなさにヒルデガルドは鼻を鳴らす。
「つまらんし、くだらん冗談なのじゃ。そもそも、貴様の役目は我らの足止めだったように見えたのじゃが?」
「その通りではあるが、別に殺しては駄目だとは聞いていない。そもそも今まで殺そうとしなかったのは、そこまでのことをする義理がなかったからだ」
「今はその義理が出来た、ということなのです?」
「ふんっ……つまらんし、くだらんと思っただけのことだ。ここまで付き合ったが、アレも好き勝手やっている。ならば、そろそろ我も好きにやっても構わんだろう」
どうやらその言葉は本気のようであった。
今までは敢えて抑えられていた殺気が溢れ出ている。
だがそれを目にして、ヒルデガルドはリナへと目配せをした。
リナも小さく頷き返してきたあたり、どうやら理解してくれているようである。
多分、今が最後にして最大のチャンスだということに、だ。
適応する速度が早いとはいえ、先ほどまでは確かに慣れていなかったのである。
慣れてきたのは、こちらを殺す気がなかった動きだ。
殺そうと動くならば、そこに隙が出来る可能性は大きい。
しかしそれを悟られないように、ゆっくりと構える。
先ほどまでと変わらないように――
「……そうか。積極的に死を望むというのならば、こちらとしては望むところだ。さあ、このくだらない遊びを終わらせるとしよう」
先に動いたのはヒルデガルドであった。
後のことを考えず、ただ全力で突撃をしかける。
攻撃である必要はない。
いや、そのままぶつかればきっと本能は攻撃だと判断するだろうが……それでも問題はないのだ。
相手の意表を突けさえすれば。
そして見事にそれは成功したようだった。
今まで前にほとんど出ないようにしなかったから分からなかったのだろうが、本来ヒルデガルドは前衛だ。
リナに凌がれていたというのに、ヒルデガルドの動きに反応出来るわけがない。
突撃し、激突し、直後にヒルデガルドの身体が硬直する。
同時に……目を驚愕に見開きながら、相手の身体も硬直していた。
それはヒルデガルドにとっても驚きではあったが、間違いなく千載一遇のチャンスだ。
「リナ!」
「分かってるのです!」
ほぼ同時に動いていたリナが、飛び込み――視界に映っていた顔の口元が、弧の形に歪んだ。
その意味に気付き叫ぶよりも早く、何かが壊れたような音が響く。
「……え?」
それは、リナの振るった剣だ。
相手の身体を斬り裂くはずだった刃は砕け、代わりとばかりに、リナの身体には赤い爪痕が残されている。
その眼前にあるのは、腕を振り抜いた格好のそれの姿。
「なん、で」
「ふんっ、この程度のことに引っかかるのだから、本当にくだらん遊びだったな」
「っ、させんのじゃ……!」
硬直が解けた直後に、慌ててリナの前に身体を滑らせたが、それすらも予想通りだったようだ。
固められた拳が、ヒルデガルドの身体へと突き刺さった。
「ごほっ……!」
くの字に折れ曲がった身体は、さらに硬直することによって、完全に無防備な姿をその場に晒す。
冷たいだけの瞳が目の前にはあり、心底くだらなそうに細められた。
「ふんっ……終わりだ」
瞬間脳裏を過った、死、という言葉に、これはもうどうしようもないな、と思う。
そして諦めるように目を閉じかけ――
「――諦めるのが早すぎではないであるか、貴様」
聞き覚えのある声と共に、目の前からそれの姿が消えた。
遅れて聞こえた轟音に、それが吹き飛ばされたのだと気付き、声の聞こえた方向に呆然とした目を向ける。
そこには予想通りの姿が、腕を振り抜いた姿で立っていた。
「……ソーマ?」
信じられないような、疑問を含んだヒルデガルドの声に、見覚えのあるまま、いつも通りに、ソーマは肩をすくめてみせたのであった。




