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再臨せし魔

 不意にソフィアは、空を見上げた。

 視界に広がるのは真っ青な空であり、いつも通りの空だ。

 不審さなど微塵も感じられないものであり――


「……ソフィア? どうかしたのか?」


 声に視線を向けてみれば、夫のクラウスが真剣な目でこちらを見ていた。

 どうかしたのか、などと言いながらも、何があったのかを既に理解しているような目である。


 一瞬、何も、と答えようとした。

 そしてそれは事実である。

 実際何も起こっていないし、その前兆すらないのだ。


 だが。


「そうね……ちょっと嫌な予感がしたのよ。ただの勘なのだけれど……」

「……そうか」


 そう言って頷いたのは、ただの相槌ではないようであった。

 どちらかと言えばそれは、同意を示すようなものであり――


「なら、俺の方も気のせいというわけじゃなさそうだな」

「あら、あなたも?」

「ああ。……どうやら、ゆっくりしている暇もないようだ」


 クラウスがここに到着したのは、つい先ほどのことであった。

 確かに二人の勘が気のせいなのでなければ、このまま休む暇もないということになる。


 もっとも、到着するなりこうして警戒に出ているあたり、最初から休む気はなさそうであったが。


「一応報告しておいた方がいいかしらね?」

「……いや、不要だろう。所詮勘という不確かなものでしかないからな。それに、あいつならば言われずとも勘付いているだろう」

「……それもそうね」


 一瞬、さすがにあの頃と同じものを望むのは酷ではないかと思ったが、すぐに自分の方が間違っていたということに気付く。

 確かにあの頃と同じようにはいかないだろうが、この程度のことを感じ取れないほど鈍ってしまうようならば、あの頃魔王討伐隊に選ばれることはなかっただろう。


 色々な思惑があって作られたものではあったが、当時は本気で魔王を倒すつもりだったし、倒せると思えるような人材が集まっていたのだ。

 とはいえ……結果的に言ってしまえば、それは過信だったと言えるのだろうけれど。


「ところで、一つ聞いておきたいのだけれど、あなたは今回の件についてどう考えているの?」

「そうだな、俺も詳細な話を聞いたのは先ほどだから、半ば勘交じりになるが……正直、かなり嫌な感じがしてる。まるで、あの時のように、な」


 あの時、というのがいつのことを指しているのかは、すぐに理解出来た。


 今までのソフィアの人生は、決して順風満帆とは言えない……どころか、失敗ばかりであったが、中でも最大且つクラウスと共有出来るようなことなど、一つしかないからだ。

 それは魔王討伐隊として行動している時のことであり……おそらくは、自分達が人生最大の挫折を味わった時のことである。


 魔王と戦い、惨敗してしまった時のことだ。


 魔王討伐へと赴かず、その途中でラディウス王国を建国したソフィア達であるが、実は一度だけ魔王と戦ったことがあった。

 とある理由により勇者達と別行動を取っていたのだが、それは魔王の罠であり、対峙せざるを得なくなってしまったのだ。


 もっとも、その時のソフィア達の心境としては、好機というものではあったが。

 どう考えても魔族の領域を通り抜けるなど、ただでは済まないということが分かっていたからだ。


 だから、ここで倒す事が出来れば全て終わると、戦いを挑み……結果から言ってしまえば、ソフィア達は手も足も出なかった。

 明らかに魔王は遊んでいたというのに、それでも傷一つ負わせる事が出来なかったのだ。

 幾ら勇者達がいなかったとはいえ……それはソフィア達の心をへし折るのに、十分な出来事だったのである。


 それでも旅を続けることは止めなかったし、その途中でベリタス王国に反旗を翻し、ラディウス王国を建国することになったわけだが……その理由の一つにその件があったことは間違いないだろう。

 何故ならば、虐げられていた人達を助ける必要があったとしても、その時点でラディウス王国を建国する必要はなかったからだ。


 ベリタス王国の非道に限界を迎えたのは確かである。

 しかし魔王とどちらを優先すべきかと言えば、間違いなく魔王であった。

 それなのに建国を選んでしまったのだから、ソフィア達の心に恐怖と逃げがあったのは確実だ。


 そして彼らはきっと、そのことを知っていた。

 だから――


「……もしも、あの時のようなモノが相手だったとしたら、私達はそれと戦う事が出来るのかしらね?」

「当然だろう? そういう時のために、俺達は力を磨いてきた。……あの時俺達は、確かに逃げ出した。だがその結果あるのが、今だ。だからこそ、今度こそ逃げずに守ってみせる」

「そうね……そう出来たら、いいわね」

「というか、今更の話だろう?」

「え?」


 どういう意味か分からず首を傾げれば、クラウスは珍しく、戦闘の最中というわけでもないのに表情を動かした。

 その口元を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべる。


「俺達は、あの邪龍を相手にしても、逃げることはなかった。まあ、勝つことは出来なかったが……逃げなかったことに変わりはない。一度出来たことだ。ならば、今回も出来るさ」

「……そうね。ええ……そうしましょう」

「ああ」


 頷いたクラウスに頷きを返し、こちらもまた不敵な笑みを浮かべた。

 少し不自然な形となってしまったかもしれないけれど、それは決意表明でもある。


 嫌な予感は収まることなく、むしろ少しずつ強くなっていく。

 だがそれに負けることのないよう、ソフィアは力強い瞳を、空へと向けるのであった。








「さて、では始めるとするか」


 誰に告げるでもなく、魔王はポツリと呟いた。

 薄い闇の広がる中、その口元を吊り上げる。


「……ようやくか。随分と時間がかかったものだな」

「そうだな。確かに、本来ならば一週間は早く始めるつもりだったのだが……面白いことが分かってな」

「面白いこと……?」

「ああ。……どうやら俺の力は、人間に恐怖や絶望を与えると増すようだ」

「――なっ!?」


 訝しげな視線を向けていたそれの目が驚きに見開かれるのを、魔王は楽しげに眺めていた。

 予想通りの反応を返したそれに、口元を歪める。


「貴様……それはまさか……!?」

「ああ。貴様と同じではあるが、貴様の方のそれではないであろうな。おそらくは……あの方と同じそれだ」

「……っ」


 何処か得意気な顔をする魔王に、殺気じみた視線が向けられる。


 だが魔王にとっては、それも予想通りのものであり、また楽しげなものだ。

 くつくつと、ついには笑いを漏らすと、そのままの顔をそれへと向ける。


「この力が使えるようになった時から、もしやとは思ったが……くっくっ、これは魔王というよりは、あの方の後継を名乗った方が良いかもしれんな」

「貴様……!」


 今度こそはっきりとした視線が向けられ、しかし魔王はつまらなそうに肩をすくめる。

 小ばかにしたように、ふんっと鼻を鳴らした。


「冗談に決まっているだろうに、そういきり立つな。あの方の後継などやってられるわけがあるまい」

「……当然だ」

「貴様の思っていることと俺の言っていることの意味はおそらく違うのだろうが……まあ、よいだろう。どうでもいいことだ」

「ふんっ……」


 同意するように鼻を鳴らすと、言葉の先を促すようにそれが視線を向けてきた。


「それで、力を高めるために準備をしていたということか?」

「はっ、まさか。軽く眺めてみたが、俺の相手になるようなものなど何処にもいなかったのだぞ? わざわざそんなことをする必要はあるまい」

「……では何をしていた?」

「そうは言っても、力を高める機会があるならば、活用すべきであろう? 業腹ではあるが、俺が全盛期の力を取り戻したところで、アレに勝てるかは分からん。ならば今のうちに、少しでも力を高めておくべきだ」

「準備は準備でもその準備ということか……やはり、変わったな」

「やり方が変わっただけよ。俺自身は何一つとして変わってはいない」


 そう言って、魔王は歩き出した。

 少し遅れて足音が続き、二つ分の足音がその場に残響していく。


「さあ、刻は来た。万雷の拍手で以て迎えるがいい。絶望と恐怖という名のそれは、俺を称えるに相応しい」


 芝居染みた動作で両手を広げ、瞬間、薄暗い闇が晴れた。

 視界に広がったのは、蒼い空と眩いばかりの太陽であり……その下に、人間の住む町並みが広がっている。


 魔王はそれを眺めながら、口元を大きく開き――


「刮目せよ――魔王再臨の刻なり」


 宣言するように、世界へと向け、そう告げたのであった。

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