兄妹喧嘩のその後で
ふと気が付くと、空を見上げていた。
視界に映るのは蒼と緑の混在模様で、背中には地面の感触。
なるほどまたなのかとリナが気付くのに、大して時間は必要としなかった。
ただ前回と異なるのは、もう立ち上がろうという気概が湧かないということだろうか。
全身を倦怠感が包み込み、反面何処にも痛みがないのがそれを後押しする。
そう、何処にも痛みはないのだ。
元々頭しか叩かれていないというのもあるが、その頭もまるで痛まない。
それだけでも、どれだけ適切に加減されていたのかが分かろうというものだ。
改めて考えるまでもなく、完敗であった。
ただの手合わせ、鍛錬だということを考えれば、勝ち負けを考えること自体が間違っているのかもしれない。
しかしリナは、そうは思わなかった。
少なくともリナは、全てを出し尽くしたのだ。
その上で、完膚なきまでにやられたのである。
言い訳のしようもなく、今までの全てを否定されたような気がした。
だが。
「ふむ……最後の一撃は見事であったな。正直、紙一重だったのである。剣筋は打ち込むたびによくなっていっていたであるし、やはり才能あると思うのだ」
「……あ」
その時視界にソーマの顔が映り、覚えのある衝撃を頭部に感じた。
しかしそれは、当然のように叩かれたわけではない。
頭に掌を乗せられ、撫でられたのだ。
そして放たれたその言葉は、捉えようによっては皮肉とも思えるものであったかもしれない。
だがリナがそう思わなかったのは、それに聞き覚えがあるからだ。
そうだ……二年前のあの時にも、同じ言葉を聞いた。
何故だか忘れていたそれを思い出して、同時にリナは納得する。
負けたくなかった理由が、全てを否定されたような理由が分かった気がするからだ。
それと共に、最後まで残っていた力が抜けていくのを感じた。
気を張る必要がない。
それを理解したからである。
「ふぅむ……それにしても、やはり人との手合わせというのは有意義であるな。我輩も随分なまっていると再認識させられたのである。やはり時折やっておくべきであるか……まあ、さすがに厳しいであろうが」
その言葉を聞いた瞬間、リナの脳裏にふとあることが過ぎった。
しかしそれは、過ぎっただけだ。
実行に移すことはない。
だってそうだろう。
それは――
「まず相手がおらんであるしな……ふむ、どこかに可能な相手がいれば、頼むのもやぶさかではないのだが」
そこで、ちらりと視線を向けられた気がした。
一瞬、されど気のせいと呼ぶにはそれははっきりとしていて。
その意図は明白であった。
でも本当にそれはいいのだろうか。
望んでもいいのだろうか。
わがままを言っても、いいのだろうか。
そう思って、だけどその顔はそれを肯定しているようにしか見えなくて。
それは願望が見せた、ただの気のせいだったのかもしれないけれど。
それでもいいかと、そう思えたから……リナはその言葉を、口にするのであった。
「あ、あの……兄様――」
――わたしがその相手になるのです!
リナがそう告げるのを、アイナは離れた場所から聞いていた。
そして溜息を吐き出したのは、聞いていたが故だ。
あそこまでやってまだやるつもりなのかと、そう思ったからである。
或いは、あそこまで出来たからなのかもしれないが。
そこに含まれていたのは呆れであり、またある種の羨望でもあった。
誰に言われるまでもなく、アイナではあの二人の相手は出来ないということが分かっていたからである。
一目見た時から分かっていたことではあったが、リナは明らかに特級所持者……場所によってはギフトホルダーなどと呼ばれる存在だ。
アイナもそうではあるが、魔導スキルのギフトホルダーは、あくまで魔法に秀でているに過ぎない。
接近戦では、下手をすれば上級にすら勝てるかも分からないのだ。
あの二人に混ざるなど、できるわけがなかった。
だがそう思いつつも、嫉妬に至らなかったのは、自分には自分にしか出来ない事があるということが分かっていたからだろう。
アイナにはリナと同じことは出来ないが、リナにもアイナと同じことは出来ないのだ。
まあ何にせよ、短くも妙に長く感じたソーマ達の手合わせ――何処か、兄妹喧嘩のようにも見えたそれは、ようやく終わりを告げたのである。
どちらかと言えばリナが一方的に駄々をこねていただけだったのかもしれないが……ともあれと、アイナはもう一度溜息を吐き出した。
「さて……それじゃああんた達のやり取りも見終わったことだし、あたしはそろそろ帰るわね」
「む、そうであるか……もう少し色々試したいことがあったのであるが」
「それってわたしのせいなのです? ……ごめんなさいなのです」
「別にリナさんが謝ることじゃないわよ。あんな馬鹿げたことされたんだから、どうせあれ以上やることはなかっただろうし」
「ふむ? そうであるか? 別にあのぐらいいつものことな気がするであるが」
「だからこそだってことにいい加減気付きなさいよ……!」
本当に毎回毎回何処からそんなことを思いつくんだというようなことをソーマは要求し、試しているが、その大半は下手をすればソーマの身に危険が及ぶようなものなのだ。
本人は、何かあっても我輩がちょっと痛いだけなのである、などと言ってはいるが、当然のようにそうかと納得出来ることではない。
こっちはこっちで気が気ではなく、幾ら貸しの分だと言われたところで、さすがにそろそろ本気で止めようかと思うほどであった。
「だがそう言われたところで、普通にやっていては魔法が使えないとなれば、多少危険であろうと迷わずやるしかないのである」
「……兄様らしいのです」
「ちょっと? そこは誇らしげに微笑むところじゃないわよ? 大丈夫? 色々な意味で」
というか、現れた時とは大分雰囲気が変わったものであった。
憑き物が落ちたというか、すっきりしたというか。
まあ何となく、こちらの方が本来の彼女なのだろうとは思うのだが……この兄にしてこの妹あり、ということなのかもしれない。
「……はぁ。ま、ともかくまた明日ね」
「ふむ……まあ、そう言われてしまえば仕方のないことではあるな。うむ、また明日なのである」
「わたしはさすがに明日は来れないとは思いますけど……またなのです」
リナは本来家庭教師の授業があるところを抜け、ここにやってきたらしい。
だからさすがに明日も来るわけにはいかず、だがソーマと手合わせをするため、またそのうち抜けてくる。
そういうわけでの、また、ということらしかった。
ちなみに色々な意味で大丈夫なのかと思うが、どうにもその家庭教師は体面を非常に気にするらしい。
そのため、その彼女以外の者に気付かれる前に戻れば、問題にはしないだろうとのことだ。
授業そのものに関しても、当たり障りのないものを教科書通りに進めるだけなので、予習しておけば聞く必要すらないとのこと。
実際既にそうなっており、ついでに言うならば、彼女の授業は常に朝一と決まっている。
そういったこともあって、今後ある程度の期間内で定期的に来れるだろう、とのことであった。
まったくしっかりしているというか、末恐ろしいというか。
それを聞いて、ああ、ソーマの妹だな、とか真っ先に思う辺り、大分毒されてきているとも思うが。
「それじゃ」
ともあれ、そうして二人に背を向けると、アイナはそのままその場から去っていった。
背後から二人の話す声がしばらくは聞こえるも、それもやがて消える。
自分の足音以外には、時折風が木々を揺らす音しか聞こえず……アイナは大きく溜息を吐き出した。
脳裏を過ぎるのは、二人の先ほどの立会い。
いや、正確に言うならば、それは今までずっと消えずに残っていた。
思い出す必要すらなく、鮮烈にそれは記憶に焼きついている。
――凄かった。
端的な、だが故に万感のこもった思い。
リナはさすがだ。
剣術のギフトホルダーだけあり、そのほとんどをアイナは目で捉える事が出来なかった。
あんなのと相対したら、アイナでは一瞬ですら持つかは怪しいだろう。
だが何よりも凄かったのは、そんなリナをまったく寄せ付けなかったソーマだ。
とはいえソーマの動きは、実際にはそれほどでもなかった。
何故ならアイナの目ですら追えるものだったのだ。
何処にも不思議なところはなく……しかしだからこそ、その異様さが際立っていた。
だってそうだろう。
傍目に見るとリナの方が凄いのに、それをソーマは圧倒していたのだ。
当たり前のことしかしていないのに、相手をねじ伏せる。
それはつまり、それほど実力が離れているということだ。
ソーマの剣舞は、いつも見ている。
毎日見てもつい見惚れてしまうほど、それが綺麗だということは分かっていたが、ソーマが誰かと剣を合わせるのを見たのはこれで二回目だ。
最初の時も、確かに凄いとは思っていた。
だがそんなものは、まだ全然だったのだ。
ソーマの凄さは、相手がいて初めて分かる類のものであり……そしてそれは、特級相手でさえ底が見えていない。
果たしてそれはどれほどのものなのか……。
分かるのはただ、ソーマが只者ではないという、分かりきったことだけであった。
そしてアイナは、そんな相手から、魔法を使えるようにして欲しいと頼まれているのだ。
それを考えると、誇らしいような、何とも言えないような感情が湧きあがってくるが……ただ一つだけ分かっているのは、それはソーマが居なければ、ソーマと会わなければ、起こりうるはずもなかったということである。
楽しいなと、ふと思った。
嬉しいなと、そんなことを思った。
こんなことを思うなんて、思えるなんて、一年前には考えられるはずもなかったことであり――
「――ようやく見つけました」
だから、忘れていたのだ。
「……え?」
「いや、本当に探しましたよ……まさかこんなところにいらっしゃるとは、思いもしませんでしたから」
幸せなんていうものは、些細な切欠一つで、簡単に壊れてしまうのだということを。
「……アルベルト?」
「はい。お久しぶりです、姫様」
震えた声に返るのは、しっかりと頭の下げられた礼。
その後で上げられた顔は、見知ったものであり……だがアイナの心に喜びが浮かび上がってくることはなかった。
逆に、心が冷えていくのを自覚しながら、アイナはその顔をただ呆然と眺めていたのであった。




