少女と子供 後編
――昔と同じように、軽く手合わせでもしてみるであるか?
ソーマからかけられたその言葉に、リナは一も二もなく頷いていた。
本当は自分から言おうと思っていたのだが、向こうから言ってくれたのであればより都合がいい。
アイナという名だと紹介された少女が、離れた場所へと歩いていくのを眺めながら、リナは口元をほんの少し緩める。
これで、邪魔が入ることもない。
「さて、そろそろいいであるか?」
「はい、大丈夫なのです」
念のために手元を確認しながら、ソーマの言葉に頷く。
握っているそれは、そこら辺に落ちていたのを拾った木の棒だ。
ソーマの手にも似たようなものが握られており、その見た目もあって傍から見れば棒遊びをしているようにしか見えないだろう。
いや、それはきっと正しい。
かつてリナが目にしたものは、きっとそういうものであった。
そして拾ったというよりは、用意していたものを持ってきた、という様子だったソーマを見るに、今もそれは続けられているのだろう。
おそらくはアイナもそれを見ていたのであり……だから、何故なのかと思わざるをえなかった。
だって見ていたのならば、気付いていたはずだろう。
それが正真正銘の、ただの棒遊びだということに。
あの頃のリナはそれに気付くことが出来なかったが、それは様々な要素が絡み合ったが故だった。
だがあの少女は違うはずであり、何よりも、二人の親しそうな様子を見る限り、おそらくは何度もそれを見ているはずである。
最初は気付けなかったとしても、そのうちそれが棒遊びなのだということは、気付けないはずがないだろう。
そこで指摘してくれていれば、リナがこんなことをする必要も――
「……いえ、それはただの八つ当たりなのです」
これを――完膚なきまでソーマを叩きのめし、現実を教えることを決めたのは、リナ自身なのだ。
そこには、他に誰の責任もない。
たとえ恨まれたところで……それもまた、リナが背負うと決めたのだ。
それにそもそも、リナには他人を糾弾出来る権利がない。
リナもまた、さっさとその事実を告げていればよかったのだ。
スキルがないのだから、何をやっても無駄なのだと。
それはただの棒遊びでしかないのだと。
そう指摘するべきだったのである。
だがその後悔も、今日これまでだ。
それを確認するように、その思いを込めるように、手元のそれを握り締めた。
「それでは……いくのです」
「うむ、来るがいいのである」
鷹揚に頷くソーマの構えは、構えとも呼べないようなものだ。
ソーマとは違い、武術も学ぶようになったリナには、それがよく分かる。
そんなソーマをこれ以上見ていたくなかったため、リナは即座に終わらせることを決めた。
構え――一歩の踏み込みだけで、ソーマの懐へと入り込む。
多分ソーマは何も分からないうちに終わるだろう。
それでいい。
それがいい。
圧倒的な力と現実を知って、どうか無様な真似は、これで最後にして欲しい。
そんな思いを込めて――全力で、手加減をした一撃を放った。
――剣術特級・精神集中・手加減:斬撃・手抜き。
それはソーマを舐めてかかってのものではなかった。
いや、ある意味ではそれも間違ってはいないのだが……それはソーマのことを考えてのものだ。
特級というのは、上級の上。
天才の中でもさらに天才と呼ばれるものだけが持ちうる、世界で数人しか所持者のいない特別なスキルである。
それを使っての剣技など、最早災害と同等だ。
木の棒を使ってですら、人の身体など簡単にバラバラになってしまうだろう。
相手が何のスキルも持っていないというのならば、尚更だ。
だからリナは、どれだけソーマが瀕死の重傷となったところで死ぬことだけはないように、そのことにだけ全ての力を込めて集中し――
「――え?」
――故に、当然の如く、地面に仰向けになって転がっていた。
何が起こったのか分からなかった。
いや、違う。
理解したくなかった。
起こったことなど単純だ。
懐に入って振り抜いた斬撃を、ふざけにふざけたそれを、当たり前のようにソーマに受け流され、カウンターで頭部に一撃を叩き込まれたのである。
それがあまりに予想外だったため、そのまま足をもつれさせて、仰向けに倒れこんだ。
それが今起こったことの全てであった。
だがそれは、有り得ないことだ。
どれだけ手加減し、仮にふざけたところで、特級であるならば上級にすら負けようがない。
特級とは、故に特級なのであって――
「ふむ……確かに手合わせるとは言っても、所詮遊びのようなものではあるが……幾ら何でも遊びすぎであるぞ?」
「――っ!?」
瞬間、馬鹿にされたと感じた。
お前はこの程度なのかと、そう言われた気がしたのだ。
実際のところで言えば、馬鹿にしているのはリナの方である。
全力での手加減など、何をどう言い繕ったところで、馬鹿にしている以外に捉えられる者はいないだろう。
だがその事実に反して、そこに倒れているのはリナであった。
……いや、或いはだからこそなのかもしれない。
その構図は、本当はリナが望んでいた通りのことであったから。
「……っ!」
浮かび上がったその思考を打ち消すように、立ち上がったのと同時に地を蹴り、腕を振り下ろした。
それは先のものとは比べ物にならないほどのものであり――だがやはり、常識が頭から抜けきれなかったが故のものであり。
――剣術特級・精神集中・手加減:斬撃。
ふぅ、と、溜息が聞こえた直後、頭部に衝撃を感じた。
それでも今度は無様な姿を見せなかったのは、頭の何処かでその予測が出来ていたからだろう。
頭の中の冷静な――或いは、理想の部分が、今も囁いている。
その結果は当然だと。
兄様ならば、その程度出来ないわけがないだろうと。
だが頭の中の大部分を占める現実的な部分が、声高に叫ぶ。
そんなことはないと。
そんなことは、有り得てはいけないと。
だって。
だってそうじゃなければおかしい。
そうじゃなければ嘘だろう。
スキルを持っていない兄が、本当は……本当に、無能でないというのならば。
何故兄は今、あんな扱いをされているというのか。
道理に合わない。
辻褄が合わない。
無能故に排斥され、いないものとして扱われるというのならば……兄がそんな目に合う理由など、何処にもなかった!
――剣術特級・精神集中・一念通天:一刀両断。
「ふむ……悪くはないであるが、まだまだであるな」
思いに押されるように、思わず全力で放った一撃は、しかし呆気ないぐらい簡単に流された。
ぽこんと頭を叩かれ、だがそこで止まる事がなかったのは、納得がいかなかったからだろう。
そう、納得がいかなかったのだ。
――剣術特級・精神集中・一念通天・乱舞:桜花・百花繚乱。
踏み込み、振るい、踏み込み、振るい……その度に頭を叩かれる。
まるで楽器にでもなった気分だった。
そしてここ一年の間に経験してきた出来事が、同時に頭を過ぎっていく。
リナにとって、ここ一年の間の中で最も印象に残ったことは何かと言えば、やはりよく褒められた、ということだろう。
次期公爵家当主としてパーティーなどに出席し、現在次期公爵家当主として相応しくなれるように勉強していると言えば、その歳でもうかと褒められた。
スキルの話に移り、剣術の特級を持っていると言えば、これでこの国も安泰だなと絶賛された。
それは外だけの話ではなく、内でもそうだ。
学んでいることを理解し、次に進むたびに褒められた。
さすがだと、教えている自分達も鼻が高いと、家庭教師の人達からは毎日のように称賛の言葉を貰った。
中でも最もその言葉を贈ってくれたのは、やはり母だろう。
何でもないような小さなことでも、絶えず褒めてくれ、褒めてくれない日は、おそらく一日もなかった。
何をしても、何を言っても母は褒めてくれたのだ。
まるでもう褒めることは出来ない誰かの分も、褒めるように。
一年の間に、本当に沢山褒められた。
知ってる人達からも、知らない人達からも。
沢山沢山褒められて。
喜んで。
――心の底では、これっぽっちも嬉しくなかった。
――剣術特級・精神集中・一念通天・怪力無双:奥義一閃。
「ふーむ……本当に悪くないのであるが、どうにもあと一つ足りない、というところであるな。もしかして、人と鍛錬したことはあまりないのであるか?」
それは当然のことだろう。
特級の相手を出来るのは、特級のみだ。
上級でさえ、こちらが真面目にやっては一合と持たないのである。
というかそもそも、剣術の上級を持つ人物とは、即ち一流の剣士だ。
そんな相手が家庭教師などを勤めるわけもなく、その上は望むのすら間違いである。
故に当然のように、剣術の講師としてやってきた人は中級を持つ人だった。
まあ本当は、それでさえ十分に贅沢なのだけど、だから剣術の授業は、常に自分一人で行うものだ。
その人は言葉で教えようとするだけで、ただ、しっかりと教わってはいる。
基本的な剣の握り方から始まり、振り方、歩法。
心の持ちようまで、様々なものを。
畏怖の目で見られながらも、真面目に頑張っているのだ。
だから。
今日二人の姿を見た時に最初に思ったことは、多分羨ましいということだった。
――剣術特級・精神集中・一念通天・怪力無双・気配遮断中級:絶・暗剣殺。
そんな感情に後を押されたのだろうか。
次の瞬間にリナが放っていたのは、一年剣術の授業を受けた末に身に付けた、集大成とでも呼べるものであった。
もっとも厳密に言うならば、それはそこまで複雑なものでもない。
単純に現在リナが出来ることを全て合わせたという、それだけのものだ。
だがその効果は、単純故に絶大。
剣の出だしと、その軌跡が読めない。
剣技というよりは、暗殺技とでも呼んだ方が近いものであり――
「お、今のは悪くなかったであるな。ただ、もう少し今の前の動きも考えるべきであったな。そこから動きがバレバレなのである」
しかしやはり当たり前のように受け流され、頭を叩かれた。
それでもそこで諦めることがなかったのは、もうここまで来ると、意地だ。
何としても一撃をくらわせるべく、ひたすらに動く。
それはやっぱり、そう……納得がいかなかったから。
例えばそれは、外で自分を褒める人達が、ソーマのことを知らないことであったり。
家庭教師の中で自分を褒めるのは、ソーマのことをまともに知らない人達であったり。
その人達が、自分のことを褒める際、誰かと比べ、誰かとは違って、などと言いたげな態度であることだったり。
ソーマのことを知っている人達の場合は、褒めるにしても、ちょっと何か言いたいことがありそうだったり。
母の態度だったり。
ソーマがそういった全てのことを、まるで気にしている様子がないことだったりだ。
それが何よりも、リナは納得がいかなかった。
自分のやってきた全てが、無意味だと言われているような気がしたからだ。
自分が学んできた全てが。
頑張ってきた一年が。
一人でも磨いてきた剣技が。
全部。
だがそれは認められなかった。
認めるわけにはいかなかった。
当たり前の話だ。
だって、それ以外に選択肢はなかった。
それ以外を選ぶつもりはなかった。
それを否定されるというのならば――
「……わたしは……私は――!」
――天の剣・剣術特級・限界突破・人類の裁定者:星の剣。
覚えているのは、ただ全力で腕を振るったということだけであった。




